立憲民主党と共産党へのギモン

衆議院選挙を前にして、立憲民主党が共産党と選挙協力に踏み出そうとしている。

何を考えているのだろうか。

「立憲」の名称通り、憲法を堅持する方針を持っているはずなのが、立憲民主党である。しかし、共産党は違う。「生産手段の社会化」(党綱領より)を目指している党である。「生活手段」の私有は認める、とはしてあるものの、生活手段と生産手段の線引きには言及されていない。

そもそも生産手段とは一般に、生産に必要な土地、建物、機械、原材料、燃料等をいう。資本主義国家においてはこれらを所有しているのは「資本家」か「地主」である。しかし、いくら資本家や地主が生産手段を所有していても、労働者が労働しなければ生産物は生産できない。生産物には生産手段にない価値が付け加わっている(付加価値)が、これらは労働によって生み出されたものであり、資本家にこれらを用意した功績はあるにしても、本来はすべて労働者に帰さなければならない。しかし、資本家は労働に対する対価を賃金という形で支払ってはいるものの、その金額は不当に安く、付加価値による利潤のほとんどは資本家によって「搾取」されている。これを改めるには、資本家や地主が独占している生産手段を社会化し、労働者が管理するしかない。

以上が、私の理解している社会主義の論理である。現在の日本にあっては個人商店でない限り、生産手段の所有者は「株主」である。株主の所有する生産手段を社会化(つまりは、国有化)するということである。共産党も「個々の資本家が持っている工場や機械などの生産手段を働く人たちの手に移すこと」とはっきり言っている。これが私有財産制(憲法第29条)の否定につながらないとなぜ思うのだろうか。

そもそもこれまで存在してきた社会主義国も同じものを目指していたはずである。しかし、成功例はない。共産党はそれらを「社会主義ではない」として、ソ連や中国を否定しているが、自分たちの目指す共産主義社会を「資本主義のもとで人々のたたかいによって勝ち取った自由と民主主義をすべて引き継ぎ、豊かに花開かせる社会であり、すべての人が自分の持つ力をいきいきと花開かせることができる社会」としているが、社会化した生産手段を、誰が、どのように管理し、そこでどのように労働が行われ、どのように分配が行われるのか、という具体的な共産主義像は提示できていない。これを信じろという方が無理である。

共産党が綱領を目指すなら、憲法の改正は必須条件なのである。なぜ立憲民主党はこんなところと組むのだろうか。

そもそも日本共産党は、現憲法の成立に反対した唯一の党である。その反対理由のなかには、「天皇制」だけではなく、9条の「戦力の放棄」はオカシイ、というものまで入っていた。戦争には正しくない不正の戦争と正しい戦争があるとして「一体この憲法草案に戦争一般放棄という形でなしに、我々はこれを侵略戦争の放棄、こうするのがもっと的確ではないか、この問題に付て我々共産党はこういう風に主張している 」としているのだ。マルクス・レーニン主義によると資本主義下の国の憲法はブルジョワ憲法であり、憲法、議会、裁判所もすべて破壊の対象である。日本共産党にとっては現憲法は「国家機構の組織と作用を含めた基本の法であるが故に、支配階級が人民を支配する手段」(「憲法問題と日本共産党」)でしかないので「わが党があきらかにした革命路線にしたがって、人民の民主主義革命が達成されたあかつきには、確立される人民権力にふさわしいようにあたらしい憲法がつくられることは当然」(前掲書)なのである。

この方針はいつ変わったのだろうか。以前このような主張だったが今は違う、というのなら「変わりました」というべきである。現綱領では「二段階革命論」をとっている。だから当面は憲法改正は言わない。現憲法下で支持を広げる。その後、社会主義に移行する。その時は「憲法改定」に反対する人は少数派になっているから大丈夫、ということであろう。過去を否定できない党。変化したことを認められない党。だから「本当は変わってないのだろう」という懸念が消えず、信用できないのである。

変化を認めない、という意味では、1950年代の前半に、コミンフォルムからの押し付けとはいえ、51綱領をかかげて「暴力革命」を目指していた時期があったことも紛れもない事実。共産党は「分派のしたこと」と言い訳をするが、そもそも宮本憲治がコミンフォルムの意見を受けて、アメリカを解放軍として扱っていた当時の主流派(野坂参三、徳田球一ら)を攻撃(国際派)。当時の主流派は「所感」を発表して日本の状況を説明して対抗した(所感派)が、コミンフォルムの圧力を背景とした国際派に自己批判を迫られて作ったのが51綱領なので、この段階では一党あげて暴力路線を取ったのである。ましてやのちの書記長になる宮本憲治こそがその急先鋒なのである。「暴力革命しかない」という路線は「敵の出方」によってどうするか決める、という路線に変わり、その「敵の出方」という言葉は使わない、と変化してきたが、「紛らわしいから使わない」という説明はどう考えても間違っている。

また、現在共産党は、ソ連や中国の体制を「共産主義ではない」と否定しているが、そのスターリンが生きている間は共産党はソ連を礼賛していたし、フルシチョフのスターリン批判後は毛沢東にべったりだったではないか。ベトナム戦争で北軍を応援することを企画し、中国にソ連の武器輸送を手伝うことを提案したら、中国にけんもほろろに拒否されて、それから毛沢東との関係が冷えていったことなど、少し年がいった人間は知っている。ソ連と中国をなぜ、いつから批判するようになったのか。北朝鮮への「帰国事業」を最後まで推進していたのは共産党ではないか。この時北朝鮮を「地上の楽園」と呼んでいたではないか。いつから変わったのか?

ソ連型でもない、中国型でもない社会主義とはどのような社会主義なのか。現綱領にはまったく明らかではない。

「ずっと護憲」「ずっと平和主義」「ずっと暴力革命否定」「ずっとソ連、中国否定」すべてウソ。これだけウソのつける政党は他にないだろう。

なぜ「共産党は変わったのです」と言えないのか。それが言えないから「暴力革命の可能性が消えてない」と言われてしまう。

社会民主主義(現体制のもとで議会を通じて社会主義的な政策を実現する)になったとなぜ言えないのか。共産党という党名になぜ拘るのか。

もっとも「生産手段の社会化」には賛成できないから、もし「変わった」と言っても応援できないけどね。

立憲民主が本当に分からない。

#共産党

#暴力革命

#生産手段の社会化

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滋賀県の体育施設建設は無駄なのか。

最近は、SNSの利用が多くなっており、ブログ記事を書く機会がなかった。
しかし、長い文章はブログの方がふさわしい。今回は久しぶりに腹に据えかねて書くことにした。

2月19日、久しぶりに早く帰って、ABC放送の夕方の情報番組「キャスト」を見る機会があった。「ウエダのギモン」という特集で組まれていたのが、
滋賀国体開催にナゼ500億円かかる!? 県民一人あたり3万5千円の税金負担へというものだった。
 https://www.asahi.co.jp/cast/contents/?cast=sp&page=201902

私はそのあまりに酷い印象操作に驚いた。はなから「滋賀県には立派な体育施設は必要ない」という結論ありきの内容だったからだ。明らかに滋賀をバカにしている。

滋賀では2024年に国体を開催する予定だが、そのメイン会場は彦根に建設中の県立陸上競技場(20000人予定)である。
この完成予想図を見て上田アナの言った一言が許せなかった。

「ビジョンもついているんですか。オリンピックでもできそうな」

できる訳がない!
ビジョンがついていたらオリンピックができるとでもいうのだろうか。日本陸連の規定では、全国大会を開催できる第1種公認競技場の条件として「電光掲示盤を設置することが望ましい」とはっきりと明記してある。しかも国体後の活用方法としてサッカーでの利用を考えると、Jリーグの試合では必ずビジョンは必要となる。J1は観客席が固定席で20000人以上なので、これでもJ1の試合には使えないのである。

大阪のヤンマースタジアム長居(50000人)にも、兵庫県の神戸総合運動公園ユニバー記念競技場(45000人)にも、京都の西京極陸上競技場(20588人)にも、和歌山の紀三井寺陸上競技場(19200人)にも、ビジョンはついている。ならでんフィールドはビジョンはなさそうだが、収容人数は36000人と滋賀の計画中のものよりも多い。
滋賀の新競技場が突出して豪華な施設というわけではまったくないのである。
なのに上田アナは、なぜ「オリンピックでもできそうな」と言ったのか。それはこの国体が金を使いすぎる、という印象を番組の最初にアピールしたかったからに違いない。

滋賀が新しい陸上競技場を建設する必要があったのは、近畿で唯一、2011年から改定適用された規定をクリアした第1種公認陸上競技場(15000万人以上、サブトラックとして第3種競技場を併設)がないからである。日本陸連主催の全国大会の開催は第1種公認競技場でないとできない。前回の国体でメイン会場となった皇子山陸上競技場は観客席12000人と少なく、さらに夜間照明もない。第3種競技場も併設されていない。既設なので第1種Bの扱いにはなるが、改修が条件。大津市は改修を拒否したと聞いている。彦根の新競技場の前の競技場も2種であった。
番組では「当時の施設を利用すればもっと安く抑えられそうですよね」なんていっていたが、その当たりの事情をちゃんと取材したのだろうか?
もっとも、「新設するにしても高すぎる」という批判は可能である。他の同規模のスタジアムの建設費と比較すればよい。マスコミはそうした調査のプロのはずである。ぜひ、調べて報道してほしい。


さて、前回昭和54年「当時の施設」は今どうなっているか。番組では、その傷み具合を映像で一部紹介してはいた。しかし、すべてが検証されたわけではない。
ボクシング会場だった能登川スポーツセンター。行けば分かるがとてもじゃないが全国大会で使える状態ではない。
フェンシング会場だった五箇荘体育館。観覧席(ベンチ)は使用不可になっている。
また、例えば
剣道は今津中学校の狭い体育館で行われた。宿泊施設はマキノの民宿への分宿。会場への移動は陸上自衛隊の隊員輸送車だった。今回も同じようにできるか。当時でさえも選手監督から不満が寄せられたと聞いている。できるわけがない。
既存の体育館で観覧固定席があってかつ冷暖房施設が設置されているのは、県立体育館(固定席1905席)、県立武道館(剣道場の固定席250席)、守山市民体育館(固定席1000席)、野洲市総合体育館(固定席1216席)、布引運動公園体育館(同438席)、くらいしかない。あづちマリエートは空調設備が故障中(観覧席は申し訳程度)。
栗東市民体育館(同500席)も暖房が入ることは確認したが、冷房は分からない。これを加えても、7館しかないのである。瀬田公園体育館は冷暖房は入るが観覧席がない。座席数2000を超える体育館は存在せず、中体連や高体連の近畿大会でさえも開催可能なのは県立体育館しかないのが現状である。バスケットのレイクスターズのホームになっていることもあって県立体育館は熾烈な奪い合いになってきた。全国大会などできないのが現状なのである。
室内用50mプールも存在しない。ようは滋賀県は県民の健全な体育活動を保障してこなかったのである。
今回新たに、新県立体育館、草津市野村体育館、彦根市新市民体育センターが、建設中である。観覧席2000席超で空調の整備された体育館が、やっと3館になる。本当に喜ばしい。室内用プールも草津市に整備される。滋賀の体育施設がやっと他県に少し追いつく。そういう感覚なのである。(大津市は本当に何もしない。もう県庁所在地を返上したらどうか)


なのに県民の中にも「身の丈にあった」という謎の言葉を吐く人たちがいる。「キャスト」と同じ感覚なのだろう。滋賀県にはまともな施設は必要ないという、なんとも自らを卑下した、へりくだった人たちなのである。そもそも滋賀の「身の丈」とはどういうものだろうか。人口は26位。一人当たり都道府県民所得4位。都道府県民所得23位。人口増加率8位。大学生の人口比率3位。0才~24才の人口比率2位。滋賀は活気に満ち溢れ、将来性に富んでいる。全国からどんどん滋賀に人が来るようにすればいい。他県に行っても誇れる郷土滋賀を作ればいい。私はそう思う。「身の丈」という言葉は、郷土を矮小化する響きがある。「キャスト」なんか、滋賀のことを何もわかっていない。


番組の中の批判で納得できたのは「なぜこれまで整備してこなかったのか。今回一気にやるから負担が大きいのでは」という批判だけである。「もったいない」がキャッチフレーズの知事の時代、本当に何もかも実現できなかった。体育施設などまさに「優先順位」が下だったのである。今回の国体の開催にその知事が手を挙げた時、「何を言っているのか。本気か」と驚いたものである。
(いったん掲載しますが、さらに続けます。)

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教員免許更新制はやっぱりおかしい

教員免許更新講習を受けた。
やっぱり、意味がない制度である。すぐにでもなくすべきだ。

本来、教員免許更新制度とは、「教員免許状が教員として必要な資質能力を確実に保証する ものとなるようにするとともに、教員一人ひとりが常に緊張感を持って、自己の資質能力の向上の為に一層研鎮を積むようにするため」に導入されたものである。この導入理由にすでに疑問がある。

この制度が検討されていた段階で、すでに各都道府県では教育センターなどで研修を受けることができていた。無料で出張扱いであるが、自由参加なので、忙しい日常の業務を離れて参加することが難しいのが難点ではある。他に、初任者研修、2年次研修、3年次研修、5年経験者研修、10年研修もある。これらは強制的で、全員が受講しなければならない。

この制度に対する疑問は山ほどある。

導入当初に言われていた不適合教師の排除には、なんの役にも立たない。5日間毎日90分×4コマの講義を受けて、試験を受けて終り。これでどうやって不適合教師を見つけろというのか。

講義内容は、文科省の最新の方針と大学の論文を基にした最新事情が中心。現場から乖離した話が多く退屈であるとはいうものの、これはこれで全く役に立たないわけではないが、どうしてここで聞かねばならないのかが不明。私の専門の地歴・公民に関する講義は1コマのみ。必要な時間を確保するために、しかたなく体育や国語まで選択。何をしているのか、全くわからない苦痛な時間であった。アクティブラーニングについて座学で学ぶ、という矛盾。「自己の資質能力の向上の為に一層研鎮を積む」になっていない。

(やってみて分かったことだが、一つの大学ですべての講座を受講するのではなく、いろいろな大学で興味のあるものを受講すれば、まだましだったも知れないが、これも別に10年に一回学ばなければ免許が効力を失うという要件になるとはとても思えない)

要は、開講大学の臨時収入を確保するのが、この制度の唯一の利点ではないか。実際に講義の中で「みなさんのおかげでこのプロジェクターを購入しました」と言っていた。

今回認められた更新の期限は10年。つまり、64歳まで。はっきり言って次は絶対に更新しない。万単位の金を出して無駄な講義を受けることに、経済的にも体力的にも64歳の身が耐えられるとも思えない。ということは、多くの教員が再任用を退職する。以後免許は失効するので、講師不足になることは間違いない。

早く廃止するか、大きな見直しをするかしなければ、学校運営にマイナスの影響が出る。ここに予告しておく。

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塾の話

塾について書く。

私は塾を頭から否定はしない。

学校の授業では物足りなかったりする生徒が、目的を持って通うことはいいことだと思う。

しかし、学校での学習をやり切らないで塾へ通う生徒には、伸びない生徒が多い様に思う。

塾は学校の授業の予習復習の補助をしてくれるわけではない。予習復習の時間を、塾に通って他の学習に当てるのだから、どちらも中途半端になりやすいのである。自宅学習をする習慣が身についていない生徒が、成績が伸びないからといって塾に通っても、伸びない。そんなことを何度も指摘してきた。それが塾側に伝わって、恨まれたこともある。

「それでも塾に入れは何か伸びるのではないか」と思うのが親心である。
受験生の親となればなおさらである。

ある高校2年生の話。進学校といわれる学校に入学。成績は中位。スポーツ系の部活動に熱心になり、受験勉強のスタートは遅れた。誘われて、夏休みにT塾の無料夏季特別講習に短期間参加してみた程度。

そんな彼に、T塾から模試のお誘い。センター試験レベルの模試を受けたが、できるはずもない。保護者面談を奨められ、保護者と本人と塾長の3者の面談を。

「このままでは志望校は合格できません。この模試でわかったでしょう」
「通っていらっしゃる学校の指導体制はダメですよ。だから他校に追いつかれてる」
「うちのカリキュラムで必ず伸びますよ」

有名な塾なので考えてもいいが、家計は楽ではない。「料金は?」と聞いてみた。

「1講座いくら」の返事。ああ、現代文、古典、漢文、日本史、世界史、数学Ⅰなどひとつづつがその値段なら高くはない。そりゃそうだ。ビデオを見るんだから人件費は抑えられるはずだ。なるほど良心的、と思ったのもつかの間。一科目のなかが細かい講座に分割されていることが説明された。
「結局、受験科目すべてを受講するといくらになるんですか?」との問いに
「100万円!」
驚く二人に、続けて「パックで受講すれば安くなる」との説明。それでも70万円が必要とのこと。

無料で釣って、脅して、いったん高額料金を示して、その後少し安くして安心させる。
「これって詐欺の手口と同じでは」と腹が立った(実は通っている学校を批判されてすでに腹は立っていたらしい)ので、断って帰ったということである。

彼はその後、親に受験に必要な参考書等をすべて購入してもらい、部活引退後、長期の休みも毎日学校に通い、分からないところはすべて教師に質問して解決し、模試は学校で受ける模試を活用することで、学習を進めた。センター試験で目標点数を大幅に上回り、志望校に合格した。

今の例にもあったように、塾に中には、生徒の不安を煽るために学校の指導体制を批判する塾がある。これはまったくもってけしからんと思う。うそを交えて「あの学校の体制では伸びませんよ」というのである。

さらに我慢ならないのは、夏休みのまだ力が付ききっていない時期に、志望校を変更させる塾があることである。確実に合格する学校に変更させるのである。その生徒の人生などどうでもよく、実績をあげることしか考えていないのではないか。

塾について、腹に据えかねることが続いたので、普段考えていることをまとめて書き連ねてみた。

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礼儀と礼節と暴力と

日馬富士が貴ノ岩への暴行の理由に「礼儀と礼節を守らせるためだった」として、引退を表明した。
「礼儀と礼節」のために体罰を行う。これほど矛盾に満ちたことはない。体罰は最も「礼儀と礼節」から外れた行為であるからだ。
これは学校で体罰を行う教師のなかで使われた言い訳と同じである。「貴ノ岩が礼儀を踏み外してさえいなければ」という視点でこの問題をとらえ、暴力を過小に評価する論調があるが、そういう人のなかには、教師の体罰もあり得る、という考えの人がどうやらいそうだ。
剣道や柔道などの武道の世界にもそういう指導者かいる。いまだに体罰を行っている少年剣道の指導者も知っている。親はそれを承知でそこに子どもを通わせているのだ。子どもは強くはなるが、ただそれだけ。そもそもその指導者は礼節を欠いた人物で有名である。
もう一度言う。暴力ほど「礼儀と礼節」に外れた行為はない。日馬富士は間違っている。

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いわゆる「リベラル」のこと

「リベラル」を名乗る政党がある。

 

「リベラル」の定義は毎日新聞によると「リベラルは英語の「自由な」に由来し、個人の自由を重んじて社会を変えていく立場で、欧米の歴史に根ざしている。」「日本のリベラルのルーツは戦後の革新勢力にある。」「今のリベラルは『革新マイナス社会主義』で人権・平和の理念を掲げている」とある。

米ソ冷戦の終焉とともに「革新」という名称が時代に合わなくなって、「リベラル」を名乗りだしたという事だ。

 

アメリカでは民主党がリベラルと言われる。そもそも建国の際に、連邦政府の権限を強化する方向性を持っていた勢力が共和党になり、州政府の権限を強くしようとした勢力が民主党になった。共和党は自由主義を標榜しているのが、民主党はオバマケアに見られるように、国民の生活をケアする方向にも動く。

 

日本の自民党にもリベラル派はいる。岸田文雄政調会長の率いる岸田派(宏池会)がそうである。小選挙区制度になって、おとなしくなったイメージがあるけども。

 

そうしたリベラル派と比べて、日本の野党のリベラル派はどうであろうか。

先の毎日新聞を引用する。

「国際医療福祉大の川上和久教授(政治心理学)は「社会民主主義を掲げる欧州のリベラル政党は福祉を重視し、大きな政府を志向する。それには税負担が欠かせない」とした上で、「日本のリベラル勢力は福祉重視を訴えても必要な負担増をこれまで国民にきちんと求めてこなかった」と指摘する。」

 

まさにその通りだと思う。主張のための主張。実現する気のない「政策」の名を借りた票集めのためのカモフラージュ。私にはそうとしか見えない。

 

多数派の与党が提案した政策の、難点を指摘するのはよい。危険性を挙げるのもよい。それが野党の役割だ。しかし、対案・修正案を提案しなければ議論にならない。共産党や社民党が、重要法案に対して自分たちの主張を少しでも反映させようと、説得力のある修正案を出したことがあっただろうか。

 

安保法制を例に取れば、自民党の案に「与党内野党」として修正をかけたのが公明党であった。さらに野党として修正を要求したのが日本維新の会であった。これも説得力のある修正であったように思う。安保法制の理解に最も役立ったのは、私にとっては維新の質疑であった。

しかし、民主党、社民党、共産党は反対!廃案!のみ。大した対案も出さずに、議決の際に国会内にプラカードまで持ち込んで大騒ぎして「強行採決」を演出したものの、結局は通してしまった。できあがったシアリオ通り。本気で廃案にできると思っている節など微塵も感じられなかった。こういうのを「少数者の横暴」という。反対の世論を掻き立てることで、次の選挙で票が多くなることが目的だったのだろう。多数者(与党)の側に、少数意見に耳を傾ける必要性があるのは当たり前としても、修正案を出さない反対にいつまでも付き合わなければならない謂れはない。

 

あんなことをしていた人たちが、希望の党で保守を名乗るという。人によっては「あの時は党の方針だったからしかたなかった」なんて言っている。面白いものだ。今度こそは本音で政治に取り組む、ということなら歓迎するが、どこまで信用すればいいのだろうか。

 

共産・社民の体質は変わらないでしょう。立憲民主党はどうだろうか。新しい政党が成立したばかりのところである。今は人気があるようだが、これまでの民主・民進党とは違うところを国民に見せないと、すぐに呆れられてしまうだろう。少~し期待している私であるが、さて、どうなるだろうか。

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希望の党について

久しぶりの書き込みである。

このところ、少しSNSに傾注したところもあり、パソコンに向かうのが億劫でなかなかブログを書く気にならなかった。これほど長く離れていたことに少し驚いている。

突然発足した「希望の党」が新しい流れを作りつつある。これについての感想を書いておきたい。

戦後、自民政権(その前身を含む)を退陣に追い込んだ例は、3回ある。

昭和47年の社会党・片山哲内閣が最初である。この内閣は日本国憲法下における最初の内閣で、選挙によって政権を得た最初の内閣なので、その後の政権とは少し事情が違うと言えるかもしれない。

二回目が、平成4年の非自民非共産連立内閣である。これが連立時代の始まりとなった。佐川急便事件、選挙制度改革の先延ばしに反発した世論の大勢に、自民党内からも造反が続き、宮沢内閣不信任決議が可決。自民から分かれた新生党新党さきがけそれまで野党であった民社党公明党社民連民改連社会党に加えて日本新党が結成され、八党連立内閣が結成され、政権を握った。党首には日本新党を結成して国政に躍り出た元熊本県知事・細川護熙を担いだ。しかし、新生党と社会党との路線対立、細川のスキャンダルと突如の政権投げだしで、社会党とさきがけが離脱。新進党の結成も及ばず、羽田孜内閣が退陣となった。

つぎが八年前の平成21年の鳩山内閣である。民主党はさきがけ系、新生党系、日本新党系、さらには社民党右派系も加わり、右から左までの選挙互助会的な政党である。「政権を取れば何でもできる」と言いたい放題のバラ色のマニフェストを発表して大勝したが、結局何もできずに野田内閣で下野した。

さて、今回の「希望の党」である。選挙互助会的な色合いはごまかせない。公約も「安保法制OK」「原発廃止」「一院制の実現」などの大枠は掲げられているものの、具体性に欠ける。しかし、これまでの勢力と違うところは、左派を意識的に排除しようとしているところである。小池代表は、平成4年日本新党での初当選である。八党連立の崩壊も見ている。小沢一郎の側近として、新進党崩壊後の自由党に参加。保守党を経て自民党へ、という経歴である。政権の崩壊、野党暮らし、連立小党の悲哀。いろいろなことを経験したようだ。
だからであろうか。大胆に見える今回の挑戦にも、過去の反省が生かされているように見える。

まだまだ不安定だがなかなか、面白い。

こういう勢力が出てこなかったから、自民党の一人一人の国会議員にゆるみがなくならないのである。相次ぐ問題発言、不倫にいそしむ議員(自民だけじゃないけど)。若手の大臣政務官に、肩書を振り回して飲み屋で女の子に声をかけまくっているやつが複数いるらしい。もう一度お灸をすえるいい機会ではないか、と私は思っている。

民進党も左派系だけで一つの政党を作ればよいのである。他人を批判することにしか存在意義を見出せない社民、共産は話にならない。民進党左派は、現実的な提案をするヨーロッパ型の社会民主政党を目指せば、存在意義は大いにある。保守派と別れることは、やむなく共産党に行かざるを得なくなっている真面目で冷静なリベラル票を集めるチャンスになるのではないか。連合も付いてこよう。(数日後に立憲民主党が結成された。我が意を得たりである)

こうなると、公明党の動きが面白い。八党連立、新進党、自自公連立、自公保連立、自公連立と、長く与党を経験し、実務家集団の色合いを日に日に濃くしている。自民も公明党を必要としている。それは都議選で証明された。「希望の党」も欲しいに違いない。参議院議員の山口代表を「総理大臣に」などという実現不可能なことを口走ったのは、自民との間を分離する目的とともに公明党懐柔の意味もあるのではないか。しかし、公明党は八党連立を組んだ時の八党で現存する唯一の政党である。あの体制の痛みを忘れていないだろう。もし「希望の党」が政権を取るようなことがあっても、すぐには公明党は動かないであろうと私は思う。

久しぶりに、今考えていることを書いてみた。それにしても面白い政局である。

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軽減税率に関する報道への違和感3

3回目である。二つのことに触れてみる。

○軽減税率で徴収されない税(約1兆円)の一部を使って低所得者に給付した方が効率的

いわゆる「給付付き税額控除」である。

いったん高率の税を支払う必要があることから、痛税感を和らげる効果は薄い。
所得の把捉と線引きが難しい。
不正受給の防ぎ方が難しい。

などが言われてはいるものの、一考を要する考え方である。

マイナンバーカードを使っての方法を財務省が提案したが、公明党から一蹴された経緯は記憶に新しい。

ただし、一つ疑問がある。一定以下の所得の方に給付を行うという考え方は、定額給付金などで行ってきた経緯があるが、その時マスコミはこぞって「バラマキだ」と批判したのではなかったのか?
多くのコメンテーターに言いたい。
軽減税率にケチをつけ、給付方式を主張するなら、その前にその前歴を総括するべきである。

○「どうせ選挙目当て」という批判について

コメンテーターにとって、こういっておけばとりあえず恰好がつく、という投げセリフ。何も調べなくても、考えなくても、その場限りのええかっこしいができるセリフ。
それが「どうせ選挙目当てでしょ」「あれはバラマキ」
大っ嫌いなセリフである。

国民に受けのいい政策には「選挙目当て」、国民に負担を強いる政策には「庶民の気持ちが分かってない」とりあえずこれを言っておけばニュースバラエティは形が作れるのだ。

問題は政策の中身である。「選挙目当て」という批判を怖がっていては、国民に寄り添った政策を提案できないことになるではないか。
実に愚かなセリフである。

以上3回にわたって、軽減税率に関わるマスコミ報道への違和感を述べてきた。
要は財務省とマスコミが歩調を合わせる姿に違和感を感じるのだ。普段は偉そうに政権批判をしゃべっているコメンテーターも、財務省のお墨付きをもらって安心して批判できるのだろう。
「マスコミは自分の意見を言うよりも、国民に議論の材料をすべて提供せよ。」
今回も深くそう感じる。
 

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軽減税率に関わる報道への違和感 2

前回の続きである。軽減税率に関する報道のどこに私が違和感を感じているのか。

二つ目に、軽減税率を導入する財源がない、というものである。

当たり前のことであるが、まだ消費税は10%になっていない。現在8%で運営されているのだ。軽減税率とは「消費税10%時に食料品を8%据え置く」ということであって「食料品以外の税率を10%にあげる」ということである。
つまり、新たな財源が生まれるという話であって本来財源がなくなるという話ではない。表現の仕方が明らかにオカシイ。
そもそもこんな話が出てくるということは、与党が先の衆議院選挙で公約した軽減税率の導入を無視するつもりで、財務省は予算を考えていた、ということである。国民もバカにされたものである。なのに、なんだか丸め込まれて、軽減税率に反対する人が増えているという。だまされやすいにもほどがある。

普段官僚政治を批判しているマスコミが、なぜか今回は選挙公約を実現しようとしている政党を批判している。やはり「マスコミの裏に財務省あり」と見えてしかたがない。

そもそもなぜ「消費税が足りなくなれば社会保障費を削らざるを得ない」のか。消費増税分を社会保障の充実に充てることは確認されているが、社会保障費の財源は消費税だけではない。

これは脅迫に等しい発言ではなかったのか?

なぜ「防衛費を削らざるを得ない」「公共事業費を削らざるを得ない」ではないのか?
いやなぜ「歳出全体のあり方を見直さざるを得ない」ではないのか?

財務省がそういわないのはまだ理解できるが、マスコミがそういわないのは何故なのか?

軽減税率に関わる報道への違和感

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軽減税率に関わる報道への違和感

軽減税率の導入が世間を賑わせている。

「消費税には低所得者ほど納税率が高くなる逆進性がある。せめて生きていくのに最低必要な食料品の税率を抑えることで、低額所得者の痛税感逆進性を緩和する」
私は基本的に賛成である。

いままでも、財務省が政治家に抵抗する場面になると、なにか違和感のある報道に接することがあった。
今回、政治家が政権公約を実現しようとしたら、自民党税調と財務省が待ったをかけて、それをマスコミが応援している。
違和感を感じない訳にはいかない。

まずは、「軽減税率を導入すると高額所得者のほうが減税額が大きくなる」という批判に対してである。


これは数字のマジックそのものである。ここでは「率」と「額」がすり替えられている。
そもそも、消費税は、税率が上がると低所得者層の負担税が上がる傾向がある(逆進性がある。消費税そのものに反対する人がもっとも強調する点)一方で、高額所得者層のほうがより多くの税を負担することになる、という税なのである。
 逆に言うと
「税をさげれば逆進性は緩和するが、高額を収めていた高額所得者の税がより減る」という特徴をもともと持っている税なのである。
 

 例で見てみよう。

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これが逆進性の説明。低額所得者のほうが5ポイント高い税率で納税していることになる。しかし、高額納税者の方が多い額を納税している。

さて、今かりに消費税を8%に下げてみると、どうなるだろう。

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2000万円の所得の方は20万円減額、200万円の所得の方は4万円の減額となる一方、税率ぱ4ポイント差となり逆進性は緩和されている。
これは消費税を廃止する時にも同じことが言える。共産党に「高額所得者のほうが多く減額されるから消費税廃止に反対だ」といったらどうだろうか?  それはオカシイというだろう。しかし共産党は軽減税率の導入に「高額所得者のほうが減税額が大きくなる」といっている。矛盾した話である。

さて、食料品のみ税率を8%に据え置いた場合を具体的に見てみよう。
家計に占める食料品支出の割合は、低額所得者の方が高額所得者よりも高い。総務省の2014年度家計調査によると、平均的な食料品支出割合は24.0%なので、今かりに、低額所得者の食料品支出割合を30%、高額所得者の食料品支出割合を20%としてみた。
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一律10%の場合と比べると、
   高額所得者 4万      円の減額(0.2%の減率)
   低額所得者 1万2千円の減額(0.6%の減率)
確かに高額所得者の方が減は大きいが、減は低額所得者の方が大きい。つまり、逆進性は緩和されている。それも、食料品で緩和されている、という点が重要なのである。

軽減税率を額で論じるなら、金持ちにとっての4万円と庶民にとっての1万2千円はどちらに重みがあるか、ということを論じるべきなのである。庶民の痛税感を和らげる、というのにそういう議論がまったく抜け落ちているのはどういうことなのだろうか。

こんなに当たり前のことを、数値をすり替えて批判するテレビのコメンテーター、新聞記者には庶民感覚のかけらもないのではないだろうか。
私はこういう報道に「役人感覚」を感じるのだ。裏に財務省がいると考えているのはそういう感覚の問題でもある。

続き 軽減税率に関わる報道への違和感2

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