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ついに来た!夏休み最終日

 ついにこの日が来てしまった。教師の夏休みがいそがしくなったとかいっても、夏休みに接するのはクラブや補習に参加するまじめな生徒と教師だけ(ときどき問題を起こした生徒の対応があるけど)。ほとんど定時で帰宅できた。明日からはそうはいかない。覚悟の日々が始まるのである。

 とはいうものの、明日から始まるということに幸せを感じるべきなのかもしれない。多くの学校は、授業時間確保の名の下にすでに前倒しで始まっている。前にも書いたが暑くって集中できないから夏休みなのである。始業を前倒しするなんてどうかしている。夏休みをなんだと思っているのだろうか。だいたい授業時間を減らしたのは文部科学省である。「ゆとり教育」は目先の学力よりも考える力を優先することが目的だったのに、考える力がついたかどうかという総括もなしに「学力が落ちた」というマスコミのキャンペーンのなかでなしくずしになった。つくづく覚悟のつづかない国民性である。(小泉改革も同じ。改革には痛みを伴う。痛みを感じても改革をしなければという覚悟で支援したはずだったのに、「痛いやないけ」とマスコミがいうと飛びつくのである)

 だいたい日本の学校・親は世話を焼きすぎるのだ。だから自分で切り開く力がつかない。実際に「こいつは力があるな」と思う生徒は、自分で勉強する力をもっている生徒である。進学校に進学し進学塾に通ってみても、学校頼み、塾頼み、何かに頼っている=何かのせいにしている生徒は思ったより伸びないのである(塾の講師が自分の卒業生だったりするとより驚きである。自分の限られた受験体験しか語れない学生に、多様な進学・就職指導ができるのだろうか)。浪人生の中にも予備校頼みの浪人生が増えているときいた。苦労しないから力がつかない。有名大学学生が塾生徒・友人・母親を殺害したという事件は、報道で聞く限り動機があまりにも幼稚である。力はないのにプライドだけはどこまでも高い。今の学生の姿である。

 夏休みをもとにもどせば、力がつくというものではもちろんない。なんだか、明日からのプレッシャーと相まって最近使っていない頭で考えると、こんな話になってしまったということである。

 あーあ、始まるか!

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ワイドショーは探偵か!?

 以前から、マスコミのあり方に疑問があった。今日は刑事事件について書いてみたい。 凶悪犯罪が増加していると言われるが、その責任はマスコミなかんずくワイドショーにあると思えてならないのだ。

 彼らは自分たちが「夜討ち朝駆け」で担当刑事から得た限られた情報をこれみよがしに垂れ流す。「~ということが本日未明までに分かりました」という表現があるが、本日未明に担当刑事から教えてもらったという意味なのだ。それが本当に確実な情報であるかどうかはこの際どうでもよい。他社に先駆けて報道することにのみ価値があるのである。その上で地元住民に何回も取材してうわさをひろうのも地域のうわさをつかむのと同時に、警察の捜査を追いかけて、今警察が誰を狙っているのかを知ろうとするのである。かくして警察は何の発表もしていないのに放送は始まる。

 画面ではコメンテーターが一応事件の残虐性に憤った上で不確実な情報をもとに推理を始める。おどろおどろしい音楽をならして「疑惑の四時間」「白髪の男」などと小説のように章立て。推理のねたが足りなくなれば、こんどは猟奇劇に早変わり。これでもかこれでもかとばかりに、遺体の様子がどうであったかということを、事細かに説明する。ワイドショーはそういう、推理ショー、残虐劇になっているではないか!こわいもの見たさ、人ごとの悲劇に怒って正義を達成したような気分になりたい視聴者の希望を満足し、結果として残虐嗜好・幼児趣味の連中を満足させ、犯罪を増発させているのではないか。

 だいたいあの犯人逮捕の時の、護送車をヘリで追う手法は何がしたいのだろう。完全にショーである。

 こうしたショー演出に偏った取材手法が多くのえん罪を生んできた歴史をいったいどう思っているのだろうか。「ワイドショーなんだからショーでいい。真実の追求よりもショー的な要素が優先さ」とでもいうのだろうか。週刊新潮の社長が「うちは文芸誌だから必ずしも真実を掲載しなくてもいい」とほざいたが、それと同じ次元か。しかし公の電波を使ってウソ・未確定事実・推論を確定的な手法で垂れ流し続ける、その影響力は大きい。

 松本サリン事件、ロス疑惑はマスコミが先導したえん罪事件として有名である。犯罪報道の必要性は、原因を追及し再発を防止することが本来の使命であるはずだ。さらに犯人に関する情報提供や犯人に社会的制裁を加えることもあるかもしれない。しかし、被害者の遺族を傷つけ周辺住民をも巻き込んで視聴率を稼ぐことは目的でなかったはずだ。

 もう、マスコミは限界だ。自分ではコントロールできないのではないか。

 さて、私、実はえん罪事件に興味があって、いくらか調べている内にいろんなことがわかってきました。いずれどこかで、書かしていただきます。

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高校教師の反省

 同窓会の連絡が来た。初回に紹介した同窓会とは違う学年のものである。それはそれでいいのだが「3クラス合同でやるので他のクラスの担任にも呼びかけてくれ」とのたまわく。おや?何かが違う。

 私の常識では同窓会は生徒=卒業生のもの。そこに恩師がゲストとして招かれる。招かれる側が運営側に組み込まれるのはおかしい。

 思い返せばこの学年は、学校内でエネルギーを発揮せず、校外に興味が向いていた。無断アルバイトや有職無職少年とのつきあいから生まれる喫煙・飲酒・深夜徘徊等の問題が多かった。クラブや学園祭等の自主活動も盛り上がらず、どんどん教員主導型になっていった。怠学傾向も強く、手を焼く生徒が多かった。「何とか卒業を」ということが中心の取り組みで、彼らの中に新しい力を呼び起こし自分たちの力で自分たちの取り組みを達成するというようなことはできなかった。

 生徒との取り組みの中で人間関係は深められたのは確かである。テレビドラマならそれでオッケーだが、実際の教育効果があがっていなかったのではと心配していたところの今回の連絡。「いまだに頼ってくるのか」と落ち込むことしきりであった。

 つくづく生徒には挫折経験させなければいけないと思う。その挫折を乗り越えて初めて力をつけるのである。教員は目の前の成果を追うあまりに、生徒の苦労をするチャンスを奪ってならないと、反省する。

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高校教師、暑さに思う

 「わしらの学校時代はクーラーなんかなかった。学校にクーラーなんか贅沢や」とお年寄りがのたまわく。古代エジプトの文字に「今の若い者は」と書いてあったというくらいだから、とかく年寄りは若い者を評価しない傾向があるらしい。たしかに昔の人の方がご立派であったのかもしれないが、「学校の暑さ」という点だけはちょっとゆずれない。

 というのも昔の校舎は木造である。木と土でできた建物は湿気を吸って思いの外すずしいのである。私はこの夏から築35年の木造ボロ屋に住んでいるが、寝るときに除湿で使うのと来客の時は別であるが、基本的にクーラーはいらない。ましてや昔の地面は土だった。今はアスファルトが主流で照り返しも並ではない。現代の鉄筋コンクリート校舎は「暑い」のではなく「熱い」のである。はっきりいう。今の教室は昔より格段に暑いのである。教室にクーラーを!

 ましてやホームルームというあんな狭い部屋に、エネルギー放出状態の若い連中を40数人集め、教室の天井近くにどんどたまっていく熱気に首をつっこんでしゃべるまくる。これが教師の仕事なのである。なんと暑い仕事なのだろうか!

 ましてや温暖化の昨今である。本当に今の生徒はよく耐えていると思う。

 ついでに、もう一つ。机のことである。今使われているスチール机。あれの規格は明らかに昔のサイズでしょう。コクヨさん、ちょっと考えてよ!身長180㎝を超える生徒が座る机とイスがない!ラグビー部のごっついやつが座ると机の下は「足だらけ」。最近、教科書や資料集はビジュアル化にともなって大型化しているのに、机の面積は同じまま。

 この現実を知り合いの議員さんに訴えた。「しっかり訴えます」との返答に頼もしく思ったが、数日後にこんな答えが。「机を大きくするとクラスの定員が変わります。定員が変わると教員定数を変えなければいけません。予算のない中無理ですね。」日本は体裁だけで教育を考えている国だとつくづく思った。

 本当に、生徒の事を考えてくれ!頼むわ!環境整備だけは最低限やってくれ!

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ふるさと近江

 わがふるさと・近江(滋賀)について書いてみたい。

 「行く春を 近江の人と 惜しみけり」と芭蕉は詠んだ。この句を紹介して司馬遼太郎さんが、「近江は他の地域とは違うんです」と講演で言われたことが思い出される。だから「街道を往く」は近江から始めたんです、と。「近江」という言葉にあわあわとのぼりゆく情感を感じるんです、と。

 私の思う近江の特徴は、「ほったらかし」の文化である。日本の中に息づいていた様々なものが「ほったらかし」で存在している。生きている。そこらへんにある神社や寺に重要文化財がひょいっとある。日常歩いている道が東海道や中山道や朝鮮人街道だったりする。最近でこそ整備されつつあるが、安土城趾は見事な石垣があるのにまさに「ほったらかし」だった。大溝城趾なんか今でも見たらびっくりするくらい「ほったらかし」。国宝の寺社でも常楽寺・長寿寺なんか観光客もいないふつうの村の寺。苗村神社もふつうの村社。「ほったらかし」てある。近江八幡の水郷なんかすごいと思うけども全く注目されないのはなぜか。

 しかし、それがいい。へんに手を加えていないのが近江の良さ。しかも醒ヶ井の地蔵川や新旭のかばたのように、昔から使われている自然を利用した施設が今も生活の中に息づいている。なんだか昔から現在までがいっしょに存在しているのが、近江というところではないかと思う。

 観光開発を言う人もいる。しかし、ここまで琵琶湖と彦根城関連以外の観光開発はことごとく失敗してきた。いろいろな原因はあるだろうと思うが、一番の原因は対象が観光資源というよりは、むしろいまだ生活資源であることではないだろうか。

 「ほったらかし」で十分。それがわがふるさと近江の良さであると思う。知っている人だけが知ればいい。知りたい人にだけ教えてあげるのである。

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高校教師のぼやき2

 今日もクラブ指導。午前中で帰ってまいりました。

 高校教員は、主に教科指導をしたくて教員になった人と主にクラブ指導をしたくて教員になった人に大別されると思う。もっとも「両方だ」とおっしゃる方、「何となく」とおっしゃる方もおられようが。しかし現実はどのような希望で教員になろうが全員が何かのクラブの顧問になる。

 どのクラブになるかは校内人事委員会が決めたり教頭が決めたり学校によって様々だ。熱心な専門家が顧問になればそれでいい。その手の美談には事欠かないし、その場合先生の自己実現も兼ねているのだから。問題は、競技の専門家がいない場合どうするのかである。技術指導のできない知らない世界に首をつっこみ、生徒・保護者に振り回される形で土日なく出勤する。放課後も練習が終わるまで帰れない。しかも事故が起こったら顧問の責任。他校の同競技の顧問とも人間関係がない。どうしていいか分からないのである。それでも若い内は無鉄砲だし生徒といっしょにやってみたりして解消できる。実際、たまたま顧問になったことがきっかけで知らない世界の第一人者になってしまった方も知っている。しかし、生徒の時代から運動オンチで教科指導中心で教員を志した方の場合そうはいかない。特に年齢を重ねると挑戦の意欲はいよいよ減退する。家庭の側にも覚悟がない。突然、土日にお父さんお母さんがいなくなるのである。

 これだけ心圧と戦って時間を使っても、残業手当もなし。休日のクラブ指導には半日以上でたった千数百円ぽっちの特別勤務手当。より緊張感を伴う練習試合の引率には旅費さえ支給されない(各校の学校後援会等が独自でバックアップ)。必要なジャージ、競技に必要な道具は自分持ち。勝てなければ保護者から「あの先生ではダメだわ」との冷たい言葉。

 絶対に間違っている!教師の善意に寄りかかって維持されているクラブ活動とはいったい何なのか!

 もう本当にクラブ制度は限界に来ていると思う。新しい教員の採用がなくなってよけいに今、パンクしそうになっている。

 おい財務省!教員の給料減らすこと考える前に、教員の仕事を正当に評価せんか!

 文部科学省も当てになるのかならんのか。

 まっ、生徒が目の前にいるんやし、とりあえずがんばろ。これが教師のため息。

 

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高校教師のぼやき

 先日、久しぶりの同窓会。卒業して16年目の34歳の連中に囲まれて、若かりしころの激闘に思いをよせることしきり。しんどかったけど何とか全員卒業できたことだけが成果だったというクラスだった。

 その子らが親になり子供を学校に入れると、自分の事は棚にあげていっぱしの学校批判・担任批判をしている。当時のことを知っている自分からすれば「あれだけ教師の世話になったくせに何をいうか」というところ。どうやら今の自分を肯定するあまりに自分の来し方すべてを肯定する傾向が人間にはあるらしい。まあそれはいい。そうやって生きていく方がかしこいのだから。

 しかし、学校の方針と家庭の方針が違う場合、家庭がゆずらないでどうするのか。すべての家庭に学校が合わせられるはずがない。自分の考え方と異なる世間と折り合いをつけていくことを卒業までに身につけなければならないのに、絶好のチャンスを親が「抗議」という形でつぶしていく。世間と合わせられない子供が閉じこもるのは当たり前。教師と学校の悪口を言っている家庭の延長で、学級崩壊が起こるのは当たり前。

 今ほど教師が生きにくい時代はない。教育のプロが「先生は高校生の子供を持ったことがないから分からないんです」と批判される時代。「お母さんはこの子だけでしょ。僕は何百人もみてきましたよ」と返したこともなつかしい。しかし、その一言が言えない教師も多い。

 教育の復権は教師の復権から。そこには教員の自覚の向上が欠かせない。

 教員の不祥事についてはいつかどこかで。

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地蔵盆ってやつは!

 一人暮らしの時に、しょっちゅう神社の回覧が回ってきた。私のところに氏子になるように説得しに来た人などいないのに、いつの間にか氏子扱いされていたようだ(しょっちゅう回覧を無視していました)。自治会ぐるみで神社を運営している実態は、明白に憲法の「信教の自由」に反する。今のうちの自治会なんか、自治会長が毎年寺に挨拶に行くしきたりがあるから、寺の檀家でない人は自治会長になれない。完全な政教一致だ。

 それと同じことが地蔵盆にも言える。自治会のもとにある子供会が地蔵盆という宗教行事を取り仕切るんだからたちが悪い。住民にはキリスト教徒も仏教徒も無信心の人もいるわけだから、地蔵盆に子供を出したくない親もいるわけだ。子供は仲間はずれになったような気分になる。そういう人の信仰心に土足で踏み込む行事が地蔵盆だ。

 「そんなにむきにならなくても」という人もいるだろうが、そこは信仰心の差である。「むきにならないでも」という信仰心の人もいれば「むきになる」信仰心の人もいるわけで、そこを認め合い大切にするのが、「信教の自由」だ。これが分からないから宗教を超える対話ができない。

 小泉首相には、この「信仰心の差」が感覚として分からない。だから平然と公人として靖国に参拝できるのでしょうね。

 地蔵盆の無宗教化はどんどん進んでいますが、まだまだのようです。

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高校教師の夏休み

やっと休みがとれました。

しかしこの夏は忙しかった。合宿・遠征などのクラブの行事に加えて、インターハイの手伝い役員、オープンキャンパスと出張だらけの毎日。こんな日々も珍しい。

「教師は夏休みがあっていいな」なんて言葉は、今は昔。生徒はいなくても仕事はなくてもかならず学校に出勤せよとのお達しもあって毎日が出勤です。もっとも学校にいる暇もあんまりなかったけど。学校に入るときにはほとんどがクラブ指導。いいかげんクラブ指導を正式な教育活動と認めて報酬も考えてもらいたいものだ。

さあ、いよいよ近づく2学期。

これから、「心にうつりゆくよしなしごと」を書きつづっていく所存です。

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