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Google Earth日本版で地理ネタを拾う3

さらに探して見た。でもちょっと今回は不満足。

 ところで、アメリカのイリノイ州とテキサス州当たりが見えないのは、国家機密に属することがあるからだろうが、ずるい!北朝鮮の核施設まで写しているのだからフェアじゃない。

 あっそうか。これってアメリカの他国への無言の圧力か!俺も鈍いね。まあ、とりあえず面白いのでよしとしよう。

 ☆農業関係

 ○バリ島の棚田

  8°27'38.80"S 115°10'46.88"E

 ○マレーシア・サラワク州のアブラヤシプランテーション

  3°46'56.24"N 114° 0'16.37"E

 ○アメリカ西部の等高線耕作

   44°20'57.55"N  92°36'23.41"W

 ○乾燥地のセンターピボット灌漑農業(サウジアラビア)

   28°40'49.15"N  36°19'48.50"E

 ○ポーランドの混合農業地域

  54°15'4.54"N 18°53'37.17"E

 ○中央アジアの塩害

  40°17'52.13"N  62°20'21.70"E

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市民運動に思う(腹の立つ事)

 各地に市民運動がある。そのこと自体何ということもない。がんばって盛り上げなければならない運動もあるし、私も協力したことがある。忘れられないのは「カンボジアにラジオを送る」運動である。内戦直後のカンボジアの奥地にまで情報を速やかに届けるのにラジオが一番だということで、カンボジア暫定統治機構の明石靖さんが日本の家庭に眠っているラジオを送って欲しいと要請されたことに始まる運動だった。私も駅頭に立ったが、たちまちに100個を超えるラジオが集まったことを覚えている。有意義な協力ができた実感があり、うれしかったものである。

 しかし一口に市民運動といっても、一様ではない。時々変な市民運動を見かける。何のためにやっているのか、誰のためにやっているのかわからない運動が存在するのである。

 もっとも疑問に思ったのは、「豊郷小学校校舎存続運動」である。豊郷小学校の校舎は、私も見学したが、建築家ボリーズの作った威風堂々としたすばらしい校舎である。この校舎を壊して新校舎を建てる計画がでた時に、住民の反対運動が起こったのである。「私たちはすばらしい校舎で学んでよかった」「あの校舎で学ばせてあげたい」「町長が校舎をつぶすのはけしからん」というのである。しかし、本来どのような校舎で学ぶのかはどのような教育をするのかという問題と直結している。つまりどのような校舎を選ぶのかという問題は、学校の主役である教師と児童(その背景にいる保護者)の意見なしにはありえないのである。なのにこの問題では教師の声はいっさい聞こえてこなかった。校舎の耐震問題も対不審者の安全構造の問題も議論されなかった。保護者の声も聞けなかった。

 声を出しているのは過去の卒業生と歴史家や他県の見学者。「おまえらは脇役やろ!すっこめや!」教師の問題意識も児童の安全も議論されずに、「住民」を名乗る方々が主役を乗っ取っていたのだ。私はこれを「主役偽装」とよびたい。

 それにしても、マスコミはなぜあんなに「住民運動」という言葉に弱いのだろう。

 私は歴史屋の端くれなので「校舎を残せ」は理解できた。しかし教師なので「校舎を使え」は理解できなかった。だからおかしいと思ったのである。もっとも運動の責任者も元教師らしい。運動家であることにうつつを抜かして現実の教育を忘れたに違いない。

  結局まず町長とけんかをすることが目的で、戦場に学校を選んだということだろう。実は運動の責任者に、「我々が現代のボリーズになって今の技術の粋を尽くして最高の校舎を建てればいい」とメールしたら「それでは町長の思うつぼだ」と帰ってきた。つまり端からけんかが目的なのだ。児童はそのけんかの被害者である。校舎がきずつけられて泣いている児童の声が繰り返し報道されたが、校舎がきずついて泣いているのか、大人がののしり合っているから泣いているのか、分からなかった。運動している方々にそうした加害者意識はないだろう。「自分が主役」だと思いこんでいるから。

 カンボジアの国民を主役として、日本の市民が協力する。あんなに気持ちのいい取り組みはなかった。しかし、この運動は違う。なにか他の目的が透けて見えるのである。私はこれを「臭う」と表現している。

 他にもなにか「臭う」市民運動がある。主役は混同されていないか。私はこれが市民運動を見分ける一つの基準であると思っている。 

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Google Earth日本版で地理ネタを拾う2

引き続き、Google Earth 日本版を使って地理授業で使える風景を探してみた。第2弾です。

☆集落・都市

○環濠集落(奈良県稗田) 34°38'26.30"N 135°47'42.76"E

周辺には条里制地割りが残り塊村形態が見られます。

○輪中集落(三重県桑名市) 35° 3'26.29"N 136°43'17.52"E

○新田集落(埼玉県所沢市) 35°49'50.47"N 139°28'38.60"E

このあたり新田集落だらけです。路村形態の典型と短冊形地割が美しいです。

○散村集落 (富山県砺波市)  36°33'59.43"N 136°55'53.59"E

日本を代表する散村です。

○円村集落(ドイツ・ネルトリンゲン)  48°51'3.01"N  10°29'23.41"E

典型的な中世の囲壁都市です。

○星形城塞都市(オランダ・ナールデン)  52°17'45.95"N   5° 9'45.86"E

びっくりしました。とにかくヨーロッパは、都市が美しい。

○政治都市(ブラジル・ブラジリア)  15°47'1.70"S 47°54'10.76"W

      (ナイジェリア・アブジャ)  9° 2'57.46"N   7°29'42.11"E

日本人による設計です。あまり鮮明ではありません。

☆小地形

○河岸段丘(群馬県片品川)  36°39'1.26"N 139° 5'48.38"E 

見事です。

○海岸段丘(フランス・ノルマンディ地方) 49°21'5.52"N   0°46'30.75"W

海岸段丘は上空からはわかりにくいです。

○山岳氷河(パタゴニア)  49°49'18.63"S  73°14'46.26"W

氷河が途中で溶けて川になっています。

○陸繋島(北海道・函館)  41°45'24.75"N 140°42'42.65"E

○潟湖(北海道・サロマ湖) 44° 8'16.28"N 143°48'3.22"E

 以上の経緯度をジャンプ・タブの一番上の空欄にペーストし、右にある虫眼鏡をクリックすれば、恐ろしい早さで地球が回りズームインします。写真を貼ろうかとも思いましたが、ご自分でやられた方が絶対に面白いです。

 他に面白い場所や使い方を知っておられる方、是非お教え下さい。

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剣道再開!

 前回にも書いた通り、子供の剣道のつきあいから、最近少しづつ剣道をやる羽目になってしまった。

 この年になると高校時代と間合いが違う。イメージが体に伝わらない。無理をするとガタがくる。そんなもどかしさを感じながら基本打を中心に再開した次第です。

 ここまでにも再開するきっかけはあった。しかし踏ん切れなかったのは、一つは暇がない。今でもないけれども少し時間はましになったのだ。二つには体力に自信がない。やった翌日にも仕事があるわけで、それを考えるとできないなと思ってしまう。三つには機会がない。実際には機会は全くないわけではないが、ちょっと敷居が高いかなと思ってしまうのである。

 敷居が高い第一の原因は、上下の序列であると思う。普段全くやっていない者が上の方に稽古をお願いすることは、なんだか恐れ多い事であるかのように感じてしまうのである。ある程度稽古をした上であるならお願いもできるだろうが。ボールがあればバスケットやバレーのまねごとはできるが、棒があったからといっても素振りはできても剣道のまねごとはできないのである。再開に心構えを必要する所以ではなかろうか。

 潜在的剣道愛好家が竹刀を握れば剣道は別の次元に世界を広げられる。これは今剣道を再開した私の持論である。

 「今。君たちのなかには卒業と共に剣道をしなくなる者もいるかもしれない。でもそれは剣道を休んでいるということだと思いなさい。なぜなら剣道はいくつになってもできるのだから。」私の恩師の言葉である(なぜか今日思い出した)。

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進学校と困難校と

 私はこれまでの教員生活の中で、いわゆる困難校の勤務が長かった。家庭に問題を抱えている生徒、精神面で不安定な生徒、問題行動を繰り返す生徒など様々な生徒と関わってきたが、近年生徒が学校の中で自己実現しようとしないという傾向性を感じてきた。携帯電話のせいだけではあるまい。とにかくアルバイトをしたがる。クラブも勉強も二の次である。学校行事も自分たちで作ろうとはしない。「楽しませてくれよ」という姿勢だから「面白くない」という理由だけで、クラス取り組みにも参加しようとしない。そんな生徒が増えていることを感じていた。

 ところが数年前からいわゆる進学校に赴任し驚いた。始業式の静かさ、授業の集中度など違いはたくさんあるが、なんといっても学校の中で楽しむすべを彼らは知っているのである。クラブの取り組みの真剣さだけでなく、学園祭の盛り上がり、修学旅行のバスの中の盛り上がも完全に困難校の上である。「こいつら得なやつらやな」といつも思う。同じ学費を払って楽しみ方が違うのだから。

 しかしそれでもいくつかの点で進学校に不満がある。その一つは、生徒の傲慢さである。自分は勉強ができると思っているから、教師をなめてかかっている生徒がいるのだ。質問も謙虚ではなく、けんかを売っているのかと思うような言い方をする。「おまえ口の訊き方に注意せい!」と叱ることたびたび。

 2つ目には叱られなれていないのである。優秀だったのだろう。叱られていない。叱るとすぐにすねる。反省する前に恨む。自分の前に「不満足な状況=ストレス」が立ちはだかることになれていないのである。学校行事で起こった誰の責任でもないハプニングにクラス全員で「謝って下さい」と迫ってきたことがあった。何を言いたいのかしばらく理解するのに時間がかかった。彼らはハプニングを自分たちで消化できず、教師に責任転嫁することで解消しようとしていたのだ。最近、有名大学の学生が、母親や塾の生徒や友人を殺す事件が報道されているが、なんだか分からないでもない。誰かのせいにする。ようは精神的に弱いのだ。

 困難校の方が、生徒との人間関係は結びやすかった。叱ってこづいて追いかけて、深く関われば関わるだけ何でも相談に乗れた。それもまた進学校にはない楽しさであった。

 来年、転勤希望をどうしようか悩んでいる。

 もう一度原点の困難校へ戻るべきか。今のままでもう少し勝負するべきか。

 どちらが前向きなのかな。

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グーグルアース日本版を試してみた。

「グーグルアース日本版(地理)総集編1」ここが最新の総集です。

http://yojinn.cocolog-nifty.com/blog/2006/10/post_f2b1.html

    Google Earth日本版をインストールして見た。まあこれが面白い。場所(経緯度)を指定したらそこを目指して地球が回り、急速でズームイン。「これは社会の授業に使える」と思い試しにいろいろ探してみました。今は地理を担当しているので今回は地理の地形編

大地形

       広がる境界   東アフリカ大地溝帯      0°36'31.77"S 36°14'20.66"E

       ずれる境界   サン=アンドレアス断層    38° 2'46.31"N 122°46'3.67"W

       ホットスポット 天皇海山群          41° 0'46.30"N 169°36'1.56"E

       安定陸塊    エアーズロック        25°20'47.40"S 131° 2'5.50"E

      

 小地形

       円弧状三角州  ナイル川デルタ       30°33'49.02"N 31°13'4.77"E

       カプス状三角州 ティベレ川デルタ      41°44'58.67"N 12°14'29.09"E

       鳥趾状三角州  ミシシッピー川デルタ    29° 6'23.25"N 89°16'0.56"W

       三角江     テムズ川三角江       51°31'43.20"N  0°35'15.47"E

       リアス式海岸  リアスバハス海岸      42°27'27.14"N 8°56'43.40"W

       フィヨルド   ソグネフィヨルド      61°12'39.83"N 5°47'50.89"E

以上の経緯度をそのまま「検索」の「ジャンプ」タブの空欄にペーストして、その右の虫眼鏡をクリックして下さい。

ちょっと探しただけでこれだけ見つかりました。他に知っている方おられましたら、お教え下さい。

こちらもどうぞ

「Google Earthで地理ネタを拾う2」

http://yojinn.cocolog-nifty.com/blog/2006/09/post_0781.html 

「Google Earthで地理ネタを拾う3」

http://yojinn.cocolog-nifty.com/blog/2006/09/google_earth3_c635.html

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児童手当の拡大とバラマキ批判

 今年から児童手当の支給対象が拡充される。今までの小学校3年生までから6年生までになるという(ちなみに9月30日までに手続きをすれば4月にさかのぼって支給されるらしい)。

 少子化が叫ばれて久しい。国も様々な対策を立ててはいるが結果はまだまだ出ていない。欧米の少子化先進国の対策に学ぶとともに、唯一出生率をあげた福井県の他県との違いを研究し対策にあてていただきたいものである。

 さて、児童手当等の支給が論じられるときいつも気になるのは「バラマキ」批判である。選挙になると必ず「その政策はバラマキだ!」などと使われる。野党とマスコミが好む言葉であるが、そもそも「バラマキ」とは何なのだろうか。その定義は実にハッキリしないが「あれはバラマキだよ」といわれると、妙に心に刺さる言葉ではある。恐らくは「一部の人だけが得をし日本国全体の利益にならない税金の使い方」というような意味かと思われる。

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 その定義に従った場合、少子化対策はどうであろうか。少子化対策自体が一家庭の問題ではなく国の課題であることは言うまでもない。少子化を食い止めるために児童手当を支給することが少しでも子育て家庭を応援し負担を軽減することになるということもいうまでもない。私には児童手当政策が「バラマキ」批判を受ける理由がまったくわからない。政敵をいじめるためにあえていっているだけなのではないのか。

 「児童手当を拡大しても出生率は上がっていないではないか。それならやっぱりバラマキだ。」という声もあろう。それは金額が足らないことが第一の理由。「バラマキ」批判が国民に届き、政策の効果が現れにくくなっていることが第二の理由だと思う。もっと手厚い金額を支給しなければ効果は現れないと私も思う。しかし、現在の制度が存在すること自体、国として少子化対策に取り組もうとする最低限の意思表示であると思う。「バラマキだ」という批判は児童手当という政策そのものに対する批判。「金額をあげろ」という批判は児童手当の拡大を求める批判である。根本から違う。

 特に第三子を持つ家庭に対するケアをもっともっと手厚くする必要があると思う。そこに手を入れれば出生率はあがる。さらに、欲しくても生めない家庭の現状の改善ももちろん必要であろう。つまりは不妊治療に健康保険を使えるようにする、働きながら子供を育てられるようにする(託児所付き職場の徹底・育児休暇時の収入の確保など)が必要であろう。もっといえば、生まない人へのケア(子育て不安へのケア・晩婚化への対応など)も大切であろう。

 批判だけの批判はやめていただきたいのである。そんなことをしても何も前進しない。前回の衆議院選挙で民主党は、与党の少子化対策中でも児童手当を「バラマキ」批判しておきながら、自らのマニフェストには児童手当の拡充をうたった。そういうところが信用できない第一の理由なのである。

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太田総理へ

 久しぶりにテレビを見ていたら、「太田総理」とかいうのをやっていた。公約(マニフェスト)を掲げて議論する。まあいえば、太田氏の言葉の多彩さをアピールするのが売りの番組だ。「朝ナマ」もそうだが、テレビカメラの前では矢継ぎ早に自分の意見を言う方が勝つ。相手に意見を言わせない。それは議論ではなく意見表明である。「熱血教師を撲滅すべし」というようなマニフェストでは、太田は「熱血教師は暑苦しい」「一つの価値観を押しつけるな」「俺は学校から学ぶものは何もなかった。教師は授業だけでいい。」などと言っていたが、自分の小さな経験の中に世の中のすべてを押し込めようとする暴論だ。自分があれだけ熱血して自分の意見を主張している姿と明らかに矛盾している。「漫才士は他人の価値観を変えられる仕事だ。政治家なんかより上だ」なんていっているが、すべての人の価値観を変えることなどできはしまい。教師も同じだ。自分が生徒の人生に価値あるかかわりをどれだけできるか日々勝負しているが、彼の出会った教師は、残念ながら失敗したということだろう。しかしながら、そのことが即「熱血教師はいらぬ」ということにはならない。(熱血教師の定義って何だろう?)

 その上でしかし、「太田総理」の発言には傾聴するものがあった。というのは、今日地理の授業で「朝鮮半島」を範囲としたのだ。その際私は、「韓国併合条約」についてこういった。「国際法上問題はない、という人もいるけれども、日本の強制だったのではないのか。手続きと実際とどちらをとるのかという問題だ。同じ事が日本国憲法にも言える。アメリカから押しつけられた、という現実?とクリアーしている手続きとの問題だ。手続き重視なら、韓国併合と日本国憲法をどちらも認めるべきだ。」と。その上で、「私が本当に大切だと思うのは国民が歓迎したのかどうかの現実だ。」と述べた。「太田総理」はそれを見事に言った。「日本国憲法はアメリカの押しつけだっていうけど、当時の日本人は喜んで向かえたっていう面もあるんだよ。」その通りである。

 最近の日本の言論には原点がない。首尾一貫性がない言論が多すぎる。自分の持っていきたい方向に持っていくために、そのつど便利な情報だけを引いてくる。この文章ももちろん私にとって便利な部分だけを持ってきているわけで、そのそしりを逃れられないが、視点を人間に持つことだけは一貫しているつもりである。

 「太田総理」!いいもんもってるやんけ!その力の使い方をしっかり考えや!

 教師としてのアドバイスである。

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剣道の発展を図るには

 小中高と剣道をやってきた。今はほとんどやっていないが、もっとも身近な競技は何かと問われれば剣道である。

 私の小学生当時、少年剣道にはあふれるほどの練習生がいた。小学校の体育館で道場を経営しておられたが、練習曜日を2つに分けてなおかつ特別練習生の稽古日を別にもうけなければ全員の練習が満足にできないほど多かった。

 なぜか息子が剣道を始めた。血は争えないらしい。久しぶりで面を着けて相手をしてやった。気合いを入れるのが恥ずかしいようななつかしい状態。それとともに「これや!この感覚や!」と興奮せざるを得なかった。とともに、脳が指令する通りに動かない筋肉にイライラ。かくして翌日と翌々日は筋肉痛に悩まされたのであった。

 一般的に発展には質と量の両面がある。質は私には分からない。量の拡大には少年剣道の人口を増やすことと同時に、潜在的剣道愛好家にもう一度竹刀を握らせることである。あの時あふれるほどいた剣道少年の存在はその可能性を感じさせる。剣道は一般的な競技なのだ。

 剣道は柔道よりもはるかに多くの競技人口を抱えている。潜在的人口にいたってはなおさらである。なぜ競技人口が少ない柔道がテレビで突出するのか。ひとえにオリンピックkの存在である。全日本剣道連盟の方針としてオリンピックには参加しないらしい。それはそれでいいと思う。しかし潜在的剣道愛好家の存在に気がつけば、もっと剣道のテレビ放映はあっていいし視聴率も稼げると思う。キムタクをはじめとして(もっと多いが)芸能人の剣道経験者も自信を持って発言する。そうすれば剣道が一般化するのである。全日本剣道連盟も「剣の道」にこだわるあまりに、愛好家の存在を感じられていないのではないか。

 剣道復興の兆しはあると聞く。テレビ放映がもっと多くなることを望む。

 

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高専生事件に思う

 高専生殺害の事件は、容疑者少年の自殺というなんともやりきれない結末となった。ご遺族のご心痛を慮るとなんともいえない気持ちでいっぱいになる。原因が分からない事がさらに苦しさを増すが、友人でもあった二人の間に何があったのかは、二人のご遺族と周囲の友人にしか想像できないことであろう。拙速な想像はするべきでない。

 しかし、この事件の報道は混乱した。「真相はやぶの中」などと容疑者少年の山中での自殺を揶揄するかのようなタイトルをつけた朝の番組があったが、まったく論外である。そういうバカな番組は置いておいて、容疑者少年が19歳であったことから、写真と実名を公開するべきかどうかで議論が分かれた。とにかくおもしろけりゃいい確信犯の自称「文芸誌」である週刊新潮が公開することは容易に想像できたが、読売・テレ朝など大手メディアもこれにならった。

 私には、以前から疑問があった。それは少年法以前の問題として、「加害者・容疑者の写真・名前を公開することで、社会にどのようなプラス効果があるのか」ということである。辛坊次郎氏が今朝、とうとうと公開する理由を言っていたが、それは少年法との関わりである。メディアが加害者・容疑者の写真と名前を公開する理由には彼は言及していない。

多くの人は「そういうものだから」とか「反社会的な事をしたのだから社会的制裁を受けて当たり前」というのではないだろうか。

 しかし、「そういうもの」という考え方は思考停止だ。「制裁を受けて当たり前」という意見には賛同しかねる。というのはハンムラビ法典の時代の「目には目を、歯には歯を」にもどったわけではあるまいし、現代は近代の法体系のなかにある。日本国の憲法では、社会的な制裁は刑事訴訟法に基づいて裁判所が決定することになっている。そういうシステムを守ることが、えん罪を防ぎ加害者の更正を計ることになるという確信の元に現代が成り立っている。

 加害者に社会的制裁を加える資格をマスコミに与えたのは誰なのか。誰もいない。マスコミがそう決めて社会がそう認知しただけ。すくなくとも日本国憲法にはない。はっきり言ってマスコミの傲慢である。

 マスコミが権力を自ら行使するというなら、行使に伴う社会的責任を負わなければならない。誤報に対して、虚報に対して、いきすぎに対して、どのように処置するのか。その基準さえ「報道の自由」の名のもとに定めようとしない。

 これほどの明らかな無責任を露呈していながら、意にも介さずマスコミは事件をアレンジし視聴率に狂奔する。

 「責任を伴わない権利はない。」これは権利教育の基本である。学校での教育にどれだけ今のマスコミの報道姿勢が邪魔か。何とかして欲しいのである。

 本来の使命を自覚せずしてマスコミの未来はない。タブーをもうけず議論したいのである。

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実は、ミュージカル・ファンなのです

 授業で「レ・ミゼラブル」を扱おうと思い、ビデオ(レ・ミゼラブル10周年記念コンサート)を使うことにした。久しぶりで再生して感動が蘇った。この作品を見る前正直「あの哲学的文学をミュージカルにして成功するわけがない」と思っていた。ジャン=ギャバン主演の映画でも今一歩だったからだ。しかし違った。嫁さんに連れられて見た舞台は、感動と驚きの連続であった。むしろ原作を読んだが故の感動があった。思わず大枚はたいて(9500円)帰りにビデオを買ったのである。

 そもそも高校2年生の夏に、「サウンド・オブ・ミュージック」を映画館で見るまでは、ミュージカルに対する私の偏見はひどかった。歌って踊ってお気楽なものだろう、と思っていた。レビューに近い感覚だったのである。しかし、友人に誘われて半ばいやいや入った映画館で冒頭のアルプスの風景が写った瞬間、完全に画面の中に入り込んでしまい、休憩を含めて約3時間はあっという間に過ぎ去ってしまったのである。その日から、私はジュリー・アンドリュースファンになり、ミュージカルファンになり、映画ファンになったのである。「百聞は一見に如かず」を地でいく話であった。その後も、「サウンド・オブ・ミュージック」の歌を英語で覚えたり、「マイフェアレディ」の台本を覚えたりしたものである(マイフェアレディのロンドンキャスト版のLPは今も大切に持っている)。さらに名作映画にも没頭し、そこから外国文学の読書にもつながった。

 それからはむさぼるようにミュージカルを見た。お金のない当時、映画が中心であったが、東京の出始めたばかりのタウン誌で、場末の映画館や自主上映で上映している所を見つけては通ったものである。

 また、「雨に唄えば」「パリのアメリカ人」「バンドワゴン」「五つの銅貨」「回転木馬」「オクラホマ」「南太平洋」「王様と私」「ウエストサイド物語」「マイフェアレディ」「ファニーガール」「オリバー!」「キャバレー」「エビータ」などはビデオも購入した。舞台も「マイフェアレディ」「屋根の上のバイオリン弾き」「ラ・マンチャの男」「レ・ミゼラブル」「キャッツ」「アニー」などをみにいった。

 ミュージカルというのは、現実の世の中や原作から何かを省略することで生じた矛盾を、歌と踊りをいれることで不自然でないものに再構築したものだ。「レ・ミゼラブル」も原作に忠実に映画を作ることは難しいが、ストーリーを思い切って省略し、原作では軽い扱いのエポニーヌをクローズアップするなどの付け加えを行い、感情を歌にのせることでストーリーを再構築することに成功したのだ。やはり、歌や音楽は軽いテーマから重いテーマまで見る人に納得させる力を持っているのだと思う。

 生徒に見せた「レ・ミゼラブル」は抜粋ではあるが感銘を与えたようだ。英語や音楽・文学など他の世界への興味関心へとつなげて人生を彩りある物にするきっかけとして欲しいものだ。

 本当の感動の少ない現代。本物にふれる時間を大切にしなければと思う。

 

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小学校事件に思う

 小学校で授業中にけんかになり、ナイフで脇腹を刺したという事件が起こった。事件自体に話題性はあるが、そんなに繰り返し報道する事かといいたい。計画性はないし、直後に二人で保健室に向かっているし、加害児童は涙を流して謝っているという。単なる「いきすぎた」けんかである。ここで浮かび上がる事実はせいぜい、「少子化の中でけんかをしなれていないがゆえに限度を知らない子供の現実」くらいではないか。

 今朝、「朝ズバッ」を見たらこの事件がトップで報じられていた。そしていつものように「なぜ担任は気づかなかったのか不思議でならない」などと大げさに決めつけていた。私にはみのもんたが「不思議でならない」ほど学校現場を知っているとは思えない。不思議でならないのはほとんど取材らしいことをしないでスタッフのプランに乗っかって公共の電波を使って不確定な事実を断言する彼の心理構造だ。私ならできない。役員を決めるホームルームのガヤガヤした中で起こった出来事だ。二人して保健室に向かっていくときに担任は気づいている。ナイフを取り出した時点で気づけというのだろうか。まったくナンセンスである。現実を知らない。それに彼に言われなくても担任の先生は十分に責任を感じている。そんなばかげた報道に、またバカなコメンテーターが「犯罪の低年齢化の典型」などとコメントし事を荒立てる。「あいつ最悪やな。もっとまともなやつかと思ってたけど最近おかしいで。」と同僚が言っていた。保護者とおぼしき人が「学校の対応が遅い。学校よりマスコミからのほうが情報が早いなんてどうかしてる」とマイクに向かって言っていたが、学校からの情報を待てないあなたと、学校を無視するマスコミがどうかしているのである。

 だいたい「朝ズバッ」はスタッフも出演者も実に浅い。取材不足が各所に露呈している。「私のしごと館」のような貴重な施設を「無駄使い」呼ばわりし、滋賀県にもこないで滋賀県知事選にコメントする。地元にいれば「何をかいわんや」である。コメンテーターは自分の専門外の事でもコメントしなければならないから大変だと思うけど、自信がないのに自信があるようにコメントするのはやめてもらいたい。

 本当は一番心配なのは、この二人の子供の関係とクラスが今後どうなるかではないのか。マスコミはそんなことは考えないでセンセーショナルなことだけ報道する。

 「何の為」の報道か。それがなくなってしまった。そのことが再確認できた今回の事件だった。

 

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修学旅行って何?

 修学旅行の季節がやってきた。全国的には10月実施のところが多いようだが、本校は9月実施でまもなく出発する。

 多くの修学旅行を引率してきた経験から、修学旅行に複雑な思いをいたすことがある。私の中の思いは「費用面」「運営面」「目的」にまとめられるようだ。

 ①費用面

 修学旅行が受注型企画旅行でありパッケージツアーよりも高額になることは、日本旅行業協会の説明である程度理解できる。教員としての疑問は、教育委員会による限度金額の設定である。全国修学旅行研究協会の調査によると、平成16年度の段階で18の都県が実施金額に上限を設けている。その金額は国内旅行だけを見ても千差万別。愛知県の65,000円から宮崎県・千葉県の100,000円まで大きな開きがある(その後、滋賀が金額を上げ福島・宮崎が上限金額を廃止する中で、なぜか熊本は8万円から7万9千円に下げた)。宮崎が地理的位置からも高額になることは理解できる。しかし、同じ九州の福岡は77,000円、長崎は78,000円なのである。ふつうに考えれば「高い宮崎はけしからん」だろうが、そこが少し違う。77,000円で行けるところはせいぜい近畿地方や四国。しかし実際にはうっかりすると北海道に行っている。つまり限度金額が安すぎるのである。県民から「修学旅行が高すぎる」という声があがると県議会で質問がくる。教育委員会は「委員会としてはこの金額で指導しています」と答えたいのだろう。かくして責任は「ウソの報告(実際には教育委員会は知っている)」をした現場の学校にまくられるのである。実際、私は高校時代に滋賀で72,000円の修学旅行だったが、信州3泊4日だった。この金額で北海道・沖縄などに行けるはずがないのである。教育現場の責任は常に現場の教師がとることになっているのである。それなら限度金額などもうけて欲しくないのだ。

 ②運営面(業者とのこと)

 修学旅行の行き先は教師が決めたり生徒からアンケートを採って決めたり、生徒の修学旅行委員会に考えさせたりいろいろである。大まかな目的と目的地が決まったら入札を行い業者を決定する。

 私が分からないのはまずここである。入札で明らかにやる気のない業者がいるのである。こちらが出した条件をクリアーしていない案を持ってくるのだ。ある学校の時には毎年業者が違った時もあった。ついでにいうと、3年連続で契約をゲットした優秀な担当者が「栄転した」ときいていたのに実はやめていたということもあった。なんだかあやしいのである。

 また、修学旅行の下見を前年に行うのだが、ここにも問題があった。業者やホテルが当たり前のように教師に接待するのである。正直私もかつてはされるがままに受けていたことがあった。しかしよく考えると接待費は生徒から集めた修学旅行費から出ているのであるから、接待は生徒にするべきなのだ。ある先生と修学旅行担当になったときにそのことを話し合い、「いっさい接待を受けない」ことを約束しあい、そのことを業者に伝えたところ「上と相談させて下さい」とのこと、数日後に「わかりました」ということだったので、「その分生徒に還元してくれ」といったら「難しいですが何か考えます」となったことがあった。かつては修学旅行当日も毎晩接待が続いたものである。しかし、バブル崩壊とともに業者側から消極的になり、今は私の周りには接待はほとんど見られなくなった。他校・他県ではどうだろうか。

 ついでに言うと、下見を学年担任団全員で夏休みなどに行う学校がどうやら存在する。実費で行っているのであろうから大変なことである。

 ③目的

 修学旅行の目的とはいったい何であろうか。「友人との人間関係を強固にする」「集団行動を学ぶ」「学校内では学べないことを現場で直に感じ学ぶ」などいろいろある。しかし、人間関係を強固にすることではクラブやクラスの活動に及ばないし、集団行動を学ぶことは遠足でもできる。「学校外で学ぶ」ことももちろん大切であるが、一昔前ならいざ知らず今時国内も国外も行こうと思えばすぐに行ける。学ぼうとする意欲があればだれでも学べる。以前に北海道道東の修学旅行を企画し、北方領土・知床と釧路湿原の大自然・阿寒湖畔でのアイヌ民族学習を入れ込んだ企画をしたことがあった。あの時にはそれなりの成果をあげたように思っていたが、卒業した生徒に聞くと「楽しかった」だけ。果たして意味があったのかなと思うのである。海外ならもっとスリリングで有意義な体験ができるのかもしれない。しかし、最大の収穫はやっぱり「思い出を作る」ことではないか。そう思うと、わざわざ遠くまで行かなくても修学旅行の目的は達成できるのではないかと思えてくるのである。

 そこで最初の話にもどる。修学旅行は別に近場でもいい。業者も入れず、自分たちではじめから終わりまで計画して折衝する。県教育委員会の限度金額なんか関係なくそういう安上がりで意味のある修学旅行はできないものであろうか。そんなことを最近考えているのだ。

 でもそんなことしたら教師がたいへんか。自分の首を自分で絞めるとはまさにこのこと。難しいものだとつくづく思う。

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近江の東海道

 ふるさと近江は「道の国」である。古代の東山道で最も畿内に近いだけでなく、江戸時代の東海道・中仙道・北陸道がすべて通る「東国への入り口」である。琵琶湖があることもあってまさに交通の要衝であり、美濃と同じくここを征すると「天下を征する」といわれた。

 モータリゼーションの波が押し寄せると「国民通過県」などと揶揄された時期もあったが、高齢社会に突入すると時間の確保できる御年寄りを中心に、かっての街道を歩いて古き日本を味わおうとする方々が増えた。時代に乗り遅れていたがゆえに風情が残ったのである。NHK-BS2の「街道てくてく旅」で、サッカーの岩本輝雄選手(復帰万歳!私は大ファンです!)が東海道、谷川真理さん(加賀路)や岩崎恭子さん(四国)などが旧街道を歩いているが、見ていてスローライフというか余裕を感じられて楽しい。こんどはスケートの勅使河原選手が中仙道を歩くらしい。なかなか楽しみなのである。

 私は水口(現・甲賀市水口町)に住んでいた。水口が宿場町であることが私の「道」への関心を決定的にしたことはまちがいない。

 近江鉄道の「水口石橋」駅を降りるとそこはもう街道筋。三筋の紡錘型の宿場町が展開されている。二〇年前にはまだ「コバタ」という看板があり、長いこと何を売っていたのかわからなかった(もちろんタバコ)。すでにシャッター街になりつつあったが、古い旅館が残っておりそれなりの風情があった。しかし、名物のはずの干瓢は八百屋に売っているだけで土産になっておらず、水口高校グランドの水口城跡は当時堀と石垣が未整備に鎮座し、野洲川の渡しにある街道第一の大きさの常夜灯も、みんな前に書いたように「ほったらかし」だった。今はどうなっているのだろうか。水口城は模擬櫓があると聞いているが、多少の整備をしても整備後の「ほったらかし」状態が続き、それなりに風情のある姿になっていると思う。

 この「ほったらかし」状態は様々な場所にあり、重要文化財の社寺が街道筋にひょっこりとあるのがいいのである。かつては琵琶湖水運の一大拠点だった「矢橋の帰帆」跡には当時の船着き場の石場が見事にのこっているが、近所の人が洗濯物を干しいていたりした事もある。全く観光客を呼ぼうと思っていないのだ。重要文化財でなくても、神社でいえば「式内社」がゴロゴロそこらにある。これが近江なのである。

 近江の旧東海道はよく残っている。国道1号線の工事の際に拡幅されている場所は少なく、当時の道幅に近いものが残っていることがうれしい。時々明治時代の付け替えなどが災いして江戸期の跡を通っていない旅人がいたが(土山と草津に勘違いしやすい箇所がある)、比較的「広重ポイント」もわかりやすい(「石部」が栗東市を描いたものであることには驚くが)。

 どの道が旧東海道なのかを正しく表記した本がなく、いい加減だったことから、「よし俺の手で作ってやろう」と思っていた。いまでは相当正しいものが出版されているので、ちょっとくやしかったりするのである。

 近江は「道の国」。道は人と物と、文化が行き来するところ。そんな当時のにぎわいを想像しながら「道」に立つのが好きなのである。

 近江のシリーズはまた続けていきたい。 

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高校教師のぼやき3

 いよいよ始まった新学期。ちょっとはりきり気分で登校し、久しぶりで全校生徒に出会いました。新鮮な気分でがんばっていきます。

 さて、今日朝のテレビ朝日の番組で「教師の夏休み」について話をしていたらしいと、他のプログから知った。なんで始業の今日、夏休みの話をするのかさっぱりわからんが、どうせ中身は想像できる。

 「何で教師だけ夏休みあんねん」とか「わしらも夏休みほしいわ」とか「その分給料けずれや」などであろう(ちがったらごめん。そうとう僻み根性が身に付いているので)。私は夏休みに関しては違う次元からの考えがあるが、こと「給料けずれや」に関しては私だけでなく全国の公立学校の教員が世間の無知を問わざるを得ないのである。

 ①教師には残業手当がありません。仕事を家にもって帰っても手当はでません。

 ②クラブ指導で休日出勤しても、振り替えはありません。特別勤務手当が半日で1000円強もらえるだけです。

 ③クラブの練習試合に連れて行っても県から手当も旅費もでません。宿泊をともなっても県から手当はでません。宿泊費もでません。それではあんまりなので学校単位で保護者・OBで後援会を作ってケアしていただいているので、学校によってもらえる金額が違います。

 ④仕事に必要なコンピューターは、個人持ちです。学校には教員分のコンピューターはそろっていません。

 ⑤家庭訪問にかかる出張経費もでません。後援会でなにがしかのケアをしていただいています。

 ⑥クラブ指導に必要なジャージ、予習・教材研究に必要な書籍・参考書などは、必要経費扱いされていません。すべて自前です。

 ⑦すぐに思いつかない矛盾満載。

 教師は身銭を切って働いている。このことを世間の人にははっきりと知ってもらいたい!知りもしないで教師は優遇されているとか言うな!知った上で言いたいことがあるなら言って来い!

 教師の不祥事が大きな事から小さなことまですべて報道されるのは、教員のイメージダウンが目的だ。財務省は教員の給与を減らしたいのだ。はじめは「一部の悪い教師がバカをやっている」と思っていた人までが、報道が続くと「そんなにひどいなら全体の問題だ」「給料減らしてもしょうがない」となるのがねらいだ。生徒のテストや成績をなくした担任が攻撃される。問題を深めて見つめれば、成績を自分のパソコンで処理せざるを得ない状況、テストを持って帰らざるを得ない状況に気がつくはずだがいっさい報道されないのがその証拠だ。マスコミが無能なのかコントロールされているのかどちらかであろう。この四月、滋賀県の守山市立守山女子高校が立命館に経営移管されたが、移管反対の風潮を押し切るために古いすでに解決済みの不祥事?(不祥事かどうかさえ疑わしい事例だった)が突然新聞に発表されたりした。マスコミ諸氏よ、君たちはうまく使われているんだぜ。もっとも本当に救いがたい不祥事もある。なさけない限りである。

 財務省の標的は教師と同和行政。これは今の報道の傾向でまるわかりでしょう。

 そのように考えると、なんで今日みたいな日に夏休みの話をしていたのかも何となく見えてくる。目的が教員のイメージダウンなら別に時期を逸してはいないのだ。

 まじめな教師ほどやる気がなくなってくる、そんな時代。別に金が欲しいのではない。教育という一大事業に携わる者を正当に評価して欲しいだけ。しんどい思いをしても、バカにされるならしない方がまし、と思う教師もでてくるのは自然だ。

 あ~ぁ、またぼやいてしまった。自己嫌悪。でもだれかが言わなければ。ちなみに私はブログだけでなく、県にも知事にも同じような内容のメールを打っています。実名入りで。返事はいっさいありません。

 

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