« Google Earth日本版で地理ネタを拾う2 | トップページ | Google Earth日本版で地理ネタを拾う3 »

市民運動に思う(腹の立つ事)

 各地に市民運動がある。そのこと自体何ということもない。がんばって盛り上げなければならない運動もあるし、私も協力したことがある。忘れられないのは「カンボジアにラジオを送る」運動である。内戦直後のカンボジアの奥地にまで情報を速やかに届けるのにラジオが一番だということで、カンボジア暫定統治機構の明石靖さんが日本の家庭に眠っているラジオを送って欲しいと要請されたことに始まる運動だった。私も駅頭に立ったが、たちまちに100個を超えるラジオが集まったことを覚えている。有意義な協力ができた実感があり、うれしかったものである。

 しかし一口に市民運動といっても、一様ではない。時々変な市民運動を見かける。何のためにやっているのか、誰のためにやっているのかわからない運動が存在するのである。

 もっとも疑問に思ったのは、「豊郷小学校校舎存続運動」である。豊郷小学校の校舎は、私も見学したが、建築家ボリーズの作った威風堂々としたすばらしい校舎である。この校舎を壊して新校舎を建てる計画がでた時に、住民の反対運動が起こったのである。「私たちはすばらしい校舎で学んでよかった」「あの校舎で学ばせてあげたい」「町長が校舎をつぶすのはけしからん」というのである。しかし、本来どのような校舎で学ぶのかはどのような教育をするのかという問題と直結している。つまりどのような校舎を選ぶのかという問題は、学校の主役である教師と児童(その背景にいる保護者)の意見なしにはありえないのである。なのにこの問題では教師の声はいっさい聞こえてこなかった。校舎の耐震問題も対不審者の安全構造の問題も議論されなかった。保護者の声も聞けなかった。

 声を出しているのは過去の卒業生と歴史家や他県の見学者。「おまえらは脇役やろ!すっこめや!」教師の問題意識も児童の安全も議論されずに、「住民」を名乗る方々が主役を乗っ取っていたのだ。私はこれを「主役偽装」とよびたい。

 それにしても、マスコミはなぜあんなに「住民運動」という言葉に弱いのだろう。

 私は歴史屋の端くれなので「校舎を残せ」は理解できた。しかし教師なので「校舎を使え」は理解できなかった。だからおかしいと思ったのである。もっとも運動の責任者も元教師らしい。運動家であることにうつつを抜かして現実の教育を忘れたに違いない。

  結局まず町長とけんかをすることが目的で、戦場に学校を選んだということだろう。実は運動の責任者に、「我々が現代のボリーズになって今の技術の粋を尽くして最高の校舎を建てればいい」とメールしたら「それでは町長の思うつぼだ」と帰ってきた。つまり端からけんかが目的なのだ。児童はそのけんかの被害者である。校舎がきずつけられて泣いている児童の声が繰り返し報道されたが、校舎がきずついて泣いているのか、大人がののしり合っているから泣いているのか、分からなかった。運動している方々にそうした加害者意識はないだろう。「自分が主役」だと思いこんでいるから。

 カンボジアの国民を主役として、日本の市民が協力する。あんなに気持ちのいい取り組みはなかった。しかし、この運動は違う。なにか他の目的が透けて見えるのである。私はこれを「臭う」と表現している。

 他にもなにか「臭う」市民運動がある。主役は混同されていないか。私はこれが市民運動を見分ける一つの基準であると思っている。 

|

« Google Earth日本版で地理ネタを拾う2 | トップページ | Google Earth日本版で地理ネタを拾う3 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/187530/12078756

この記事へのトラックバック一覧です: 市民運動に思う(腹の立つ事):

« Google Earth日本版で地理ネタを拾う2 | トップページ | Google Earth日本版で地理ネタを拾う3 »