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高専生事件に思う

 高専生殺害の事件は、容疑者少年の自殺というなんともやりきれない結末となった。ご遺族のご心痛を慮るとなんともいえない気持ちでいっぱいになる。原因が分からない事がさらに苦しさを増すが、友人でもあった二人の間に何があったのかは、二人のご遺族と周囲の友人にしか想像できないことであろう。拙速な想像はするべきでない。

 しかし、この事件の報道は混乱した。「真相はやぶの中」などと容疑者少年の山中での自殺を揶揄するかのようなタイトルをつけた朝の番組があったが、まったく論外である。そういうバカな番組は置いておいて、容疑者少年が19歳であったことから、写真と実名を公開するべきかどうかで議論が分かれた。とにかくおもしろけりゃいい確信犯の自称「文芸誌」である週刊新潮が公開することは容易に想像できたが、読売・テレ朝など大手メディアもこれにならった。

 私には、以前から疑問があった。それは少年法以前の問題として、「加害者・容疑者の写真・名前を公開することで、社会にどのようなプラス効果があるのか」ということである。辛坊次郎氏が今朝、とうとうと公開する理由を言っていたが、それは少年法との関わりである。メディアが加害者・容疑者の写真と名前を公開する理由には彼は言及していない。

多くの人は「そういうものだから」とか「反社会的な事をしたのだから社会的制裁を受けて当たり前」というのではないだろうか。

 しかし、「そういうもの」という考え方は思考停止だ。「制裁を受けて当たり前」という意見には賛同しかねる。というのはハンムラビ法典の時代の「目には目を、歯には歯を」にもどったわけではあるまいし、現代は近代の法体系のなかにある。日本国の憲法では、社会的な制裁は刑事訴訟法に基づいて裁判所が決定することになっている。そういうシステムを守ることが、えん罪を防ぎ加害者の更正を計ることになるという確信の元に現代が成り立っている。

 加害者に社会的制裁を加える資格をマスコミに与えたのは誰なのか。誰もいない。マスコミがそう決めて社会がそう認知しただけ。すくなくとも日本国憲法にはない。はっきり言ってマスコミの傲慢である。

 マスコミが権力を自ら行使するというなら、行使に伴う社会的責任を負わなければならない。誤報に対して、虚報に対して、いきすぎに対して、どのように処置するのか。その基準さえ「報道の自由」の名のもとに定めようとしない。

 これほどの明らかな無責任を露呈していながら、意にも介さずマスコミは事件をアレンジし視聴率に狂奔する。

 「責任を伴わない権利はない。」これは権利教育の基本である。学校での教育にどれだけ今のマスコミの報道姿勢が邪魔か。何とかして欲しいのである。

 本来の使命を自覚せずしてマスコミの未来はない。タブーをもうけず議論したいのである。

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