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しられざる偉大な日本人シリーズ2 ウズベキスタンの抑留日本兵たち

西岡京治さんから、久しぶりの第二弾である。

中央アジア・もとソ連のウズベキスタン。ここにも各地に満州から抑留された日本兵捕虜収容所があった。ウズベキスタン全土だけで約1000人が故国の土を踏むことなく亡くなったという。

この国の首都タシケント(地理の学習では内陸の地中海性気候(Cs)として有名)には次のような碑文がある。

[日本人抑留者記念碑文]
1945年から1946年にかけて、極東からウズベキスタンに強制移住された日本国民25,119余名の内、9,760余名が過酷な条件のもとで、数年にわたりタシケントの都市建設に貢献した。望郷の念むなしく79余名がこの地に眠る。この厳粛な歴史を後世にとどめ、永遠の平和と友好を念じ建立する。主な労働場所:ナヴォイ劇場、電線工場、運河建設、住宅建築、道路建設など。<2002年5月25日 日本人墓地整備と抑留者記念碑建設代表発起人会>

狂人スターリンが日本人を異国の地の強制労働に駆り立てた。シベリアの奥地よりは過ごしやすいはずのこの地でも約80名の方が亡くなっている。そして、その彼らが建設した建築物こそ『ナヴァイ国立劇場』である。

強制労働という忌まわしい記憶の産物であるこの劇場は、しかし思いもよらぬ効果をもたらした。建設の際のまじめな労働への取り組みの姿があった。そしてなんといっても完成後の1966年の大地震でタシケント市内の多くの建造物が倒壊した時、この劇場はビクともせず、「日本の建築技術は素晴らしい」という評価が定着したというのである。これらの事情からウズベキスタンの親日感情は中央アジアの中でも飛び抜けているらしい。

当時総指揮に当たったのは永田行夫さん。25歳で隊長となり本来の航空隊技術をこえる仕事をやってのけたという。

(以下参照)http://homepage2.nifty.com/silkroad-uzbek/works/2001/04_yuuzuru_nagata.html

羽田首相時代の2000年。事情を知る羽田首相とウズベキスタンの大統領との間で日本を代表するオペラ「夕鶴」の公開の話がすすんだ。翌2001年8月末、約束通りに「夕鶴」は講演された。現地の小学生は日本語を学びコーラスに参加したという。作曲者である團伊玖磨さんも指揮をする意欲を示しておられたが、残念ながら同年5月に逝去された。この時の公演は團伊玖磨さんの追悼公演ともなったのである。永田さんを含む当時の抑留者の代表も参加されたらしい。

戦中の日本の暴挙は批判されてしかるべきである。しかしだからといってスターリンの暴挙がゆるされるわけではあるまい。しかしそうした武力という強制力によって抑留された人々が、技術や文化の力によって日本への信頼を勝ち取ったのである。ソフトパワー(感化力・教育力など)がハードパワー(有無を言わさぬ強制力=武力・政治力など)に打ち勝ったすばらしい事例である。

日本の今後行く道がここに示されていると強く感じる。文化立国日本の建設を目指さなければならない。

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