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しられざる偉大な日本人シリーズ3 ミツコ・クーデンホーフ・カレルギー

クーデンホーフ・ミツコ(1874年~1941年)は、「ヨーロッパ統合の父」リヒャルト・クーデンホーフ・カレルギーの実母である。日本名を青山光子(戸籍名はミツ)といい実家は骨董屋を営む商家であった。青山家は徳川家の重臣の家柄で、東京都港区青山の地名はこの家があったことに由来するという。

18歳の冬、光子は事件に遭遇する。家の前でオーストリア大使館の代理公使ハインリヒ・クーデンホーフ・カレルギーが落馬したのである。献身的に介抱する光子。二人は恋におち、周囲の反対を押し切って結婚した。この結婚は「日本初の正式な国際結婚」であるといわれる。翌年に長男ハンス、翌々年に次男のリヒャルト(日本名は栄次郎)が生まれた。夫ハインリヒは、民間の女性との結婚を親に反対され相手が自殺するという悲劇を経験しており、「私の妻をヨーロッパ人と同じに扱わないものには決闘を申し込む」と宣言して光子を周囲の偏見から守ったという。合計7人の子宝に恵まれる。幸せな結婚生活であったようだ。

1896年に夫とともにオーストリアへと渡ったミツコを待っていたのは、夫の早すぎる死であった。夫の遺言で彼女は名門貴族の当主に。夫の親類からは大反対にあったがすべての裁判で勝利したという。

クーデンホーフ家当主のミツコは気丈であった。社交界にもデビューした。日露戦争で日本びいきだったヨーロッパ社会で一時だが花形の存在となり「黒髪の貴婦人」と呼ばれた。しかしその人気も第一次世界大戦では逆となった。日本がオーストリアの敵国となったからである。しかし、ミツコは赤十字社を通じて食料供出に奔走。また前線を慰問するなど必死で働いた。

その間にも子どもの教育には手を抜かなかった。家庭教師は必ず自分で面接し、人種差別的な思想を持っているものは絶対に採用しなかったという。その教育は厳しく、オーストリアの貴族として恥ずかしくないように、との願いが込められたもののようであった。しかし、子どもは父の血を継いだのであろうか、兄は第一次大戦からユダヤ人女性を連れて帰還。弟のリヒャルトは14歳年上の女優イタ゜・ローランと結婚した。このときリヒャルトは母から勘当されている。

そのリヒャルトが「パン=ヨーロッパ」主義を掲げて論壇にデビューしたのが1923年。息子が誰も考えなかったヨーロッパ統合から世界統合へ、という道筋を世界に向かってぶちあげたのである。その後の息子の活躍をミツコは遠くから喜び見つめていたという。

1925年に脳溢血となったミツコは体も不自由で寂しい晩年であったようだ。ナチスの影が忍び寄る第2次世界大戦前夜、カレルギー家当主のハンスもナチスの迫害から逃亡し、リヒャルトも亡命。その他の子どもも、3女のオルガを除いては家を去った。1941年にミツコはオルガに看取られて静かに息を引き取った。

晩年のリヒャルト・クーデンホーフ・カレルギーは

「若くして夫を失ったあと、七人のこどもを立派に育ててくれたのですが、母は、こどもの教育については、夫である私どもの父の精神を、そのまま受け継いでおりました。つまり、日本人としてではなく、ヨーロッパ人として、キリスト教徒としてでした。息子たちよりも、娘たちに対して、より厳格でした。私は、こうした母がいなかったとしたら、決してパン・ヨーロッパ運動をはじめることはなかっただろうと考えています。」(「文明・西と東」)

と母の影響について述べている。

ミツコ自身は自分自身は「必死で生きただけ」だというかも知れない。決して幸せな人生ではなかったかも知れない。しかし、彼女の行った教育が育てたものは、現在のEUにもつながり世界を変えるものであった。

その偉大な人生を讃えたい。

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