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名古屋メシ

岐阜県に行く機会があった。1泊二日だったので、昼食を2回、夕食を1回、朝食を1回とったが、とにかく量が多いことに驚いた。このことは以前に愛知県でも感じたことなので、おそらく中部圏に共通の現象なのかな、と思っている。

驚いたのはそれだけではない。食の組み合わせが変わっている。カツカレーセット茶碗蒸がついていた。そういえばこれも以前に味噌カツ丼を食べたら、ご飯の上にキャベツがひいてありその上に味噌カツがのっていて驚いた。「ご飯の上にキャベツ」は関西には見られない。

食の話題というとよく関西と関東の違いが話題に上るが、名古屋もその独自性で負けてはいないようだ。最近関西にも中部出身の外食産業がすこしづつ進出しているようでもある。今後注目である。

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ピンポン外交覚書-日本卓球の躍進に寄せて

当然知っているべきことだったのだろう。日本人は「歴史健忘症」だと海外から言われることがあるらしいが、私もこのお二人のことを知らなかった。なさけないことである。

お二人とは、卓球の後藤鉀二さんと荻村伊智朗さんである。

後藤鉀二(ごとうこうじ)さんは1906年の生まれ。尾張の武士の家の生まれだそうで、そもそもは剣道の達人だったとか。ところが、お父さんが名古屋電気学園(愛知工業大学など)の創立者であとを嗣ぐこととなると、学校を盛り上げるには場所が狭くて設備投資も少なくてすむ卓球がよい、と卓球に熱を入れ始めたという。そして名選手を生み出し、日本卓球協会会長にまでなってしまったのである。

当時最強の卓球王国とされていたのは中華人民共和国であった。しかし、卓球の連盟に加盟していたのは中華民国であり、さらに1960年代の後半から70年代の初めにかけての「文化大革命」のため、中華人民共和国は国際舞台から遠ざかっていた。ところが後藤さんは、「世界最強の中国が来ないのでは、世界大会とは言えない」と中国チームを1971年の卓球世界選手権名古屋大会に招待することを決意。中国を訪問し、さまざまな困難を克服し曲折を経て、中国チームの名古屋大会参加を決めた。中国の卓球は再び国際舞台に復帰することができたのだった。

さらにこの時中国チームは周恩来総理から「友好第一、試合第二」と激励されていたので、アメリカの選手とも交流。そうしたムードの中でアメリカチームの訪中が決定。裏でやりとりされていた国交正常化交渉に大きな影響を与え、翌1972年に劇的なニクソン訪中・米中国交正常化さらには日中国交正常化となったのである。

このあたりの事情は http://www2.aasa.ac.jp/graduate/gsscs/reports01/PDF/02-003.pdf  に詳しい。

今でも「後藤先生の恩を中国の卓球界は忘れることはない。」と中国の卓球チームが日本を訪問したときは必ず名古屋に行き、先駆者である後藤さんの墓参りすることになっているそうである。しかし、当の後藤さんは米中・日中国交正常化を知らない。1972年1月にお亡くなりになっているのである。

荻村伊智朗(おぎむらいちろう)さんは、1932年生まれ。高校時代に東京・三鷹の町の卓球場で卓球をはじめるとメキメキ実力をあげ、5年後には1954年のイギリスでの世界卓球選手権の主将に抜擢され、男子個人と男子団体のタイトルを奪取。結局合計12のタイトルを取ったすごい選手である。

しかしこの人のすごさはここから。そもそも高校時代進学校に通い英会話学校にも通っていたという秀才。はじめてのイギリスで先の大戦の敵国・日本ということでさんざんな差別を受けブーイングを浴びたことから国際交流の重要性を感じたというからすごい。引退後はスウェーデンで3年間指導。ヨーロッパのレベルをあげるためだったというが、実際に世界チャンピオンを誕生させたというからまたすごい。さらに1970年に文化大革命期の中国を3度訪問し、先の後藤さんの仕事につなげ、1987年には世界卓球連盟会長に就任し、1991年の世界選手権千葉大会での韓国と北朝鮮の南北統一チーム結成を実現。このとき彼は韓国に20回、北朝鮮に14回も足を運び、交渉を進めたという。スポーツ界では初の統一チームとなった「コリア」が来日し、世界選手権決勝では女子団体が中国チームを下して優勝。高らかに「アリラン」を大合唱したのである。

荻村さんはその3年後の1994年に62歳でお亡くなりになっている。

お二人のしたことは生半可なことではない。当時中国と国交を結ぶために尽力した人物は、松村謙三さん、高碕達之助さん、有吉佐和子さん、池田大作など何人かおられたが、みんな命がけの決意と信念でやっておられる。このお二人もそうだったであろう。南北統一チームの結成など、どれだけのいやがらせがあったか、想像を絶する。

こういう人々の存在を、日本人は絶対に忘れてはならない。

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日本体操の躍進を讃う

北京オリンピックでの体操の躍進がすごい。男女ともすごい。

男子団体総合は前回アテネのに続いて。女子団体総合は5位入賞。男子個人総合で内村が4位入賞。すごい成績だ。

そもそも男子団体総合は、

1952ヘルシンキ5位入賞、

1956銀のあと1960年のローマ五輪以来1976年のモントリオール五輪までオリンピック5連覇とその間の世界選手権もすべて連覇したという過去の栄光がある。

それがモスクワ五輪のボイコットを境に、

1984ロサンゼルス銅、

1988ソウル銅、

1992バルセロナと銅

1996アトランタでは10位と沈み、

2000シドニーで4位入賞、

そして前回2004アテネで金に輝いたのである。今回の銀の価値が分かろうというものだ。

女子団体総合は、

1956メルボルン大会で初出場6位入賞

1960ローマ4位入賞

1964東京で銅メダル、

1968メキシコ4位入賞

1972ミュンヘン7位

1976モントリオール8位

1980ロスアンゼルス6位入賞

1982ソウル12位

1996アトランタ12位

のあと、シドニー、アテネは出場さえできなかったのである。

すごいの一言に尽きる。

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柔道は何が目的なのか

武道に「木鶏(もっけい)」という言葉がある。「荘子」にある。王のために闘鶏の鶏を育てていた家臣が、40日目かけて、動揺しない、威張りもしない、他の鶏を見てもいきり立たない、まるで木彫りのように泰然自若の姿で他の鶏は戦わずして逃げてしまう、そんな鶏を育てたという話である。武道家の理想の境智として語られる。

オリンピックの柔道を見た。日本の二人が負けたが負けた気がしない。「積極的に攻めなかった」という反則を取られているらしいが、どっちもどっち。

柔道は、審判をだます技術を研くものらしい。

他の試合を見ても、「注意」「警告」などで決着がつくことが大半。残りも「効果」などという「こけた」程度のポイントで決着がついている。正面から組まないで足を取りにいく外国選手が大勢いる。

柔道は、「こかしあい」になってしまった。

これはもう柔道ではない!

なさけない。

しかし、今の柔道の試合に「木鶏」の境智でのぞんだら、反則を取られてしまう。いったい柔道は何をめざしているのであろうか。

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