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政教分離と『政教分離』

国政選挙前になると、政教分離、政教一致という言葉が飛び交う。公明党と創価学会との関係を批判するのに使われることが多いようだ。しかしこの言葉、憲法をまともに学んだ人間からみれば、間違って使われている。ここで少し整理してみたい。

○日本国憲法の政教分離

日本国憲法の政教分離原則は、二〇条1項後段、3項と八九条がこれにあたるとされている。

二〇条1項後段「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上

       の権力を行使してはならない。」

二〇条3項  「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動

       もしてはならない。」

八九条    「公金その他の公の財産は、宗教上の組織もしくは団体の使用、便益若しくは維持のため、(中略)これを支出し、又はその利用に供してはならない。

政教分離という言葉は条文にはなく、厳密には「国家と宗教との分離」(橋本公亘著『日本国憲法』233頁など)であるので各種辞書などには国教分離でもよいとなっている。いやむしろ国教分離としないことが勘違いを生む原因となっている。政党と宗教団体の分離ではないのだ。

さて、二〇条後段の、国から受けてはならない「特権」とは「他の宗教団体に比べて、あるいは一般の国民・団体に比べて、特別な利益のこと」(芦部信喜著『憲法』151頁)。ちなみに宗教法人に対する非課税措置は、他の公益法人や社会福祉法人も同様なので、特権に含まれないと考えるのが定説である。

また、行使してはならない「政治上の権力」とは、「立法権・課税権などの統治的権力のこと。政治活動そのものではない」(同書152頁)。芦部信喜著『憲法』が司法試験のバイブルと評される書物であることはよく知られている。芦部氏は『憲法学Ⅲ』で、佐藤功氏の、「政治上の権力」とは「政治上の『権威』とでもいうべき観念」であり「宗教団体が政治的権威の機能を営んではならないという趣旨」、という説を「政治的権威の機能」の意味が不明確で拡大解釈すれば逆に宗教団体のみを不当に差別することになる、という趣旨の反論をしている。また、「宗教団体が政党を組織しその他積極的な政治活動によって政治に強い影響を与えることを禁止する趣旨」とする田上穣治氏の説にも、同様の疑問を投げかけている。また、野中俊彦他著『憲法Ⅰ』(いわゆる四人本)は、両説へのより詳しい反論を掲載している。

(田上穣治氏はキリスト教徒であったらしいが、どうも宗教団体に対する偏見が強い。「宗教団体の政治活動は、(中略)他の政治団体がその信仰に帰依しないかぎり、容易に妥協を許さない性格をもつから、民主政治が自由な討論によって一致点を見出し、採決において少数意見が多数意見に服するための前提としての、同質性に反する」つまり、宗教団体は民主主義的でない、と言いたいらしい。完全な偏見。単なる個人的な感想である。そんなものに立脚して論を立てるのは学者としてどうかと思う。)

ちなみに、内閣法制局も「宗教団体の政治参加は問題ない」としているし、第90回帝国議会いわゆる成憲議会でも同様の確認がされている。また、「宗教団体の政治参加を禁じる」法律はないし、そのような裁判所の判決はでていない。三権とも「問題なし」としているのである。

以上で、宗教団体の政治参加は政教分離原則に反しないことが分かる

○公明党と創価学会の『政教分離』

日本にはもう一つの『政教分離』がある。それは「公明党と創価学会が人事と財政を分離した」ことである(以下『政教分離』と表現する)。1969年、言論出版妨害事件をきっかけに、公明党に議席数を追い越された共産党と民社党などの野党を中心に、公明党と創価学会が『政教一致』であるという批判が起こった。上記に見たように、憲法の常識から考えれば創価学会が公明党を支援することには何の問題もない。しかし、当時の公明党・創価学会のなかには「国立戒壇」の建設や「王仏冥合」を理想とする考え方があった。学会は「現代的に解釈すれば政教一致的な主張ではない」というが、少なくとも言葉は仏教用語であるし、政府資金で「国立戒壇」をつくるべきだと考えていた学会員もいたようである(これはもちろん憲法違反)。そこで池田大作会長(当時)が、197053日に、世間を騒がせ誤解を与えたことを謝罪するとともに、学会内の考え方を見直し統一した上で、公明党との人事と財政の分離を宣言したのである。これが公明党と創価学会の『政教分離』で、公明党と創価学会の関係を見直したものであり憲法の政教分離とは全く次元が違う。公明党と創価学会はみずからの内部改革としての『政教分離』をしたのであって、それ以前も以後も創価学会が公明党を支援することは憲法上なんの問題もないのである。もちろん他の宗教団体も支援活動をしてよいし、実際にしている。口をきわめて公明党批判をしている石井一民主党副代表も崇教真光から支援してもらっている。)

この二つの次元の違う政教分離が混同されて世間で論じられているのだ。いやその正当性を知っているくせに、公明党の対立勢力は政敵を追い落とすためにこうした批判を繰り返すのである。そしてもらえるときには黙って票をもらう。

政治家とはいかにいやらしい存在なのか、痛感する事例である。

憲法学を少しでもかじれば分かることである。

国民は政治家とマスコミのウソに騙されず、正当な議論をしなければなるまい。

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『嫌韓流2』を覗いてみた。

以前に「韓国修学旅行で土下座って本当?」を書いた。かなりの反響をいただいているが、韓国で土下座をさせられている学校などないという結論はまったく揺るがずに現在にいたっている。

ただ、気になる存在として「嫌韓流2」に、この件のことが書かれているという情報があった。他国の国民を「これでもか」と言わんばかりにこき下ろしているであろう内容を想像すると、本屋で買うほどの気持ちも起こらず、本屋ではビニールがかかっていることも多いので該当部分の立ち読みもできず、相変わらず読まないままでここまできた。しかし今回ひょんなことで中身を確認する機会が訪れたのであった。

世羅高校の件に限定して述べる。

これは完全な情報操作だ。根本から違う。

まず事実を述べる。

まず、世羅高校の校長先生が「日の丸・君が代」問題で板挟みとなって自殺される事件があった。なぜかそのタイミングで産経新聞が韓国日報の記事として「半年前に世羅高校が韓国に修学旅行へ行き戦前の日本の行為を謝罪した」と発表したのだ。その記事には「土下座」という表現は一切ないし、写真にも写っていない。時あたかも「国旗国歌法案」の審議が行われているときで、自民党の二人の議員が「教師達はお線香もあげにこない」というデマを流した。

この順番で出来事を読めば、産経記事自体が情報操作の可能性がある、と感じられるだろう。

ところが『嫌韓流2』は、まず「韓国で世羅高校が土下座させられた」と騒ぎ、その後で「しかもその半年後に校長先生が自殺している」とのべ、極め付きに「教師はだれも線香をあげにこなかった」(お葬式には全員参加したのにご自宅に行かなかった、というのが事実。)と、とことんすべてを教師の責任にしている。

まず、土下座させられた」がウソ半年後の自殺の原因を検討しない」のが不誠実線香をあげなかった」がウソ出来事の並べ方」が意図的

まあ、やっぱり所詮はプロパガンダ本なんだな、と思ったのである。

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