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ケイタイと学校 2

私の現在の赴任校は県内上位に位置すると巷間言われている進学校である(正直そんなに優秀だとは思わないが)。生徒は傲慢だが理解力が高く、情に薄いがある程度自律している。そういう学校はだいたい生徒の自由度が高い。教師が管理しなくても生徒が自分で自己管理するからである。

そうした背景から、本校では携帯電話の持ち込みは自由である。ところが今年4月以降、授業中に携帯電話が鳴ることがあまりに多いということで指導を入れようということになった。結果なんと、すべて集約すると現在までの指導件数は80件もあった。

原因は

①業者からのメールがきた(定期購読のメールを含む)が最多。マナーモードは解除していた。

②アラームの設定を間違えた。または電源を切っていたのにアラームが鳴った。

③他人から電話がかかった。メールが来た。

④自分で使った。

の順で多かった。

実は、本校で「指導する」と宣言してから、生徒はかなり気を使ってきた。しかしそれでも授業中に携帯は鳴るのである。①と②は生徒の責任もあるがケイタイ自体の問題でもある。機種によっては電源を切ってもアラームが鳴る設定になっているのだが、全く理解に苦しむ。業者は顧客の置かれている状況をいちいち考えているような暇はないのでいつでもメールを送る。それならケイタイの基本設定はマナーモードにして販売するべきだし、音が鳴るのはしばらくすれば解除されるくらいの設定でいいのではないか。携帯電話を販売する業者は自分たちが販売している品物が社会に迷惑になっているという意識が低いのではないか!

実際、センター試験の受験会場でアラームがなり、しかもスヌーズ設定だったので最悪の事態となった例が本校でもあったのである。原爆を開発したのは悪ではなく、使ったやつが悪だ、という論法もあろうが、アインシュタインのように開発した者の自己責任を意識するのが現代の潮流ではないのか。(2chにも聞かせたい)

ケイタイは世間に迷惑を振りまいた!携帯各社はこれを事実として受け止めなくてはなるまい。

今のご時世、子どもに携帯GPS、家庭と連絡の取れる携帯電話、携帯メール機能、携帯警報ベルは必要だと思う。しかし、携帯パソコンに近い現在のケイタイの機能すべては必要あるまい。コミュニケーションの欠如、イジメの温床、マナーの欠如につながり、社会問題化していることを携帯各社はもっと強く自覚するべきである。

生徒達だけではない!大人も携帯をコントロールできていない現状にしばしばうんざりする。卒業式の心を込めた呼名の時に鳴り響く携帯の音に、何度腹が立ったか。コンサートの静寂のなか携帯が鳴り、あまつさえ「はい、もしもし」と出てしまう大人もいた。

もはやユーザーの能力の問題ではない。

携帯電話自体が使いこなすことのできない化け物となっている。

私はそう考えている。

そうした視点から、子どもに禁止するのは賛成である。でも今さにら禁止できるかどうか、というと、不安である。

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ニュースは解説しろ!

最近ずっと感じてきたこと。ニュースが解説しない。

ニュースの使命は、視聴者に現在起こっている出来事を解説すること。事件であれば、その原因とその影響とその教訓などを視聴者に解説して、視聴者の生活が少しでも安全でよりよいものになるようにすることではないのか。

コメンテーターの感想なんか求めていない解説者を呼んでこい!いったいいつから素人がコメンテーターになったのだろう。「とんでもないですね」なんて時間の無駄。殺人事件の時に犯人が許せないのは当たり前である。しかし、犯人の側にも何か酌量するべき事情があるかも知れない。そのことに思いがいかないくらいバッシングのオンパレード。物事を単純化して正義の味方をきどるのはやめてもらいたい。今、マスコミが冤罪を作っている。

政治的な出来事の時に事態はさらに深刻になる。今は「お上」を批判すれば受ける時代。不景気が国民の不満を呼び起こし、「国のために自分に何ができるか」よりも「国が何をしてくれないか」ばかりを気にしている国民性がある。故ケネディ大統領が聞いたら嘆くだろう。だからニュースは国民に何ができるか、国民に必要な情報を開示し解説しない。勉強する時間がないくらい忙しい不勉強な人気メインキャスターや人気コメンテーターにとって、自分に期待されているのは国民と一緒になって怒ったふりをしていること。わかったような顔をして「私たち庶民の気持ちなんか、政治家には分からない」と言っていれば視聴率がとれるのである。国民は「そうそうその通り」と人のせいにして少し安心する。中小企業の融資政策に対してある経営者が「借りたら返すのが大変なんだ。政治家には我々のことなんかわかりっこない」と言っている映像が流されて、それにあいづちを打つコメンテーター。

100%すばらしい政策などあり得ないから、ニュースは残りの何%かをつけば国民の不安と不満を掻き立てることができるのである。「この政策の利点は何、欠点は何、この意見の利点は何、欠点は何。国民の皆さんどちらを選択しますか」という解説をしないから国民はため息をつくだけ。どんどんやる気がなくなる。とにかく与党・政府批判ばかり。これが今のニュースバラエティだ。

専門性の高い職業の人をこき下ろして「先生と呼ばれていても所詮こんなもの」という風潮も無関係ではあるまい。

このままのマスコミでは、マスコミが日本を滅ぼす、と言われても仕方がない。マスコミよ!変われ!そうしないと日本が危ない!

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政教分離、再び

政教分離についていろんな本を読んでみた。つくづく世界にはいろんな政教分離がある。

イギリスには、イングランドにイギリス国教会、スコットランドに長老派教会という国教が存在する。ウェールズには国教はない。国教だから政府の金で運営されている。公立学校を教会が運営していることもあるらしいし、宗教教育も行われている。国教会が成立した背景にはカトリックの影響力からの脱皮という大きな課題があったが、現在の政府は教会・宗教団体を差別しないし、国民の宗教生活には介入しない。政治判断や法律にひとつの教会の意志が入り込むこともない。そういう政教分離。

ドイツでは、教会は「公法上の社団」としての公の地位が与えられる。カトリック、ルター派、カルヴァン派、の信者として登録された人から政府が教会税を取り、教会に分配している。しかし、憲法上は他の宗教(ユダヤ教やイスラム教など)も「公法上の社団」になりうる可能性があるし、イギリスと同じく、政府は国民の宗教生活には介入しない。政治判断や法律に特定の教会の意志が入り込むこともない。

フランスは、ライシテというより厳格な分離を行う。フランス革命において自由、平等、博愛の精神を保障する共和国を打ち立てるためには、カトリックは打倒するべき旧勢力だったのだ。特に教育の世界からのカトリックの排除に力がそそがれ、公の場においては宗教的なシンボルを身につけることも、宗教教育も拒否される。そのかわり政府は、一般市民生活における宗教界には一切介入をしないことで、すべての教会の平等をはかっている。

アメリカは、世界ではじめて国教を禁止した国で教会税の徴収もしないという意味ではフランスに近いが、「市民宗教」といわれるキリスト教的な伝統は肯定される。大統領は就任の際に聖書に手を置いて宣誓し、God Bless Americaで演説は終わる。議会や軍隊にはチャプレンという教会に属さない聖職者がいるし、貨幣や紙幣にはIn God We Trust「我ら神を信ず」と書いてある。このことはフランスでは考えられないそうである。イギリスで迫害された多様な教会が集まってできた国なので、特定の教会が優遇されたり迫害されたりしないようにすることがアメリカにとっての政教分離のそもそもの意味なのである。

世界にはこのように多種多様な政教分離が存在するので、それをひっくるめて定義するとなると『国家と宗教との分離』橋本公亘「日本国憲法」、が一番オーソドックスだがこれでは具体的に何を意味しているのか分からない。ほとんどの専門書は定義をしないで内容の解説に入っている。つまり定義すること自体が難しいのである。広辞苑、大辞林、大辞泉などの辞典も表現が微妙に違う。しかもどれも国際的な政教分離の現状を表しているとは言い難く表現が薄っぺらい。これに随うと、イギリスやドイツには政教分離はないことになり、たいへん失礼な定義となっている。

こうして考えるとひとつの共通点が見えてくる。つまり、国家それ自体の宗教色は国によって違うが、国家は宗教の世界には介入しない、そして国は特定の教会や宗教団体の意向に従って政策判断をしない、ということである。イギリスは国費で国教を維持していても、ドイツはキリスト教3教会の教会税を徴収していても、フランスは公の場からは宗教的なものを徹底的に排除しても、アメリカは市民宗教的な伝統は息づいていても、国家は国民の宗教の場には介入しないのである。そして特定の教会を優遇・迫害せず、その意見や都合で政治判断が決定されることはない。これが世界の政教分離の共通項なのである。

つまり、政教分離とは、宗教に対する規制ではなく、国家に対する規制なのである。

この共通項さえ人類の資産として守っていくならば、日本には日本の政教分離があっていいと私は思う。ヨーロッパにはカトリックが世俗権力に対して絶対的上位にあったが、日本にはそのような宗教は存在してこなかった。中世の比叡山・三井寺などの大寺社がそれに匹敵するという見方もあるようだが、国家の方が基本的に強い。いくら発言力があったといっても将軍を比叡山の法主が任命することなどなかった。ヨーロッパと比べると日本の宗教は弱かったのである。しかも江戸時代以降は完全に権力に飼い慣らされ、寺請け制度という戸籍管理、役所仕事の片棒を担がされ、利用され、寺もそれに安住した。だから日本の歴史をふまえれば、国家の宗教への介入にこそ敏感であるべきだし、神道が国教扱いされていた戦前を思えば、その復活を許さないことにこそ神経を使うべきである。アメリカがこうだからとかフランスがこうだからとかあまり考えなくてもいい。日本の歴史をふまえて日本の政教分離を確立すればいいのである。

さらに、政教分離が信教の自由を守るために設定された「制度的保障」であるという日本国憲法の基本を確認するならば、宗教団体が国民的な権利から政治に対して積極的に発言するのを、国会質問などの国の権力の場を使って批判したりなどすることは、信教の自由の侵害にあたり絶対に慎むべきである。

政治家よ、歴史観と見識を持て!私は声を大にしてそういいたい。

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