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やはり柔道の審判はおかしい

ロンドンオリンピックが始まった。

柔道男子66キロ級の準々決勝、日本の海老沢匡と韓国のチョ・ジュンホの試合で珍事が起こった。

延長でも試合が決せず、旗判定に。判定結果はチョ選手に旗三本。この結果に場内は大ブーイング。審判委員が主審と副審を呼び寄せ、何事かを指示。旗判定のやり直しの結果、なんと海老沢選手に旗が三本あがり、逆転勝利となったのである。

私はこの試合を最初から見ていた。

チョ選手の掛け逃げ、反則ギリギリ?(いやあれは反則だろう)の危険な行為、とにかく組まない姑息な態度(これはチョ選手に限らないが)にイライラしていたし、延長で有効が出て一端は海老沢が勝利したかに見えたので、私は当然判定なら海老沢だろうと思っていた。

それがチョ選手に旗三本は、これは本当に驚いた。まずこれが審判団の間違い。

審判委員にはそれが分かったのだろう。やり直しを指示。やり直した結果完全に逆の結果となった。これが2回目の間違い。

いったい試合の判定を握っているのは誰なのか、という疑念を感じざるを得ない。こんな審判でどうして安心して試合ができるというのか。これは両者の思いであろう。

以前にも、「世界柔道」に関わって審判ことを書いたことがある。

あれから「効果」がなくなって、組む前に足を取りに行ったり、積極的に組もうとしないことも「指導」の対象になるなど、「こかしあい」のJudoに改善が見られて喜んでいたのだが、審判の質は変わっていない。

なぜ、副審は座って試合をみているのだろうか。

「指導」は審判の気分や考え方の違いで出し方が違うように見えるが、どうなのか。

審判委員がやり直しを指示できるという制度は、とりもなおさず審判の質が低いことを前提にしているのではないか。

柔道の審判には改善すべきことが多すぎる。

それにしてもこのような珍事が、日本と韓国という微妙な空気が流れる両国の試合で起こったのは、また面倒な話である。

審判団の猛省を促したい。

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「いじめ」について

「いじめ」自殺について、報道が続いている。これまであまり「いじめ」について述べてこなかったが、今回思うところを述べてみたい。

●「いじめ」は起こることを前提とするべき

大人の世界にもいじめはある。ましてや未熟な子どもたちの世界にいじめがないはずがない。知っている教師に、クラスでいじめが発覚したことにショックを受けて登校できなくなった人がいたが、生徒のとらえ方が甘すぎる。

しかし、私は「いじめはなくならないよ。所詮人間なんてそんなものだから」というシニシズムとは一線を画す。

●「いじめ」は早期に発見すべき。発見したら徹底的に生徒の成長の契機とすべき。

私たち教師はいじめをする人たちが存在する社会に卒業生を送り込む。自分は「いじめ」をせず、他人のいじめを見過ごさず、いじめられている人を徹底的に守る人間性を涵養して卒業生を送り出さなければならない。

「いじめ」は早期に発見しなければならない。そして発見したら、特に「いじめている側」と「周辺の傍観者」にとって徹底した学びの場にしなければならない。

●被害者を徹底して守る!

その大前提となるのが、被害者を徹底して守る、ということである。「被害者になるなんて情けない」という親がいる。「被害者にもいじめられる原因がある」という教師がいる。彼らにはいじめられている被害者の気持ちは一分も分かっていない。そんな言葉は被害者を少しも救わないばかりか、本人を追い込んで心を閉ざさせてしまう。早期発見は遅れ、解決はできない。

「うちのクラスでいじめがあったら、徹底的に被害者の側に立つ。必ず相談してくれ。」と担任は宣言するべきだ。「しばらく学校を休んでも構わない。自殺するよりはましだ」と教師が言うべきだ。そして、その感覚を保護者とも共有するべきだ。

●「いじめ」が発覚しても教師を責めるな!

以上の観点を阻む要因の一つに、クラスで「いじめ」が発生するとそのクラスの担任を責める風潮がある。上記の前提に立てば、「いじめ」を早期に発見した担任はむしろ評価されるべきである。それを逆に責める風潮が、教師の側の問題もみ消し、臭い物には蓋、のような間違った対応を生んでいる時があるのも事実だ。

●最も難しいのは、加害生徒の保護者への対応だ。

あなたの子どもさんが「いじめ」をしていました、と言われることは親にとって情けないことである。

だから保護者のなかには自分の子どもが加害者だと認めない人もいる。ここが本当に難しい。認めないばかりか訴えてくる可能性がある。訴えられた段階で、加害者と被害者の関係がくずれ、加害宅が学校と教育委員会の指導を受け入れなくなるのは目に見えている。教育現場はそれを極端に恐れる。今回の事例で、「いじめはあったが、それが原因の自殺かどうかは分からない」としているのは、そうした事情からであろうと思う。

だから学校と教育委員会側は、確実な証拠を持たなければ断言しない。でなければ裁判に負ける可能性もある。

しかし私は、「徹底して被害者の側に立つ」という原則を貫くべきだと思う。被害生徒の無念もその保護者の無念は本当に身につまされる。なぜ自分の子どもが命を絶たなければならなかったのか、という真実を知りたい、という気持ちは充分に理解できる。しかも大津市の事例では、すでに被害者と加害者の関係ではなく、悪いのは学校と教育委員会になっている。こんな環境では加害生徒と周辺にいた傍観生徒を指導できるかどうかも疑わしい。ならば、裁判に負けるリスクを犯してでも被害者側に立つべきだったと思う。

★私の体験

それにしても今回の報道が事実なら、中学校側の対応は稚拙である(事件後の対応は大津市教育委員会がいう通りに対応しているだけなので、学校を責めるのは難しい)。生徒の訴えや周辺の生徒からもシグナルがあったようなのに、このような事件を招いたということについては何度も謝罪するしかない(もっともその当たり、どのような謝罪が行なわれたのか、などいっさい報道がないので分からないが。こういう時、学校側の誠意ある対応があったとしても無視するのがマスコミ)。

私もクラスでいじめが発覚したことがある。被害生徒の訴えだった。かなり悪質な事例だった。私は被害生徒を徹底して守り、加害生徒に反省を迫ったが、首謀生徒とその保護者がどうしても「いじめ」を認めなかった。

本人が認めて反省すれば、「被害生徒も、もう大丈夫、といっているから」と被害生徒を立てて仲直りさせ、解決しようと思っていたのだが、どうしても認めない。それどころか「一緒に遊んでいただけ。そんなことで「いじめ」だなんて可笑しい」と親も一緒になって被害生徒を批判し始めた。私は、「この事例が理解できないなら、学校の集団生活には不的確です。残念ながら退学していただくしかありません」とまで迫ったが、それでも認めなかった。

(この時、私と一緒に家庭訪問をした学年主任は、「どうなるかわからないから」と辞表を用意しておられたと聞いた。私を守って自分がかぶろうと思っていて下さったようだ。後で聞いて本当に感謝した)

何度も家庭訪問するなかで、加害生徒からもその保護者からも、親に対する不満、将来への不安、子育ての悩みや仕事の悩みまで聞き出せるようになったのに、どうしても「いじめ」だけは認めなかった。結局、学校を文字通り自主退学された。

この経験は、「いじめ」の解決というにはほど遠い。被害生徒を守り、加害生徒を指導し、被害生徒と加害生徒の新しい人間関係を構築することに成功して、はじめて本当の解決である。

※いつものことだが、報道が加熱すると何が真実なのか分からなくなる。真実を追究して報道することが使命のはずのマスコミが、スクープ合戦に陥るとウソを垂れ流すようになる。皮肉なものである。得てしてこういう場合は、学校が批判されるもの。

報道をしている人たちと報道を見ている人たちのなかに「加害生徒と周辺で黙って見ていた傍観生徒への指導も大切だ」ということを分かっている人がどれだけいるのだろうか。

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