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靖国への疑問

今年も終戦(敗戦)の日が過ぎ去った。毎年この日に、戦没者の無念に思いを馳せ、「二度と戦争を起こしてはならない」と決意・確認することは、この国にとって本当に大切なことであると思う。

さて靖国である。

はじめに、
中国・韓国などの外国が日本の国内の宗教事情に首を突っ込んでくることには私は否定的である。「うるさい」「他国のことに口を挟むな」と言っておく。「政府が宗教を優遇したり弾圧したりしない」という政教分離原則は、国によって形は違うが近代民主国家が獲得した原理である。他国の宗教事情について口を突っ込むのは政教分離原則に反する可能性がある。政府レベルで抗議されても日本国政府が靖国という宗教法人のあり方を変えることは政教分離原則にしたがえばできるはずもない。靖国のあり方は宗教レベルの議論でしか変えられないものなのである。閣僚であれ政治家であれ、個人の信条で参拝することを強制的に止めさせることなどできるはずがない。それを政府レベルで「するな」というのは、近代民主国家の否定である。もちろん、公人として公費を支出しての「公式参拝」は違憲であるが、それも外国から指摘される筋合いのものではない。

ただし、中国・韓国が言うのは問題ない。議論もしたらいい。しかし、ことは靖国神社という日本の宗教法人の問題である。靖国問題は本来、靖国などというばかげた宗教団体を信じて参拝する愚かな政治指導者の「個人的な資質」の問題である。ところがこいつらは、中国・韓国などから批判があるたびに「内政干渉だ」と「政治問題」にすりかえようとする。日本の中で日本人が「靖国をどう評価するか」という議論を進めることが優先されるべきで、外からやいやい言われると、冷静でなくなる人がでてきて「内政干渉」だと勘違いする人もでてくる。自重してもらいたいものだ。

さて、ここからは「宗教法人 靖国神社」に対する私の思いである。

私は前安倍政権が誕生したときに「靖国神社に戦争責任がある」という趣旨の記事を書いた。その思いは今も変わっていない。
「日本人なら靖国に詣って当たり前」と言う政治家がいる。大きなお世話である。

1.私には靖国神社に英霊が眠っているとは思えない。
そこにはどのような哲学・死生観があるのだろうか。どういう理屈でそうなるのだろうか。
戦没者を祀るために作った神社だから戦没者が眠っているのは当たり前、とは私には思えない。いかなる信用があってそんなことが信じられるのだろうか。
公が作った作り物の神社になど魂が帰ってくるはずがない。日本の伝統でもなんでもない。日本各地に自然に成立した伝統的な神社を、国家権力によって統合再編成して(潰すものは潰して)ヒエラルヒーに押し込んむことで、むしろ日本の伝統を壊したのが国家神道ではなかったのか。その象徴が靖国神社ではないのか。靖国を認めることは、長年培われてきた日本の文化を国家主導で再編し、国民精神を集めようとした明治新政府の行為を認めることになる。
レイテ島で亡くなった私の祖父はそんな出来合いの靖国になどいない。もし、魂というものがあるのなら、遺骨が埋まっている現地に留まっているか、帰りたくって仕方がなかった祖母と母の元に帰ってきたかであろう。

2.靖国は戦争遂行装置である。
「靖国で会おう」この言葉が、どれだけ多くの若者が無策無謀な作戦を受け入れる動機になったのか。靖国はいわば戦争遂行装置だったのである。この国の軍隊ほど兵隊の命を軽く扱った軍隊は近代には存在しないのではないだろうか。「死して虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓の一節に象徴されている。「捕虜にならずに死ね」「死んだら靖国で神になる」この思想がいったいどれだけの生きることのできる命を散らすことになったのか。先の大戦の日本人兵士の半分以上が餓死であったことと考え合わせれば、私は怒りを禁じえないのである。
ちなみに、アメリカのアーリントン墓地などと靖国はまったく違う。アーリントン墓地に眠る兵士たちは母国を守る「神」などではない。アメリカの兵士は「アーリントン墓地で会おう」などと言って玉砕しない。
靖国は無策無能な戦争指導者が無謀な作戦における死を納得させる手段。兵士を玉砕させる言い訳。悲劇を美談に摩り替えるフィルター。つまり戦争の道具。

3.靖国参拝は日本人として当たり前などとのたまう政治家らがいるが、自分の宗教的信念を国民に押し付けていることが分かっているのだろうか。
靖国を否定する人を「日本人じゃない」「売国奴」とまで悪し様に批判する連中がいるが、いったい何様だと思っているのだろうか。議論はいい。信教の自由には布教の自由も含まれているのだから。靖国神社の信者を増やす為に論陣を張るのは信者ならば当然であろう。しかし靖国を嫌いな人、評価できない人に対して、日本人じゃないとまで悪し様にいう政治家の存在はいかがなものか。靖国を強力にすすめる人たちの言動に他の宗教団体にはない独善性・強迫性を感じるのは私だけであろうか。
4.現憲法下に存在する宗教法人靖国神社は自らの戦争責任をどう総括するのだろうか。
国民みなが祈りを捧げたのに一国を敗戦の憂き目に遭わせた宗教的責任。靖国は無力な宗教だということを証明しているのではないか。
○敗戦が決定的だったのにも関わらず、無能・無策な戦争指導者が、無謀な精神論だけで立案した計画で多くの若者の命を散らせた。「靖国で会おう」という誰でも知っている言葉が示すように、そうした無策無謀な作戦の実行に靖国は利用された。その責任を認めるのかどうか。
国内で無策無謀な作戦を立案した張本人たち(その象徴がA級戦犯。彼ら一人一人に対する評価はいろいろあるが、少なくとも戦没者ではない)を合祀した責任。靖国は戦場でなくなった方々を祀るために作られたのではないのか。なぜ、彼らを特別に合祀したのか。そのために、天皇陛下と多くの国民が参拝できなくなった。その責任はどのように誰に取るのか。

4.戦没者名簿を厚生省から得ていた過去のシステムは政教分離違反だったのではないのか。そのことの総括を靖国は行ったのか。

これは、先の大戦を日本人としてどのように総括するか、ということとも関連する問題ではあるが、私の思いの中心はむしろ靖国の宗教としての価値について、である。靖国には参拝に値する宗教的価値などない、と私は思っているのである。

戦争でなくなった方々を国として悼む場所として靖国がふさわしいとは私にはまったく思えない。

ちなみに私は私の宗教的信念に従って、戦没者を毎年供養している。そこに国家が介在する余地などない。なぜ靖国を信仰する人は、政治家に参拝して欲しいのだろうか。政治家が参拝することを目的としている宗教法人は他にないのではないか。靖国という宗教は国家に依存し自立できない弱い国民性を表してもいる。

やはり私には靖国など必要ない。
追記:次の「アゴラ」掲載の主張は、私の考えにほぼ一致している。感性の似通った人と出会うことは、本当にうれしいことだ。

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