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祖父の記②

1916(大正3)年、地元大柿町大原の大古(おおふる)尋常高等小学校の尋常科を出た武司は、併置されていた高等科に進学。1919(大正6)年には、親元を離れて佐伯郡立工業徒弟学校(現・広島県立廿日市高等学校)に進学した。廿日市は西中国山地からの林産物の集積地として発展した町で木工の伝統があり、武司はここで指物を学んだ。指物とは、釘などの接合道具を使わずに、木と 木を組み合わせて家具・建具・調度品などを作る技術である。進学先選びには家業との関連もあったであろう。1921(大正10)年3月徒弟学校を卒業した武男は、一時、呉海軍工廠に就業。当時柿浦から海軍工廠まで渡船があり、大柿村から1000人以上が働きに行っており、武司もその一人であったと思われる。

しかし、ほどなくして東京へ上京した。何が武司を東京へ駆り立てたのであろうか。
灘尾弘吉は22才。まだ内務省には入省していなかったであろう。しかし、武司の星雲の志を刺激するのに一役買ったであろうことは想像できる。
もう一人、いつどのように出会ったのかは不明であるが、同郷の佐伯郡玖波村出身に正木亮(あきら)がいる。当時は司法省行刑局勤務で、この年司法省監獄局に入っている。上京した武司は家具屋に就職し、都会での生活が始まった。

1923(大正12)年9月1日、職場近くの食堂でカレーライスを食事中、激しい揺れが襲った。関東大震災である。武司はテーブルの下にもぐりこみ、ことなきを得た。

翌年、徴兵によって九州福岡の大刀洗飛行場で軍務についた。後に東洋一の航空基地となる大刀洗飛行場も完成して5年。航空第4大隊が置かれているだけであったが、飛行機の重要性に着目していた軍部によって翌1925(大正14)年には航空第4連隊に昇格するなど発展途上であった。武司はここで整備兵として2年間をすごし、兵長で退役した。第一次世界大戦終了後の、国際協調路線が引かれていた時代であり、大きな危機を感じることなく兵役を終えたものと考えられる。

東京に帰った武司は、1929(昭和4)年、小菅刑務所に作業技師(指物工担当)として奉職した。トルストイなどの影響を受け監獄の環境改善に取り組んだ正木亮と知己となった。正木は受刑者と起居を共にして待遇改善策を提案するなど現場からの監獄学を打ち立て、戦後は死刑廃止論の弁護士として有名となった人物である。武司は受刑者を改心させ、手に職をつけさせて社会復帰の道を歩ませることに没頭した。
1932(昭和7)年には正木家出入りの大工の棟梁・中澤英助の娘である下谷区万年町のさちと結婚。さちは、1926(大正15)年、上野高等女学校(現・上野学園)を卒業した才媛であった。二人は東京で、和司(昭和8年)、康史(昭和9年)の2男をもうけた。

1934(昭和9)年、岸野秋一という同郷人が小菅刑務所に奉職。のちに、たいへんに世話になるこの人物は、気の合う、そして頼りがいのある先輩であった。

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