« 「韓国修学旅行で土下座って本当?」第四回 | トップページ | 祖父の記② »

祖父の記①

広島県の瀬戸内海に能美島という島がある。江田島と地続きになっているといえばおおよその位置が分かる方もおられるかと思うが、その名を聞いたことのない方の方も多いのではないだろうか。能美島は佐伯郡、江田島は安芸郡と郡も違ったが、その間は浅瀬となっており干潮時には飛び石を飛ぶように行き来ができた。「飛渡瀬(ひとのせ)」という集落名はそれをあらわしているという。浅瀬が埋め立てられたのは昭和はじめのことである。

島は全土が農業地帯で、米と麦以外に菜種・実綿・煙草・砂糖などの商品作物が収益をあげていた。明治期に蜜柑が導入され一時特産物となった。5月頃には蜜柑の花が咲き薫ったことであろう。
 漁業は近海の漁場を他の地域にとられ、さほど盛んとは言えなかったが、漁師には遠く韓国沿岸にイワシ漁に出かけて利益をあげるものがいたという。
 そんな島に大きな変化が訪れたのは明治中頃のこと。1888(明治21)年東京築地にあった海軍兵学校が江田島に移転。対岸の呉鎮守府とあわせて海軍の重要拠点として位置づけられることとなり、1894(明治28)年の日清戦争の際には広島に大本営が設置され、能美島も呉要塞地帯に組み入れられたのである。1896(明治29)年には能美島に朝日紡績能美工場(のち大阪合同紡績。現在東洋紡に吸収)が設立。さらに1903(明治36)年には呉海軍工廠が完成するなど、静かな農漁村は急速に近代化の波にさらされていった。各地から働く場所を求める移住者が相次いだ。

 武司は、明治37(1904)年12月29日、文次郎・スワの長男として、その能美島、佐伯郡大柿村大原に生まれた。父・文次郎は建具屋を営んでいたが、武司の祖父、文七郎の代に広島城下の段原村から移住してきたいわば新住民であった。
 大柿村は東能美島の中~南部(現在は江田島市)。大原(おおばら)、柿浦、大君(おおきみ)、小古江(おぶれ)の4カ村が明治22年に合併してできた村で、村名は二大集落であった大原と柿浦からとったという。大原は、世界で初めて全身麻酔による乳ガン手術に成功した華岡青州の門人・山野井元恵の出身地である。また同時代人としては、のちに文部大臣や衆議院議長となる灘尾弘吉(なだおひろきち)がでている。武男の5才年上の弘吉の家は町の名士で、弘吉は「神童」と呼ばれるほど優秀で有名であった。武司は灘尾家までよく遊びにいったという。また、被差別部落の解放に生涯をささげた山本政夫は隣村の柿浦で1898年の生まれである。灘尾と山本は同郷の友人として肝胆相照らす仲であった。
 急速に世界へ門戸を開いた故郷。ここにはさまざまな情報が飛び交い、日本や世界というより大きな世界を意識する素地があったのではないかと思われる。過去の偉人、そしてのちに東京で活躍する郷土の先輩と語らいながら、武司はどのような夢をいだいたのであろうか。

|

« 「韓国修学旅行で土下座って本当?」第四回 | トップページ | 祖父の記② »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/187530/60468461

この記事へのトラックバック一覧です: 祖父の記①:

« 「韓国修学旅行で土下座って本当?」第四回 | トップページ | 祖父の記② »