岡田外相は何をしたいのか?

岡田外相が、日米の「密約」についての文書を探し当てたという。米軍の空母などが寄港する際に核兵器を搭載したままで寄港してもよいという密約である。非核三原則に反するのではないかと言われている。

この問題はすでに元駐日米大使のライシャワーなどの複数のアメリカ人によって公にされてきたが、日本側はその存在を認めてこなかった。そもそも日本にエネルギーや食料の補給のために寄港する際にわざわざ核兵器をどこかに降ろすわけがないので、搭載してあることは「公然の秘密」に属していた。

私が分からないのは、岡田外相はこれを暴いていったいどうしようというのだろうか、ということである。

前与党の自民党が国民にウソをついてきたことを暴きたいのだろうか。しかし、岡田も鳩山もその自民党でいっしょにウソをついてきたのである。小沢なんか幹事長だったのだ。今の自民党だけの責任にはできまい。

既成事実として核搭載空母の寄港を正式に認めようというのであろうか。そんなことをすれば、社民党との関係が悪化することだけではなく党内も分裂する可能性がある。

核搭載を今後認めない、ということだろうか普天間移設問題が紛糾しているこの時点でそんなことをすれば、アメリカとの関係が相当に悪化することは目に見えている。

この問題は相当な難しさを含んでいる。だからこそここまでの政権はアメリカ側が指摘しても認めてこなかったのである。

単に「国民の目の前に事実を白日の下にさらす」というだけなのだろうか。いや、それでは政治家として無責任の誹りを免れまい。

岡田外相は、何を考えているのだろうか。来年1月に分かる。

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教員養成六年制にも反対する

政治家というものは、時に現場感覚からかけ離れた話をするものである。政治家とはそういうものだと言ってしまえばそれまでの話だが、あまりにかけ離れた政策を実行することは百害あって一利無しである。教員免許更新制はその一つだが、教員養成六年制もそうである。唖然としてしまう。鳩山総理に象徴される「お金持ちの論理」だ。

「教師は重要な仕事だから六年くらいは勉強するべき」という人もいるだろう。しかし、医者や薬剤師、弁護士などの六年間の修学が必要な資格は就業にほぼ直結している。六年間努力すればほとんど必ず就業できるのである。しかし、教師は違う。

「六年間やらなければいけないとなると、いい加減な人はもたない。教員になりたいという意志の強い人が残るからいい」という人もいるだろう。しかし、意志だけでは六年間持たない。実際に就職できるかどうか分からない免許を取得するために六年間をかけるリスクは大きい。家計の苦しい苦学生にとってこの壁はあまりにも大きいだろう。もっといえば、意志の強い人も欲しいが力ある人が欲しい、というのが現場の本音である。この制度は、金持ちのポンポンを優遇し、力もやる気もある苦学生を排斥する事になりかねない。

「一年間の教育実習」なんていうのは、もう愚の愚の愚作である。教育実習がどんなものか分かっていない人のいうことである。日教組がこれを提案したとすれば、組合専従がいかに現場から乖離したものとなっているか、ということの証左となる。そもそも教育実習は医者のインターンと違って教育現場の触りしか経験できないものである。成績、問題行動の指導、カウンセリング、保護者との対応、などの生徒のプライバシーに関わることは一切関わらせない。教科指導やホームルーム指導、休み時間の接し方にプラスしてクラブ指導くらいが教育実習の範囲である。世間の方々が表面的に「教師の仕事」と思っている部分だけしか触らせない。教職の最も大切な部分にはタッチできないのである。いや、させないのである。それも当たり前である。無責任な学生に外で何をしゃべられるか分かったものでないのだから。それでいったい一年間もなにをさせようというのか。

ましてや、経験も責任感も薄い実習生の存在は学校にとって大きな負担なのである。授業内容に間違いもある。実習生が帰った後で授業をやり直す事もあるくらいである。生徒に不用意な言葉を投げかければホローは指導教員の責任。社会人としての自覚に欠ける実習生の指導は大変なのである。それを一年間などとは、現場を知らないとしか言えない。

さらに、教育実習に真面目に取り組もうとすればアルバイトをしている時間などない。私は二週間の実習の間に有り金を使い果たしてしまいしばらく悲惨な食生活をした。一年間バイト無しで実習に取り組めるとしたら、ヤッパリ金持ちのボンボンだろう。

様々な角度から考えて、やはり六年制は無理と言うしかない。

川端氏にいかなる資質があって文部科学大臣になったのか知らないが、組合上がりで教育の現場を知らないなら、教師の意見を聞けばよかろう。教員免許更新制の代わりになるならどんな制度でもよい、ということにはなるまい。

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それでもやっぱり信用できない

民主党が大勝した。大方の予想通りということだろうか。今、多くの国民の期待が民主に集まっている。

それでもやはり民主は信用できない。理由は一言。「誠実でない」につきる。

児童手当拡充に「バラマキだ」とさんざん反対しておいて子ども手当の創設を公約する。反対した理由を問われて「金額が少ない」。バラマキ批判はどこへいったのか。定額給付金に反対しておいて給付付税額控除を主張する。不正に企業献金を受け取っておいてばれると企業献金の廃止を主張する。そういう人が幹事長になる。戸別農業保障の前提だったアメリカとのFTA締結を選挙前に棚上げする。なのに戸別保障は残す。与党批判のために2/3衆議院再可決を批判し憲法を否定する。そのせいで与野党で合意してきた法案さえも廃案にする。

他にもいっぱいある。

とにかく政権が取れればいいという、そのなりふり構わない姿に不信感があるのである。民主党は、国民生活を人質にしても政権奪取を優先させた。そうした姿勢が信じられないのである。

政策もいろいろ言っているが、財源は「無駄遣いをやめる」の一点張り。どこをどれだけ削るのかという具体論はなし。問われれば「我々は野党だから必要な情報を得られない」。つまり現状を把握していない、という開き直り。挙げ句の果てに「できなければごめんなさいとあやまればいいんだ」(藤井最高顧問)。それでどうして出す方だけは金額を言えるのか。ムチャクチャである。だいたい「野党だから」という言い分がおかしい。野党でも実現できることはある。現に実例もある。

ここまでの与党批判も、自ら提案した対案に与党が歩み寄りを見せても参議院で否決し、与党に衆議院2/3再可決させ「強行採決」のレッテルを貼るなど、国民生活を危機に陥れてでも、とにかく与党の評価を落とすという戦略に出ていた。肝炎対策緊急措置法案と肝炎対策基本法案も、内閣不信任案と参議院問責決議案の前に廃案となった。麻生首相の解散決断後の不信任案と問責決議案になんの意味があるか。選挙前のパフォーマンスにすぎない。福田衣里子は何故こんなことをする民主党から出馬したのか分からない。民主党が薬害肝炎対策になにをしてきたというのであろうか。騙されているとしか思えない。

官僚批判は、はやりというよりも明治政府以来の課題。批判だけならやる気を削いで反発を生むだけ。思い出すのが田中真紀子。外務大臣になってやったことといえば官僚批判。ムチでしばくだけでは人は動かず、反発されて秘書給与流用をあばかれて辞任した。その田中が民主党に入ったのが実に象徴的だ。官僚も人間であるということを知らなければ、同じ轍を踏むだろう。ついでにいうと、その時の天敵・鈴木宗男も外務委員になるそうだ。刑事事件で告訴されている人物が登用される。党首と幹事長に疑惑がある民主党らしい話である。そういえば亀井静香も疑惑まみれの人物である。福島瑞穂はこんな連中とやっていけるのだろうか。

民主党のいやらしいやり口は古株に由来することはまず間違いない。優秀な民主の若手がこうした手法に慣れて、国民生活よりも政局優先になってしまえば、日本はまた悪癖を引き継ぐことになる。

やはり日本の危機である。

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都議選のマスコミ報道

都議会議員選挙が終わって、さらに深まった思い。それは、「やっぱりマスコミは面白ければいいんだな」ということである。本質的なことがまったく触れられていない。
今回の都議会議員選挙結果とは何か。
一つは、連立与党が過半数を割ったこと。このことはマスコミも報道した。
しかし、相変わらず連立与党が民主党を上回った、という事実は報道されていない。自民党1458108.233票、公明党743427.674票で連立与党の合計2201535.907票に対し、民主党2298494..617票と票では上回ったものの、自民38人公明23人、連立与党の合計61人の当選者に対して、民主は54人しか当選していないのである。共産党(8人)以外の諸派・無所属の4人を足しても58人と、及ばない。つまり民主党が政権を取ったとは言えない中途半端な勝利なのである。
民主は今まで通り反対はできる。共産はいつも反対だから。しかし、何かを実現するためには自民・公明の少なくともどちらかの理解を得なければならない。そのことは自・公も同じである。つまり、自・公・民には今まで以上の話し合いの姿勢が、民主党には今までなくてもよかった責任ある対応が求められるのである。
今までは民主が反対しても賛成しても結果は変わらなかったので、ポーズだけ、人気取りのための反対があり得たが、今後は、民主が反対することでその政策は実現できなくなるのだ。その結果責任は民主党も負わなければならなくなったのだ。そういう意味では、よい政治になるのではないかと私は期待したい。
二つには、自民と共産と社民が大敗したこと。マスコミは自民の敗北しか伝えない。公明は全勝。したがって「自公連立大敗」ではない。連立政権の大敗の流れを公明党が断ち切った。
注目するべきは、共産党と社民党の惨敗である。共産党の当選者数は13人から8人と激減した。それだけでなく、4人が供託金没収となった。この大切な選挙に、いったい何を考えているのだろう(供託金没収は、無所属をのぞけば共産党と幸福実現党だけである)。『蟹工船』ブームで党員が増えたと喜んでいた共産党だが、実働部隊の増加にはつながらなかったということだろう。社民党は前回に引き続き当選者ゼロ。その共産党と社民党に、「国民の心は、自公連立政権から離れた」などという資格があるだろうか。このこの2党に都民の心はない。この2党はどれだけ負けても党首の責任は問われない。だから厚顔無恥なことをシレッと言えるのである。マイクを向けること自体、意味がない。
今回私が最も理解できなかったのは、都議選の総括番組に、候補を立てることさえ出来なかった国民新党や日本新党の代表者が出演していたことである。彼らは都議選に関係ない。マスコミの受け狙い、「与党大敗」という悪宣伝のための演出である。「都議選が衆議院に直結する」という民主党が醸成した雰囲気にマスコミが乗っかっている証拠である。本来は東京都の選挙であって、国政とは関係ないはずである。(そもそも政治討論番組に出演する人数は、衆議院の議席で勝る与党は自・公で2人のみ。野党の代表は各党1人で数人となって、いつも袋だたきの構図になっているのが、私にはヤラセに見えて仕方がない
あーあ、またもマスコミ批判。いやになるね。でも鼻についてしかたがないので書いてしまいました。

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名言の軽さ

鳩山邦夫が、大臣更迭の際に、西郷隆盛の「政府に尋問の筋これあり」を引いて「こういう心境」だと言ったという。この言葉は、西南戦争の際に使われた言葉だ。

政府を離れて地元鹿児島へ帰っていた西郷隆盛が、不平士族が無用な反乱を起こさないよう教育するために作ったのが私学校。しかし政府が政府弾薬庫の移動と西郷暗殺計画を画策するにおよんで私学校の若い士族達の不満が爆発。結局西郷は私学校に担がれる形で兵を率いて上京を目指す。その時に掲げた言葉が「政府に尋問の筋これあり」である。

成功の可能性は限りなくゼロに近い。失敗し自分も若者も多くが死ぬであろう無謀な決起だが、やらざるを得ない。そうした決死の怒りと無念のこもった言葉であると私は受け取ってきた。

そうした史実と比べると、鳩山の言葉の使い方は間違っているし軽い。彼はまだ政権与党の中にいる。政治家をやめろとまではいわないがせめて自民党を離れて使うべき言葉だ。彼には何のリスクもない。彼が自分の主義主張を貫いて大臣をやめたところで命までも奪われるわけでもないし生活ができなくなるわけでもない。そんなお気楽な立場で使う言葉ではないのである。単に、私の意見を聞いて貰えなかった、程度の話なのではないのか。

(私は鳩山が麻生内閣という「泥船」からかっこよく逃げ出す口実にしたとしか思えない。本当に内閣を支える盟友なら、明らかに支持率が下がることが分かっている行為をしたり辞任後に明らかにしなくてもいい事実までペラペラしゃべるだろうか。また、かんぽの宿の一括売却はそんなに悪いことなのだろうか。確かに購入時の土地・建物の金額と比べるとかなり低くなるようだが不良資産なのだからそれは当たり前。いい物件と悪い物件を一括で買ってくれるのだからいい物件が安くなってしまうのも当たり前。マスコミは感情的すぎて冷静に解説しようとしていないように感じる。いつものことだけど)

また、先日の自民党代議士会で古川禎久環境政務官が「自民党は大政奉還を決断して」と語ったと言うが、意味不明。だれに政権を返すのか。国民に返すというなら今は主権在民ではないというのか。現在の政権も選挙で得た議席によってできたはずである。また、大政奉還の意義は、天皇に政権を返すことで討幕派の矛先を流し幕府が実権を握り続けることにあったが、古川の言葉からはそんな遠大な構想など感じられない。軽すぎる

そういえばかつて小泉首相が「米百俵」の話を引いて現在を我慢して将来の利益を得ることを訴え、財政改革を行った。長岡藩は米百俵で学校を作ったが、小泉は教員予算を減らした。都合で変わるんだな、便利なものだな、と思った。

幕末から明治初期に至るまで、命がけで時代を駆け抜けた人たちの行動や言葉には重みがある。軽く使って欲しくない、そういう心境である。

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小沢の居座りはみっともない。

民主党の小沢代表が、公設第1秘書の逮捕立件にもかかわらず代表の座に居座り続けている。

理解できない。

政治家個人は企業から政治献金を受けてはならない。これが現在の法律。小沢事務所の陸山会は、企業の隠れ蓑のダミー政治団体から巨額の献金を受けていた。実質的には企業献金だった。これはみなが認めている事実。それを「西松建設がウラにいるとは知らなかった」「やましいことは何もない」という言い逃れをしようとしているのだ。

結果的に企業から個人献金を受けていたという事実をどうするつもりなのか!過去いくつもの政治家の不祥事が「知らなかった」「記憶にございません」でごまかされてきた。そのことを国民は知っている。それをまた繰り返そうというのか!

本当に知らなかったとしても、結果としてまずかった、と身を引くべきだ。それでこそ「いさぎよい」。そして決然と自民にもいる同様の議員を攻撃すればよい。

それなのに、「企業献金は全面禁止に」と突然矛先を変えてみたり、「たいした罪ではない」と開き直ってみたり、「検察の国策操作だ」などと八つ当たりしたり。実に往生際が悪い。

そもそも検察の逮捕の時期が悪いというが、政治家の罪が明らかになればその都度逮捕・立件して欲しいというのが国民の率直な思いではないのか。選挙が近いのに政局に影響のある逮捕は不自然」などという理屈は、事情通のしったかぶりのいうことで、国民感覚からは全くずれまくっている。小沢総理が誕生してから立件されたらもっと大きな問題になったはず。それとも総理になればもみ消せたとでもいうのだろうか。民主党が検察と与党をひっくるめて批判するのを聞いていると、逆の意味で政治から検察への圧力に見えてしまうのは私だけだろうか。

小沢では日本は変えられないな、それを擁護する民主党でも変えられないな、そういう空気が日本国中に蔓延してきている。日本の政治危機をどう救うのか。岐路にさしかかっている。

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定額給付金反対は、党利党略だ!

「やっぱりな」。2008年度補正予算案の審議で、民主党はあんなに反対していた「定額給付金」に対する態度を一転させた。もうすぐ予算案は成立するそうだ。なぜ態度が変わったのか。簡単なことである。民主党の本心は反対ではなかったのである。マスコミを利用して国民の反対の声をたきつけ、与党を追い込むことに使ったのである。つまり、党利党略なのである。

証拠がある民主党は2009年度税制大綱骨格に「給付付き税額控除」を検討している。定額給付金とは形は違うが、考え方はほとんど同じ。つまり「不況だから減税で国民生活を応援しよう、ついては所得税から定額を控除しよう、税金を納めていない人には控除の恩恵が行き渡らないので給付金を支給しよう」というもの。日本の定額給付金の場合は控除では時期が遅くなるのですべて給付形式にしただけ。この給付付き税額控除は、すでにイギリスやアメリカ、カナダ、オランダなどで実施されている。

これで分かった。定額給付金は、おかしな制度ではない。どこの国でもやっていること。だから選挙狙いでもない。選挙狙いならこれほど人気が悪くなったら取り下げる。だいたい「選挙狙い」という批判自体おかしな批判だ。そんな批判がまかり通れば選挙前にいい政策を打ち出せなくなる。国民が喜ばない政策ばかり言う政党などあるはずがない。民主党は「どこの国でもやっている。特別なことではない。与党は対応が遅い」と批判すればまともだった。それを、与党がまともな政策を打ち出したことに危機感を感じ、とって返して与党を悪し様に批判したのであろう。

だからいう。民主党は党利党略で国民のためのまともな政策を批判し、自分たちの党勢拡大に利用した!だから瀬戸際で反対を引っ込めた!汚いやり方だ。マスコミもそれに乗った。今民主党が完全にマスコミをコントロールしている。

国民生活よりも政局。小沢氏らしいといえばそうだ。

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いわゆる「派遣切り」について

「派遣切り」で無職で年を超した人が多かったという。その方達の代表に徳光さんがインタビューしていた。

労働者「住所がないとやとってもらえない」

徳光「雇用促進住宅などを利用すれば」

労働者「遠くて就職活動に不便」

徳光「ハローワークにはいっぱい仕事がある」

労働者「資格がなくてやとってもらえるのはごくわずか。今回切られたので同じような仕事は恐怖心があっていや。」

その他のやりとりがあり、基本的には同情的な部分もあった徳光も最後には

徳光「そんな言い訳ばかりの人生でいいの?」

私は自分が家族を養っていかなければならない立場だ。もし今の仕事を首になったら何でもする。そしてすべて人生の肥やしにしてやる。その覚悟だけは持って生きているつもりだ。だからこの甘えた話を聞いて少々腹立たしかった。なぜ正社員にならなかったのか。なぜ資格をとらなかったのか。なぜ貯金をしてこなかったのか。私には、暴力的な親から逃げるように田舎から出てきて、派遣で働きながら、今回は生かせていないものの幾ばくかの資格をとり、貯金をし、雇用促進住宅に入って、派遣切りの後はバイトで必死にしのいでいる友人もいる。この友人には夢がある。その実現を今も忘れずに勉強もしている。すごいやつだ、なんとか力になりたいと思う。そういう人で、本当に努力の末に派遣村に行かざるを得なかった人もいるのだろう。しかしそうでない人もどうやら間違いなくいる。坂本政務次官の「本当にまじめに働こうとしている人達が集まって来ているのか」という発言は本当なのではないのか?そんな疑問も高まった。いや、この感覚は実は以前から持っていた。なぜ派遣に甘んじている人の中に、正社員になろうとしない人がいるのか。ずっと疑問だったのである。「束縛されるのがいやだ」そういうセリフを何回聞いたことか。今回の景気悪化を理由に仕事につかず親のすねを甘んじてかじっている人たちもいる。「自分勝手」「勝手気まま」を「自由」とはき違えている奴らだ。

派遣労働を禁止せよ、という人がいる。バカじゃなかろうか。今派遣で働いている人を首にせよというのだろうか。派遣労働を禁止したら正社員で雇われるというのだろうか。安い労働力を求めている企業は、海外にそれを求め、日本人の仕事はますますなくなるのではないか。日本の企業が日本を支える気概を失いつつあるという現実をイヤというほど見せつけられながら、どうしてそういう危機感が働かないのだろうか。派遣労働が認められた背景には、安い国内労働力を求める企業と、手取りは安いが気楽で無責任な立場で働きたい労働者、双方のニーズがあったことをみんな忘れて、すべての責任を国になすりつけている。派遣労働者の責任にするような報道ははやりではないのである。今は国の責任にするのが格好いいのである。かくして、自分の責任を自覚できず精神的に成長できない国民が増加する。自分がダメなのは全部国の責任。そんな理屈が通ってしまう世の中になっている。

基本は「自助」。それを周囲が「共助」で支える。さらに国や地方公共団体が「公助」で支える。それが自由主義社会の常識だと私は思っている。しかし、自分で立とうとしない国民と、社会貢献を忘れてもうけしか考えない企業がこの国には蔓延してしまっている。そんな状況の中でどんな「公助」が考えられるというのか。

そうした風潮を不定見なマスコミが煽る。私たちには責任はないという不勉強なコメンテーターが無責任な発言を繰り返す。

この国は末期症状だ。私はまた落ち込むのである。

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ケイタイと学校 2

私の現在の赴任校は県内上位に位置すると巷間言われている進学校である(正直そんなに優秀だとは思わないが)。生徒は傲慢だが理解力が高く、情に薄いがある程度自律している。そういう学校はだいたい生徒の自由度が高い。教師が管理しなくても生徒が自分で自己管理するからである。

そうした背景から、本校では携帯電話の持ち込みは自由である。ところが今年4月以降、授業中に携帯電話が鳴ることがあまりに多いということで指導を入れようということになった。結果なんと、すべて集約すると現在までの指導件数は80件もあった。

原因は

①業者からのメールがきた(定期購読のメールを含む)が最多。マナーモードは解除していた。

②アラームの設定を間違えた。または電源を切っていたのにアラームが鳴った。

③他人から電話がかかった。メールが来た。

④自分で使った。

の順で多かった。

実は、本校で「指導する」と宣言してから、生徒はかなり気を使ってきた。しかしそれでも授業中に携帯は鳴るのである。①と②は生徒の責任もあるがケイタイ自体の問題でもある。機種によっては電源を切ってもアラームが鳴る設定になっているのだが、全く理解に苦しむ。業者は顧客の置かれている状況をいちいち考えているような暇はないのでいつでもメールを送る。それならケイタイの基本設定はマナーモードにして販売するべきだし、音が鳴るのはしばらくすれば解除されるくらいの設定でいいのではないか。携帯電話を販売する業者は自分たちが販売している品物が社会に迷惑になっているという意識が低いのではないか!

実際、センター試験の受験会場でアラームがなり、しかもスヌーズ設定だったので最悪の事態となった例が本校でもあったのである。原爆を開発したのは悪ではなく、使ったやつが悪だ、という論法もあろうが、アインシュタインのように開発した者の自己責任を意識するのが現代の潮流ではないのか。(2chにも聞かせたい)

ケイタイは世間に迷惑を振りまいた!携帯各社はこれを事実として受け止めなくてはなるまい。

今のご時世、子どもに携帯GPS、家庭と連絡の取れる携帯電話、携帯メール機能、携帯警報ベルは必要だと思う。しかし、携帯パソコンに近い現在のケイタイの機能すべては必要あるまい。コミュニケーションの欠如、イジメの温床、マナーの欠如につながり、社会問題化していることを携帯各社はもっと強く自覚するべきである。

生徒達だけではない!大人も携帯をコントロールできていない現状にしばしばうんざりする。卒業式の心を込めた呼名の時に鳴り響く携帯の音に、何度腹が立ったか。コンサートの静寂のなか携帯が鳴り、あまつさえ「はい、もしもし」と出てしまう大人もいた。

もはやユーザーの能力の問題ではない。

携帯電話自体が使いこなすことのできない化け物となっている。

私はそう考えている。

そうした視点から、子どもに禁止するのは賛成である。でも今さにら禁止できるかどうか、というと、不安である。

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政教分離、再び

政教分離についていろんな本を読んでみた。つくづく世界にはいろんな政教分離がある。

イギリスには、イングランドにイギリス国教会、スコットランドに長老派教会という国教が存在する。ウェールズには国教はない。国教だから政府の金で運営されている。公立学校を教会が運営していることもあるらしいし、宗教教育も行われている。国教会が成立した背景にはカトリックの影響力からの脱皮という大きな課題があったが、現在の政府は教会・宗教団体を差別しないし、国民の宗教生活には介入しない。政治判断や法律にひとつの教会の意志が入り込むこともない。そういう政教分離。

ドイツでは、教会は「公法上の社団」としての公の地位が与えられる。カトリック、ルター派、カルヴァン派、の信者として登録された人から政府が教会税を取り、教会に分配している。しかし、憲法上は他の宗教(ユダヤ教やイスラム教など)も「公法上の社団」になりうる可能性があるし、イギリスと同じく、政府は国民の宗教生活には介入しない。政治判断や法律に特定の教会の意志が入り込むこともない。

フランスは、ライシテというより厳格な分離を行う。フランス革命において自由、平等、博愛の精神を保障する共和国を打ち立てるためには、カトリックは打倒するべき旧勢力だったのだ。特に教育の世界からのカトリックの排除に力がそそがれ、公の場においては宗教的なシンボルを身につけることも、宗教教育も拒否される。そのかわり政府は、一般市民生活における宗教界には一切介入をしないことで、すべての教会の平等をはかっている。

アメリカは、世界ではじめて国教を禁止した国で教会税の徴収もしないという意味ではフランスに近いが、「市民宗教」といわれるキリスト教的な伝統は肯定される。大統領は就任の際に聖書に手を置いて宣誓し、God Bless Americaで演説は終わる。議会や軍隊にはチャプレンという教会に属さない聖職者がいるし、貨幣や紙幣にはIn God We Trust「我ら神を信ず」と書いてある。このことはフランスでは考えられないそうである。イギリスで迫害された多様な教会が集まってできた国なので、特定の教会が優遇されたり迫害されたりしないようにすることがアメリカにとっての政教分離のそもそもの意味なのである。

世界にはこのように多種多様な政教分離が存在するので、それをひっくるめて定義するとなると『国家と宗教との分離』橋本公亘「日本国憲法」、が一番オーソドックスだがこれでは具体的に何を意味しているのか分からない。ほとんどの専門書は定義をしないで内容の解説に入っている。つまり定義すること自体が難しいのである。広辞苑、大辞林、大辞泉などの辞典も表現が微妙に違う。しかもどれも国際的な政教分離の現状を表しているとは言い難く表現が薄っぺらい。これに随うと、イギリスやドイツには政教分離はないことになり、たいへん失礼な定義となっている。

こうして考えるとひとつの共通点が見えてくる。つまり、国家それ自体の宗教色は国によって違うが、国家は宗教の世界には介入しないということである。イギリスは国費で国教を維持していても、ドイツはキリスト教3教会の教会税を徴収していても、フランスは公の場からは宗教的なものを徹底的に排除しても、アメリカは市民宗教的な伝統は息づいていても、国家は国民の宗教の場には介入しないのである。そして特定の教会を優遇・迫害せず、その意見や都合で政治判断が決定されることはない。これが世界の政教分離の共通項なのである。

つまり、政教分離とは、宗教に対する規制ではなく、国家に対する規制なのである。

この共通項さえ人類の資産として守っていくならば、日本には日本の政教分離があっていいと私は思う。ヨーロッパにはカトリックが世俗権力に対して絶対的上位にあったが、日本にはそのような宗教は存在してこなかった。中世の比叡山・三井寺などの大寺社がそれに匹敵するという見方もあるようだが、国家の方が基本的に強い。いくら発言力があったといっても将軍を比叡山の法主が任命することなどなかった。ヨーロッパと比べると日本の宗教は弱かったのである。しかも江戸時代以降は完全に権力に飼い慣らされ、寺請け制度という戸籍管理、役所仕事の片棒を担がされ、利用され、寺もそれに安住した。だから日本の歴史をふまえれば、国家の宗教への介入にこそ敏感であるべきだし、神道が国教扱いされていた戦前を思えば、その復活を許さないことにこそ神経を使うべきである。アメリカがこうだからとかフランスがこうだからとかあまり考えなくてもいい。日本の歴史をふまえて日本の政教分離を確立すればいいのである。

さらに、政教分離が信教の自由を守るために設定された「制度的保障」であるという日本国憲法の基本を確認するならば、宗教団体が国民的な権利から政治に対して積極的に発言するのを、国会質問などの国の権力の場を使って批判したりなどすることは、信教の自由の侵害にあたり絶対に慎むべきである。

政治家よ、歴史観と見識を持て!私は声を大にしてそういいたい。

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