今回から、創価学会を取り巻く批判のなかからいくつかを取り上げ、検証してみたい。
-創価学会は犯罪団体である、という批判-
ネット上で創価学会が犯罪団体であるという話が飛び交い、半ば常識化しつつある。もしそれが本当ならなぜ警察に訴えないのか。信用できる具体的事実も根拠もないのに、人を犯罪者呼ばわりしていいわけがない。
①創価学会員は葬式や通夜で香典を持って帰る。他宗派の仏壇を壊す。
これは古くから言われているものだが、今も巷間伝わっている都市伝説。どちらも、実際に行なわれていたら犯罪である。前者は窃盗罪、後者は器物破損罪。もしそんなことが実際にあれば、うわさで批判したりネットに流す前に、警察に訴えて逮捕してもらうべき。それが市民の義務である。頻繁に起こるようなら、大マスコミも黙っていないし、私たちの耳にも入るはず。しかし、近所でそんな話を聞いたことはない。もしあるというなら具体的な日時と場所を出すべきである。
ちなみに学会の葬儀に参加したことのある人は多いと思うが「香典辞退」である。最近宗派を問わず香典を辞退される方が増えているのは、学会葬の影響ではないかと思う。
全く本筋とは関係ないが、あの焼香者への粗供養(ハンカチやお茶など)も廃止してはどうか。お香典も持っていかず悲しみにくれるご遺族からなにかいただいて帰るのは申し訳ない気がしていつも私は断っているのだが、断るのにもけっこう勇気がいるのである。
②創価学会が反対派を集団ストーカーしている。
ストーカー行為が確認されたら「ストーカー行為等の規制等に関する法律」や各県の「迷惑行為防止条例」に従ってそれも警察に訴えればよい。ストーカーがあったかどうかも、それが創価学会の仕業であるかどうかも、御本人の想像でしかない情報が、あるいは御本人が作ったかも知れない情報が、ネット上で真実として扱われている。典型的なネットが作った仮想犯罪である。これまで誰も逮捕されていない。公明党元委員長の矢野絢也氏『黒い手帳』に出てくる、という人がいると思うが、基本的に学会をやめた人が言っていること。後述するがそのやめ方が悪い。眉唾で聞くべきである。また、清水由貴子さんが学会によるストーカー行為の存在を指摘した音声があるが、「ヘリコプターでつけられ、家に着くと上空でホバリングしていた」と言われるのを聞くと、まったく真実とは思えない。人をつけるにせよ、脅迫・警告するにせよ、なぜヘリを飛ばさなければならないだろうか。いかにも不自然だ。話を聞いている男性が誘導しているように私には聞こえた。ちなみに清水の妹さんが出版された『介護うつ』には由貴子さんの遺書も紹介されているが、そんな話はでてこない。
矢野氏については、以前、選挙の時に自分の当確が伝えられた瞬間「あーよかった!ホッとした!」と恥も外聞もなくカメラの前で大きな声で叫んだのを見た時から、まだ当確していない候補も多いのに失礼だ、党の中心人物として失格だ、と逆の意味で注目してきた。1988年の明電工事件では株の譲り受けをめぐって「自分がしたのではなく秘書の取引を仲介した」と典型的な逃げ。朝日新聞を名誉毀損で訴えておきながら4ヶ月後に取り下げ。民事訴訟もするといいながらしない。簡単に言うとウソつきなのである。ついさきごろも「母校のテニスコート改修費用200万円を横領」した件ではそれを指摘した雑誌に全面敗訴。敗訴の理由は、記事の「重要な部分について真実であることの証明があったと認められる」と裁判所に言われてしまう小悪党である。こんな人物のいうことを信じる方がどうかしている。第一、党役職をやめたら明電工から金を貰っていたことは免罪されるのであろうか。世間やマスコミは何故こんなやつの言うことを信用するのか分からない。
創価学会の方は、矢野氏が党と支持者に迷惑を掛けてやめたということだけでなく、引退後に党の応援を何もせず、支援者に挨拶もせず、政治評論家としてかってなことばかりを話している、その不義理な人間性を問題視しているようである。それを指摘したら退会して牙を剥いてきたということである。もっとも公明党や学会も、こんなやつを信用して重責を担わせたり応援したりしたわけだから、自らの不明を反省するべきであると思う。
矢野氏と学会の争いにネットユーザーが巻き込まれている。そういう事例ではないかと思う。
③学会が選挙のたびに集団住民票移動している。
あり得ないことである。「学会員は公明党のおかげで生活保護を優先的に受けられる」「創価学会は貧乏人の集まり」という批判が一方であるが、それと矛盾する。住民票の移動は生活保護家庭にとっては自殺問題ではないか。各自治体の投票人名簿に登録されるには3ヶ月の居住が条件で、その間その人が生活保護を受けるには、再度申請し直しをしなければならない。時間もかかるし、若干制度も違う。必ずしも保護判定されるとは限らない。それ以外にも、住民票の移動には子ども手当の受給や住民税の支払いなど様々な変更を伴う。職場にも届けなければならないだろう。居住実態のない場所への住民票移動は不利益が生じる。
話が本当なら、選挙の3ヶ月前と選挙終了後には、大量の住民票が移動されて役所はてんてこ舞いになるはずだが、そんな話も聞かない。職場の学会員が不自然な住民票移動を繰り返して事務が困っている、という話も聞かない。今まで具体的に学会の住民票移動を証明した人はいない。それどころか逆に過去にこの件を持ち出して抗議され、自民党も社会党も民主党も朝日新聞も謝っている。典型的なウソなのである。
ちなみに住民票移動は、公職選挙法の「詐欺登録罪」と刑法の「公正証書原本不実記載罪」、さらに住民基本台帳法に反する。やはり本当に見聞きしたのなら警察へ行くべきである。
④学会は反対派を粛清する。
ここまでくるとオームである。オームの場合、いつだれがどのように粛正(ポア)されたか明らかになった。
学会はどうであろうか。
東村山で市議が殺されたなどという事件がよく指摘されるが、裁判記録は明確である(『東村山市民新聞事件』)。これを覆すのは難しかろう。裁判記録は勝敗そのものよりも勝敗の理由となる判決文に注目する必要があるが、元市議側が提示した事実は全く裁判所に信用されていない。
私たちは創価学会を敵に回して批判している人々をたくさん知っている。著名人であればあるほど影響力があるはずである。民主党の石井一議員、ジャーナリストの溝口敦氏、元公明党委員長の矢野絢也氏だけでなく、共産党は集団で「赤旗」も使って学会批判をしている。テリー伊藤は『お笑い創価学会』という本を書いて学会を笑い飛ばした。すでに亡くなった人には元毎日新聞記者の内藤国夫氏もいた。また、元顧問弁護士の山崎正友氏と元教学部長の原島嵩氏は学会をやめただけでなく攻撃に転じ、多くの情報をマスコミに流した。そうした大物が誰か殺されただろうか。(ちなみに故人となった人の死因は病死でありそれを疑う人はいない。)
失礼だが、東村山事件の朝木氏がどの程度世間に影響力を持っていたというのだろうか。私たち一般の市民は、週刊誌の報道があるまで朝木氏の存在さえ知らなかった。彼女が学会を批判していることさえ知らなかった。彼女が影響力を持ったのは、週刊誌が「朝木氏は学会に殺された、という人がいる」と言い出してからである。このような影響力の小さな反対派の人々をいちいち手に掛けていたら、どれだけの人を殺さなければならないのか。実際、どれだけの人が殺されたというのだろうか。確定的な被害者がいるなら挙げてみればよい。
それが説明できなければ、「学会は反対派を粛清する」という話はヨタ話であるというしかない。人を殺人者呼ばわりするからには、キチッとした事実を把握しておく必要があることは言うまでもない。
⑤創価学会は日本を支配しようとしている。
ほとんどショッカー扱いである。まず、具体的にどういう状態に持っていくことが「支配」することになるのか分からない。こういうことをいう人の意見を読んでみてもイメージが共有できないのである。どうも主張している御本人も、具体的にどういう状態が創価学会による支配の完成で、どうやってそういう状態に持っていこうとしているのか、という現実味のある話はイメージできていないらしい。
「創価学会員が社会の多方面に進出している」という話はよく聞くが、これだけ大きな団体なら、司法にも、官僚にも、警察にも、教育界にも、地域の役員にも、国会にも、地方議会にも、財界にも、中小企業にも、芸能界にも、主婦にも、様々な分野に会員は広がっているであろう。そのことを持って問題視するのは意味がないし、それを「阻止しよう」などという人がいるが、魔女狩りと同じである。芸能人やスポーツ界などの有名人で学会員の名前を挙げるスレやサイトがあるが、完全な人権問題である。そんなことをしたり、読んで喜んでいる人には、学会のことを批判する資格などあるまい。
ただ、池田氏の比較的古い著作に登場する言葉として『総体革命』という言葉は確かに気になる。『青年の譜』(1970年)にあるその言葉を引用してみると次のようになる。
由来 革命には/政治 経済 教育の革命があろう/しかし/その一つひとつの/孤立した革命には/堅実はなく 無理と偏頗が生ずるのだ/政治革命のみでは/血の犠牲がともない 民衆の安堵はない/またも権力者は大衆の上に君臨していく/はたまた経済革命にも/民衆の満足はない/富なき庶民を蹂躙 空転していく/さらに教育の革命のみでも/民衆の幸はない/揺れ動く 世界の動乱に耐えないだろう
二十一世紀に生きゆく/民衆の願望は/外形のみの改革にはない/一人ひとりの哲学と思想の中に/平和裡に漸進的な/汝自身の/健全なる革命を願っている/これには長期の判断と/深い哲理を必要とする/これを総体革命と命名したい
一部だけ取り出しておいてこんなことをいうのは何だが、全体を読まないと原意はつかめない。この詩は七〇年安保闘争が終わった年の暮れに発表されている。米ソ冷戦も激しい時代である。安保闘争に敗れ、目標を見失いがちになった青年層に訴えかけるために、「革命」という言葉を使ってインパクトを狙ったのではないか、と推察する。
では何をもって「革命」とするのか。簡単に言うと、「政治革命や経済革命や教育革命も否定はしないが、目に見えるところの革命だけではうまくいかないのではないか。人間の考え方が変わって、社会がゆっくりと全体的に変化する。そういう平和的な変革を目指す」ということ。
そして、信仰は自分の変革のために必要で、それが可能なのが日蓮の教え。日蓮の教えを信仰して人間革命しようという人間が社会の各分野で活躍することが、社会を良い方向に持っていくことになる。それが可能かどうかは、創価学会員一人一人が今どういう生き方をしているのか、で証明される。生き方の追求こそが学会員のテーマなのだ、負けられない人生の戦いなのだ、と。学生時代に耳にタコができるほど聞かされた話である。記憶にたよる部分が多く厳密ではない点お許しいただきたい。
確かに現場の学会員は人間革命という言葉をよく使う。社会の変革のためには自分がよりよい存在にならなければ、と強く意識していることは間違いない。いや社会の変革などという大それたことは考えなくても、今の自分ではまだまだだ、という自己変革欲求を学会員はよく口にする。生半可にきくと 「人間革命」=「洗脳」になるのだが、学会員と対話すれば「洗脳」にほど遠いことはわかる。ようは真面目なのである。
「総体革命」とはそういうことらしい。私の説明でよく分からない方は(私もよく分かっていないが)、真正面から元意を探ってみた上で、議論されてはいかがか。少なくとも日本を支配しようなどとは、いかなる文献にも出てこない。出てこないからには現場の学会員は意識していない。現場がついてこれないことはいくら創価学会の首脳陣が突然言っても出来ない。巨大教団であればあるほど当たり前である。
何度もいうが、批判するならそれだけの根拠を挙げるべきである。批判者が根拠のいい加減さを指摘され、「根拠がいい加減だと言うことを証明しろ」と開き直るのは、「盗人猛々しい」ということわざがぴったりである。
(以後、続く)
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