「韓国修学旅行で土下座って本当?」第四回

韓国修学旅行で土下座って本当?」を書いて8年がたった。
産経新聞が世羅高校の修学旅行を「謝罪行事」と報じたものが、いつの間にか2chの「女子高生」を名乗る怪しい投稿と結びついて「土下座させられた」ということになってしまった経緯と、それらを取り巻く情報を吟味した上で、

「韓国修学旅行で土下座などしていない」と結論づけた。これ以後、多くの情報をいただき、2回の関連記事を書いた。

今回は4回目である。最近「土下座させられている写真」と称するものが出回っているから、これを書くことにしたのだが、しかし、今までで一番骨がない。

土下座写真ではないことが5分で調べられた。

そもそもの記事はこれである。

「まとめ安倍速報」

http://blog.livedoor.jp/abechan_matome/archives/40559824.html

検証には以下の二つの記事を参照すれば十分であろう。

http://kuyou.exblog.jp/628286/

http://14819219.at.webry.info/201011/article_22.html

検証記事もある。私の「韓国修学旅行で土下座って本当?」も紹介していただいている。

http://ameblo.jp/calorstars/entry-11921232415.html

これ以上何もいう必要もないだろう。

こんな簡単に検証できるデマを拡散する人に、朝日新聞を批判する資格などあるはずがない。

ばかばかしい。

(後記)


「まとめ安倍速報」

http://blog.livedoor.jp/abechan_matome/archives/40559824.html

のブログ主にトラックバッグを送っても掲載されないので、yossy名でコメント欄に上記事実を書きました。そうしたら反論らしきものを得意げに書いてきましたので、さらに反証したところ、ブログ主さんはその反証をカットし、私のコメントを拒否する設定にされたようです。

過ちを認めたのと同じこと。
この程度のプレッシャーで尻尾を巻いて逃げるのなら主義主張のはっきりしたブログなどやらなければいいのに。あーかっこわる。

| | コメント (37) | トラックバック (0)

Yahoo知恵袋とカンニング

Yahoo知恵袋が、京大入試のカンニングに利用されたという報道があった。早稲田大学でも同様の行為があったらしい。私もチェックしてみたが、他にもありそうである。

そもそもYahoo知恵袋は、正常な使われ方をされていない側面がこれまでもあった。質問の形で気にくわない団体や個人の悪口を書立てて「これをどう思いますか?」としてみたり、自分で質問して自分で回答しているようなものも見受けられる。私も質問に対して真面目に回答したのに明らかに不真面目な回答がベストアンサーに選ばれ唖然としたことがある。開発者は純粋にユーザーの役に立つことを目指しているのだろうが、性善説に立ちすぎである。ネット社会では一定性悪説に立たないとやられてしまう。

携帯電話がカンニングに使われる可能性は、学校現場では早くから指摘されていた。携帯は単なる通信端末ではなく情報端末だからである。辞書、電卓、インターネット、メールなんでもござれ。私の赴任校では定期考査であっても試験会場に携帯を持ち込んだことが分かった段階で、カンニングで0点となるだけでなく特別指導の対象となる。使ったかどうかは関係ない。そのことは入学時点で保護者にも説明しているし、毎時間のテスト前に全教員がテストを配る前に「今携帯を持っている生徒はすぐに廊下に出しなさい」と呼びかけている。実際にカンニング扱いになった生徒もいたが保護者からも文句は出なかった。

京大は甘い!携帯の電源を切るだけで持ち込んでもいいという段階で、受験生に「それなら使ってみようかな?」と心に誘惑を生じさせているのだ。持ち込み禁止にすれば持ち込んでしまった段階で少しは罪悪感がある。「使ってみようかな」という思いになるのに一つハードルをあげることになるのである。

もっともそれでも確信犯には通用しないがばれたときの言い訳はできなくなる。よほどの覚悟がないとできないこととなるのだ。すべての大学が対応を見直すべきであろう。

Yahoo知恵袋は一度閉鎖して問題点を洗い出し、性悪説に立って出直せばどうか。いついじめや犯罪に荷担するかも分からない、現在の状況は問題である。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

創価学会のこと③

-どうでもいいことが批判になっている事例-

創価学会を批判する人たちの中で、よく考えたら批判になっていないのに批判として通っていることがある。かえって批判者自身の狭量と差別体質を浮き彫りにしてしまっているのである。

①貧乏人と病人の団体である、という批判

宗教が貧乏人と病人を救わないでどうするのか。貧乏人と病人を受け入れない宗教があれば、そちらが情けない。

これを言うときの批判者の「上から目線」が私はトコトン嫌いである。

②会館の建物が豪華で悪趣味、という批判

寺院も神社も豪華なものが多いし、なかには国宝・重要文化財になっているものもある。そもそも仏教の寺院はその信徒が自分たちが尊敬する僧侶を中心として研鑽したり話し合ったりするために皆で資金を集めて作ったのが始まりで、創価学会が「財務」を集めて会員が集う場所を作っているのもその意味からは何も不自然ではない。貧乏人と病人の集まりといわれてきた創価学会が豪華な建物を現に作って使用していることをやっかんで言っているのではないかと思う。

③創価学会は北朝鮮系である、という批判

なにをもって朝鮮系とするのか。まず証明できない話である。池田大作氏を在日朝鮮人だとする話もあるが、眉唾である。たとえ朝鮮系であることが証明できたとしてそれが何を意味するというのであろうか。「組体操をよくやる」を共通点にあげる人も多いが、組体操は日本の各地の運動会で行なわれている。私の子どもの小学校の締めも高学年の組体操である。

これを言う人の朝鮮蔑視が私は嫌いである。

-少し考えたら不自然な事例-

①創価学会員は洗脳されている、という批判

オウムなどと違い、創価学会員は普段隣人として日常生活を送り、どこかに隔離されているわけではない。そうした状態で洗脳などできるのであろうか。そもそも洗脳とはどういうことをいうのであろうか。なかなか定義は難しいようだ。ここではネット上扱われている「洗脳」の感覚に従ってみたい。

一定の考え方を持つ団体に所属する人が、程度の差こそあれその考え方に共感しつつ所属していることは当たり前である。しかし、それを洗脳というかというとそうではあるまい。「創価学会員が洗脳されている」という場合、「一般常識や法令に著しく反する思想を疑問もなく正しいものと信じ込まされている」「そういう洗脳を組織をあげてやっている」という印象を伴っているのではないか。

であれば、学会員が洗脳されている、とするためには、「創価学会の考え方は一般常識と著しくかけ離れているが、学会員は全く疑問を持たずにそれを実践している」「公明党の政策は政界の常識からかけ離れているが、学会員は盲目的に支援している」「学会は会員に犯罪行為をさせているが、会員は疑問もなく実践する」などの事例がなくてはならない。

現実にはどうか。犯罪団体ではないということは以前に述べたので、公明党を例に取る。公明党は創価学会が作った政党なので、学会員の多くが公明党を支援するのはある意味で当たり前である。しかし、今回の参議院選挙の出口調査によると、「公明党支持者」がかなりみんなの党に流れている。前回の衆議院選挙では民主党にも流れていた。この傾向は所謂「無党派(あまり好きな言葉でありませんが)」と同じである。「公明党支持者」の全てが学会員ではないだろうが、出口調査で「公明党支持者」を名乗る人の多くは学会員であろう。学会内部では、選挙前になると公明党の政策を学習したり候補者の話を聞く機会があるというが、それでも「無党派」と同じ考え方をする人たちが結構いる。その現実は「洗脳」されている、といえるであろうか。「学会員は公明党と一体だ」という人もいるが、学会が公明党を作り支援しているという実態がある、という意味ならその通りであろう。しかし、それを洗脳というのは言い過ぎであろう。

「創価学会による被害者の会」にカルト専門家の浅見定雄氏(統一教会対策で有名)の講演がのっている。

「投票日も迫ったある夜、私の親族の親友(女性)のところに妹さんから次のような電話があったというのである。 「お姉ちゃんは公明党になんか投票しない人だとよく知っているけれど、今度だけ、お願い!」あまりにも切実な感じなので「なぜ?」と聞くと、妹さんはこう言ったという。「5票集めないと仏罰があるの。」「5票」が「あと5票」の意味だったか、また「仏罰」というのが正確に本人が使った言葉だったか、問い合わせれば確かめられるが、実際には変わりのないことである。」

浅見氏らしくもない。これは本人に確かめてから紹介するべき質の話である。実際には変わりのないことである」ではいけない。特に「仏罰」の言葉を本人が使ったかどうかで話の質に大きな差が出る。「5票集めなければ仏罰が当たる」と本当に本人が思って選挙活動していたとしたら、「洗脳」されている例証になるからである。何故浅見氏ともあろうものが肝心のところを確認しなかったのか。また、なぜ創価学会員が洗脳されているという別の明らかな例をださなかったのだろうか。

さらに、池田氏の本を読んでいつも思うのだが、外国の著名人と渡り合っている論理展開には見るべきものがある。しかし、学会員のどれだけが池田氏の話を理解し実践しようとしているのであろうか。例えば、池田氏はキリスト教にもイスラム教にも価値を認めている。しかし、学会員のなかにはキリスト教を排撃するようなことを言う人もまだいるであろう。

この現象は二つの捉え方で理解できる。一つは著名人にはうまく話を合わせて理解者に引き込むくせに、学会員には違う指導している、という見方。もう一つは学会員が池田氏の考え方について行けていない、という見方である。私には、あれほど多くの著名人が下心あるウソに騙されるとは思えない。だから後者の方がしっくりくるのである。池田氏とガルブレイス博士、ゴルバチョフとの対談などを一読されることをお薦めする。

創価学会員は一定の方向性で洗脳されているわけではなく、むしろ、いくつかの流れ(幹部の指導性)があり、池田氏は精神的支柱ではあっても池田思想ともいうべきものは末端の会員に浸透し切れていない、というのが実態ではないのか。つまり洗脳とは逆の状態ではないのか。

そのようにこれも知人の学会員に聞いたら、「その通り。地域によってくせがある。」とのことであった(浅見氏の紹介した話は教義の上からあり得ないそうであるが)。活動に参加する人の数も地域によってまちまちだとも。

創価学会は、洗脳されているどころかまとまりきっていない。これが現実のようである。

②財務で家の権利など全財産を失った、という話

私の知り合いの学会員は持ち家に住んでいる。そこには学会員が定期的に集まっている。他にも多くの学会員が持ち家に住んでいることであろう。

ネット上に散見されるこうした話は、私は不自然だと思う。もし「家の権利を売って財務をしなさい」というような指導性を学会首脳が持っていれば、もっと多くの学会員が持ち家を失っているはずである。私たちの周辺に持ち家を財務のために失った人はいるだろうか。私はいません。もしそんなことが指導されているとしたら、社会現象になり、「被害者の会」にそうした話が持ち込まれ、財務返還訴訟が各地で起こって創価学会はテンテコ舞になるはずではないのか。しかし、「創価学会による被害者の会」は「創価学会は日本を乗っ取ろうとしている」「政教一致だ」「カルトだ」と叫ぶばかり。実害に乏しい理念的批判団体だ。そうした例を集める気がないようにさえ見える。いや、もしかすると「被害例」はほとんどないのではないか。

ネットの匿名性を利用すれば、いくらでも創作できる話である。眉唾で聞くべきであろう。

| | コメント (103) | トラックバック (0)

創価学会のこと②

今回から、創価学会を取り巻く批判のなかからいくつかを取り上げ、検証してみたい。

-創価学会は犯罪団体である、という批判-

ネット上で創価学会が犯罪団体であるという話が飛び交い、半ば常識化しつつある。もしそれが本当ならなぜ警察に訴えないのか。信用できる具体的事実も根拠もないのに、人を犯罪者呼ばわりしていいわけがない。

①創価学会員は葬式や通夜で香典を持って帰る。他宗派の仏壇を壊す。

これは古くから言われているものだが、今も巷間伝わっている都市伝説。どちらも、実際に行なわれていたら犯罪である。前者は窃盗罪、後者は器物破損罪。もしそんなことが実際にあれば、うわさで批判したりネットに流す前に、警察に訴えて逮捕してもらうべき。それが市民の義務である。頻繁に起こるようなら、大マスコミも黙っていないし、私たちの耳にも入るはず。しかし、近所でそんな話を聞いたことはない。もしあるというなら具体的な日時と場所を出すべきである。

ちなみに学会の葬儀に参加したことのある人は多いと思うが「香典辞退」である。最近宗派を問わず香典を辞退される方が増えているのは、学会葬の影響ではないかと思う。

全く本筋とは関係ないが、あの焼香者への粗供養(ハンカチやお茶など)も廃止してはどうか。お香典も持っていかず悲しみにくれるご遺族からなにかいただいて帰るのは申し訳ない気がしていつも私は断っているのだが、断るのにもけっこう勇気がいるのである。

②創価学会が反対派を集団ストーカーしている。

ストーカー行為が確認されたら「ストーカー行為等の規制等に関する法律」や各県の「迷惑行為防止条例」に従ってそれも警察に訴えればよい。ストーカーがあったかどうかも、それが創価学会の仕業であるかどうかも、御本人の想像でしかない情報が、あるいは御本人が作ったかも知れない情報が、ネット上で真実として扱われている。典型的なネットが作った仮想犯罪である。これまで誰も逮捕されていない。公明党元委員長の矢野絢也氏『黒い手帳』に出てくる、という人がいると思うが、基本的に学会をやめた人が言っていること。後述するがそのやめ方が悪い。眉唾で聞くべきである。また、清水由貴子さんが学会によるストーカー行為の存在を指摘した音声があるが、「ヘリコプターでつけられ、家に着くと上空でホバリングしていた」と言われるのを聞くと、まったく真実とは思えない。人をつけるにせよ、脅迫・警告するにせよ、なぜヘリを飛ばさなければならないだろうか。いかにも不自然だ。話を聞いている男性が誘導しているように私には聞こえた。ちなみに清水の妹さんが出版された『介護うつ』には由貴子さんの遺書も紹介されているが、そんな話はでてこない。

矢野氏については、以前、選挙の時に自分の当確が伝えられた瞬間「あーよかった!ホッとした!」と恥も外聞もなくカメラの前で大きな声で叫んだのを見た時から、まだ当確していない候補も多いのに失礼だ、党の中心人物として失格だ、と逆の意味で注目してきた。1988年の明電工事件では株の譲り受けをめぐって「自分がしたのではなく秘書の取引を仲介した」と典型的な逃げ。朝日新聞を名誉毀損で訴えておきながら4ヶ月後に取り下げ。民事訴訟もするといいながらしない。簡単に言うとウソつきなのである。ついさきごろも「母校のテニスコート改修費用200万円を横領」した件ではそれを指摘した雑誌に全面敗訴。敗訴の理由は、記事の「重要な部分について真実であることの証明があったと認められる」と裁判所に言われてしまう小悪党である。こんな人物のいうことを信じる方がどうかしている。第一、党役職をやめたら明電工から金を貰っていたことは免罪されるのであろうか。世間やマスコミは何故こんなやつの言うことを信用するのか分からない。

創価学会の方は、矢野氏が党と支持者に迷惑を掛けてやめたということだけでなく、引退後に党の応援を何もせず、支援者に挨拶もせず、政治評論家としてかってなことばかりを話している、その不義理な人間性を問題視しているようである。それを指摘したら退会して牙を剥いてきたということである。もっとも公明党や学会も、こんなやつを信用して重責を担わせたり応援したりしたわけだから、自らの不明を反省するべきであると思う。

矢野氏と学会の争いにネットユーザーが巻き込まれている。そういう事例ではないかと思う。

③学会が選挙のたびに集団住民票移動している。

あり得ないことである。学会員は公明党のおかげで生活保護を優先的に受けられる」「創価学会は貧乏人の集まり」という批判が一方であるが、それと矛盾する。住民票の移動は生活保護家庭にとっては自殺問題ではないか。各自治体の投票人名簿に登録されるには3ヶ月の居住が条件で、その間その人が生活保護を受けるには、再度申請し直しをしなければならない。時間もかかるし、若干制度も違う。必ずしも保護判定されるとは限らない。それ以外にも、住民票の移動には子ども手当の受給や住民税の支払いなど様々な変更を伴う。職場にも届けなければならないだろう。居住実態のない場所への住民票移動は不利益が生じる。

話が本当なら、選挙の3ヶ月前と選挙終了後には、大量の住民票が移動されて役所はてんてこ舞いになるはずだが、そんな話も聞かない。職場の学会員が不自然な住民票移動を繰り返して事務が困っている、という話も聞かない。今まで具体的に学会の住民票移動を証明した人はいない。それどころか逆に過去にこの件を持ち出して抗議され、自民党も社会党も民主党も朝日新聞も謝っている。典型的なウソなのである。

ちなみに住民票移動は、公職選挙法の「詐欺登録罪」と刑法の「公正証書原本不実記載罪」、さらに住民基本台帳法に反する。やはり本当に見聞きしたのなら警察へ行くべきである。

④学会は反対派を粛清する。

ここまでくるとオームである。オームの場合、いつだれがどのように粛正(ポア)されたか明らかになった。

学会はどうであろうか。

東村山で市議が殺されたなどという事件がよく指摘されるが、裁判記録は明確である(『東村山市民新聞事件』)。これを覆すのは難しかろう。裁判記録は勝敗そのものよりも勝敗の理由となる判決文に注目する必要があるが、元市議側が提示した事実は全く裁判所に信用されていない。

私たちは創価学会を敵に回して批判している人々をたくさん知っている。著名人であればあるほど影響力があるはずである。民主党の石井一議員、ジャーナリストの溝口敦氏、元公明党委員長の矢野絢也氏だけでなく、共産党は集団で「赤旗」も使って学会批判をしている。テリー伊藤は『お笑い創価学会』という本を書いて学会を笑い飛ばした。すでに亡くなった人には元毎日新聞記者の内藤国夫氏もいた。また、元顧問弁護士の山崎正友氏と元教学部長の原島嵩氏は学会をやめただけでなく攻撃に転じ、多くの情報をマスコミに流した。そうした大物が誰か殺されただろうか。(ちなみに故人となった人の死因は病死でありそれを疑う人はいない。)

失礼だが、東村山事件の朝木氏がどの程度世間に影響力を持っていたというのだろうか。私たち一般の市民は、週刊誌の報道があるまで朝木氏の存在さえ知らなかった。彼女が学会を批判していることさえ知らなかった。彼女が影響力を持ったのは、週刊誌が「朝木氏は学会に殺された、という人がいる」と言い出してからである。このような影響力の小さな反対派の人々をいちいち手に掛けていたら、どれだけの人を殺さなければならないのか。実際、どれだけの人が殺されたというのだろうか。確定的な被害者がいるなら挙げてみればよい。

それが説明できなければ、「学会は反対派を粛清する」という話はヨタ話であるというしかない。人を殺人者呼ばわりするからには、キチッとした事実を把握しておく必要があることは言うまでもない。

⑤創価学会は日本を支配しようとしている。

ほとんどショッカー扱いである。まず、具体的にどういう状態に持っていくことが「支配」することになるのか分からない。こういうことをいう人の意見を読んでみてもイメージが共有できないのである。どうも主張している御本人も、具体的にどういう状態が創価学会による支配の完成で、どうやってそういう状態に持っていこうとしているのか、という現実味のある話はイメージできていないらしい。

「創価学会員が社会の多方面に進出している」という話はよく聞くが、これだけ大きな団体なら、司法にも、官僚にも、警察にも、教育界にも、地域の役員にも、国会にも、地方議会にも、財界にも、中小企業にも、芸能界にも、主婦にも、様々な分野に会員は広がっているであろう。そのことを持って問題視するのは意味がないし、それを「阻止しよう」などという人がいるが、魔女狩りと同じである。芸能人やスポーツ界などの有名人で学会員の名前を挙げるスレやサイトがあるが、完全な人権問題である。そんなことをしたり、読んで喜んでいる人には、学会のことを批判する資格などあるまい。

ただ、池田氏の比較的古い著作に登場する言葉として『総体革命』という言葉は確かに気になる。『青年の譜』(1970年)にあるその言葉を引用してみると次のようになる。

由来 革命には/政治 経済 教育の革命があろう/しかし/その一つひとつの/孤立した革命には/堅実はなく 無理と偏頗が生ずるのだ/政治革命のみでは/血の犠牲がともない 民衆の安堵はない/またも権力者は大衆の上に君臨していく/はたまた経済革命にも/民衆の満足はない/富なき庶民を蹂躙 空転していく/さらに教育の革命のみでも/民衆の幸はない/揺れ動く 世界の動乱に耐えないだろう

二十一世紀に生きゆく/民衆の願望は/外形のみの改革にはない/一人ひとりの哲学と思想の中に/平和裡に漸進的な/汝自身の/健全なる革命を願っている/これには長期の判断と/深い哲理を必要とする/これを総体革命と命名したい

一部だけ取り出しておいてこんなことをいうのは何だが、全体を読まないと原意はつかめない。この詩は七〇年安保闘争が終わった年の暮れに発表されている。米ソ冷戦も激しい時代である。安保闘争に敗れ、目標を見失いがちになった青年層に訴えかけるために、「革命」という言葉を使ってインパクトを狙ったのではないか、と推察する。

では何をもって「革命」とするのか。簡単に言うと、「政治革命や経済革命や教育革命も否定はしないが、目に見えるところの革命だけではうまくいかないのではないか。人間の考え方が変わって、社会がゆっくりと全体的に変化する。そういう平和的な変革を目指す」ということ。

そして、信仰は自分の変革のために必要で、それが可能なのが日蓮の教え。日蓮の教えを信仰して人間革命しようという人間が社会の各分野で活躍することが、社会を良い方向に持っていくことになる。それが可能かどうかは、創価学会員一人一人が今どういう生き方をしているのか、で証明される。生き方の追求こそが学会員のテーマなのだ、負けられない人生の戦いなのだ、と。学生時代に耳にタコができるほど聞かされた話である。記憶にたよる部分が多く厳密ではない点お許しいただきたい。

確かに現場の学会員は人間革命という言葉をよく使う。社会の変革のためには自分がよりよい存在にならなければ、と強く意識していることは間違いない。いや社会の変革などという大それたことは考えなくても、今の自分ではまだまだだ、という自己変革欲求を学会員はよく口にする。生半可にきくと 「人間革命」=「洗脳」になるのだが、学会員と対話すれば「洗脳」にほど遠いことはわかる。ようは真面目なのである。

「総体革命」とはそういうことらしい。私の説明でよく分からない方は(私もよく分かっていないが)、真正面から元意を探ってみた上で、議論されてはいかがか。少なくとも日本を支配しようなどとは、いかなる文献にも出てこない。出てこないからには現場の学会員は意識していない。現場がついてこれないことはいくら創価学会の首脳陣が突然言っても出来ない。巨大教団であればあるほど当たり前である。

何度もいうが、批判するならそれだけの根拠を挙げるべきである。批判者が根拠のいい加減さを指摘され、「根拠がいい加減だと言うことを証明しろ」と開き直るのは、「盗人猛々しい」ということわざがぴったりである。

(以後、続く)

| | コメント (45) | トラックバック (0)

創価学会のこと(「創価学会批判」論序章)①

ある友人の思い出

 予備校に通っていたとき、民青(民主青年同盟=共産党の青年組織)に所属して活動している友人がいた。勉強しなければいけないはずの浪人生だが、受験勉強一色の生活にあきたらず、彼とはよく議論をした。批判精神が旺盛な青年期のこと、話が合うこともあったが意見のすれ違いもあり、また何よりも受験生の立場で共産党の活動をしていることが理解できず、私が民青に参加することはなかった。

 そんなある時、彼からお誘いを受けた。創価学会の池田名誉会長の展示会に誘われているがいっしょにこないか、というのである。創価学会会員に友人がいて誘われたのだそうだ。共産党には創価学会に対する抵抗があるということは私もなんとなく知っていたが、断り切れず、私も道連れにということらしい。私は、高見の見物ができそうだと判断しいっしょに参加した。

 しかし驚いたことに、その民青の友人はとにかく感動した。「共産党は小さな違いを見つけては敵をつくるけど、そんなことでは平和を築くことなんかできないと思ってきた。ここに(池田氏のこと)世界を結ぼうとしている人がいる」とさえ言った。彼は創価学会には入会しなかったようだが、好意的な印象をいだいたことは間違いない。私は池田氏が会っている、展示に出てくる人々がどのような人なのかよく知らなかったので、彼がなぜそれほど感動しているのか分からなかった。しかし、彼に紹介してもらった友人の紳士的な態度とあいまって、好印象を持ったことは事実である。

大学時代

 大学時代にはとにかく議論をした。いろいろな宗教の人とも話をしたし、学会員ともよく話した。学会員の話を聞きに行くと、とにかく熱心に勧誘される。私もおとなしい方ではないので反論するのだが最終的には論破されて、最終的には“やるかやらないか”という次元まで持って行かれる。そういう経験を性懲りもなく何回も繰り返した。正直腹も立った。学会員の友人と疎遠になった時期もあった。しかし、そこから言えることは、彼らほどよく理論を学び生活に生かそうとしている人たちを私は知らない、ということである。その理論も日蓮や学会の手前勝手な理論だけでなく、古今東西の哲学や昨日の毎日新聞の文化欄なんかがすっと引用されるのである。人間はもっといいかげんな存在でもいいと思っている私からすれば、完璧すぎて逆に抵抗感がある。しかし間違いなく言えることは、創価学会員は、洗脳されてもいないし、弱い者が集まっているのでもない。彼らは有意義に前向きに生きようとすることにかけて人一倍真面目なのである。しかしその真面目さが、外から見ると異様に見えることもあるのである。だって本来人間はいい加減なものだから(これはもちろん私の考え方)。といいながらも、私は、そうした真面目な行き方があることを学んだし、その一部は私のなかで生きている。(私の最も仲のいい学会員の友人は、そうした人間の機微を実にうまくとらえている。根っこが真剣で真面目なのに余裕を感じられる生き方をしているので、安心してつきあっていける友人の一人である。)

 ただ恐らくは、このように学会員から「折伏」を受けた人の中に、学会の悪口を言っている人がけっこういるのは間違いない。当時の「折伏」はそれほどに強烈で、ある意味強制力をも感じさせられるものであった。プライドを痛く傷つけられた方もおられたはずである。ただ時々、「強制されて学会に入れさせられた」という人がいるが、それは言わない方がいい。自分は弱い人間ですよ、と告白しているようなものである。

その強烈な折伏も近年おとなしくなったと私は感じる。特に、独善的だ、とか、排他的だ、とか言われる傾向性は、どうやら創価学会を破門した日蓮正宗の傾向のようである。破門以降の創価学会は、より対話がしやすくなったし国際的な評価も高まっていると思う。

ジャーナリズムと創価学会

 そうした大学時代は、出版社系週刊誌が毎週のように創価学会と池田名誉会長を批判していた時期でもあった。現在ネットで半ば常識化している創価学会攻撃のネタはこの時に週刊誌によって指摘されたものが多い。まるで洪水のような報道であった。

大学で卒業とは関係なく興味に任せて好きな講義を履修していた私は、マスコミ論に強い興味をいだいた。マスコミがスケープゴートを作って集団ヒステリックになるときは誤報を生じやすく、それだけでなくバックに政治勢力の意図が働いていることがある(アメリカのマッカーシズムがその典型)と学んだ私は、創価学会攻撃の裏にもなにかあるのかな、と軽い興味を持っていた。そんなときに出会ったのが、ノンフィクションライターでジャーナリスト柳田邦男氏の『創価学会名誉会長池田大作は何を考えているか』であった。書店でこの本を見た私は、「あの柳田邦男も学会を批判するのか」という興味で手に取ったのだが、まえがきに次のように書かれているのを読んで、これは質が違う、と即座に悟った。

「さて、ここ数年、〈池田大作〉に関わる情報が、まるでディスコのミラーボールに反射される乱光線のように、飛び散っている。(中略)〈池田攻撃〉が、例の『創共協定』直後から公然と展開されはじめたことを思えば、この戦略を誰が計画・立案したかを見破るのに時間がかかるとは思われない。

 加えて、いかに「なりふり構わぬ」のが戦いの常とはいえ、今日までのいわゆる〈池田スキャンダル〉攻撃は、実に「エグイ」の一言に尽きよう。同じジャーナリズムに働く者として、恥ずかしい思いさえする。(中略)日本の〈ジャーナリズム〉が、どうしてここまで腐ってきたのか-。」

 柳田氏は、創価学会攻撃の背後に、創価学会と共産党が手を結ぶことに危機感を感じた保守勢力の意図が働いていること、当時の〈ジャーナリズム〉(あくまで〈 〉つき)がそのために利用されていること、を指摘した上で、実際の池田大作の人物像を浮かび上がらせようとしたのが本書である。そのために彼は、相当な量の学会系出版物と学会批判の文章を読み、学会サイドにも取材し、池田名誉会長本人にも取材したこともあるという。他人を批判するにはその主張を真っ正面から把握してから行なうのが当たり前である。それは批判者の義務である。学会系の本を読めば考え方が学会寄りになるから読まない、という批判者がいるようだが、根っからおかしい。それは、学会の主張に説得力があるということを認めているにすぎないし、その批判者は自らの言葉が根拠のない無責任なものである、と証明していることになる。私には柳田氏のジャーナリストとしての姿勢はまったく正しいものだと思った。この本は今でも私の書棚に並んでいる。

 当時の暴風雨のような、批判のなか、創価学会の書物を読みきちんと取材して正面から創価学会を論じようとした本は他にも存在する。私が当時読んだだけで、丸山実著『月刊ペン事件の内幕 狙われた創価学会』、竹中労著『仮面を剥ぐ 文闘への招待』、岡庭昇著

創価学会問題とジャ-ナリズム ― メディアの罠・権力としてのマスコミ』などがある。創価学会攻撃の裏側に保守権力の策動を見て取っていることが共通点である。

大学の図書館には学者の書いた本もあった。経営学者の後藤弘は『創価学会の経営学的分析』を出していたし、日本史学者の笠原一男氏は『一向一揆と創価学会』を書かれていた。この書は、初版出版時に学会員から寄せられた様々な反応を第2版以後に分析しておられ、面白かった。最近も、創価学会を学問的に論じようとしている書は存在する。社会学者の玉野和志著『創価学会の研究』や宗教学者の島田裕巳著『創価学会』などである。両者とも多くのデータや資料に当たって書いているが、学会員に直に取材したりなどしてその実態に迫ろうとする姿勢に欠けており、面白みに欠ける。むしろ少し前の本であるが、別冊宝島の『となりの創価学会』や中央公論誌上に掲載された田原総一朗の池田インタビューが面白い。また、記憶に新しいところでは『中央公論』20104月号が、脳科学者の茂木健一郎氏と池田大作氏の往復書簡を掲載した。茂木氏の次の言葉は特記されていい。

「もともと、私が「池田大作さんとお話ししてみたい」という希望を抱いた理由の一つは、日本のメディアの中で池田さんが長年指導されてきた「創価学会」、及び池田大作さん御本人の扱われように違和感を抱いていたという点にあります。

全国に百万単位の会員が存在する創価学会。そこに集う人たちにとっては、生きることの糧、支えになってきたのでしょう。ゆかりの深い「公明党」は、一〇年にわたって連立政権に参加してきました。そのように日本の中で大きな意味をもつてきた組織に向き合うことが「ダブー」であるような状況はおかしい。そこには人工的につくられた「壁」がある。そのことによって、大切な対話が閉ざされている。そのように感じてきました。

(中略)私は、多方面に大きな影響を及ぼしてきた池田大作さん御本人と対話することで、「壁」を溶かしてみたいと願ったのです。」

また、ただの一創価学会員の千葉隆氏が、飛鳥新社の土井社長が集めた巷間言われている学会に対する批判に答えた『池田大作の事』も面白い。学会批判をされる方は一読されることをお薦めする。

ネット上の創価学会攻撃の異常性

以上のような経緯と多くの学会員との対話、そして学会系書物の読書の結果、現在の私に映っている創価学会像は、ネット上で言われているのものとは全く別物である。現今のネット上の創価学会には大きな問題を感じている。あからさまなウソがはびこり、創価学会員にだけは人権がないかのような明らかな人権侵害が横行している。

竹中労の『仮面を剥ぐ』に、1980年代当時の週刊誌の学会総攻撃を指して

「一方的な敵意をエスカレートさせるのみで、問題の本質に迫る論争が不在であるこのような力関係で、“勝敗”をきめるのは結局、物量の差でしかあるまい。(中略)“言論のフェアプレイ”いずくにありや?」

とあるが、現在のネット上の創価学会攻撃はそれを上回っている。Yahoo知恵袋などのQ&A形式のコミュニティサイトには、創価学会を批判することが目的の、事実誤認を助長する質問が毎日のように行なわれ、その事実誤認を誰かが肯定することで真実であるかのように喧伝している。2chには創価学会批判が洪水のように押し寄せ、うわさと悪意と感情のカオスのような状態となっている。もし批判者を批判しようものならたちまち袋だたきに会う。私は創価学会批判者こそ何かに洗脳されているのではないか、という不自然さや狂気を感じるのだ。

 創価学会だけがこのような不自然な批判にさらされるのはおかしい。「批判をするからにはきちんと裏付けを取る」という当たり前の姿勢がネットの学会批判者らには実に薄い。ここにはフェアプレイはない。

 次回以降、典型的な創価学会批判のなかで、ウソ・デマと判定できるものを取り上げてみたい。もちろん創価学会をまっとうに批判したものもあるが、それはここでは対象ではない。私の目的は創価学会を持ち上げることではない。私の興味はネット情報の異常性にあり、創価学会はそのためのネタである。「韓国修学旅行で土下座って本当?」でネット上にガサネタが流されていることに論及した人間として、創価学会に対するガサネタの嵐を看過していていいのかという、私なりの正義感でこれを書くのである。したがってこれは「創価学会論」ではない。「創価学会批判論」である。

読者の皆さん。コメントは、せめて上記の本を一冊や二冊読んでして下さい。

まっとうなご批判には時間をかけてでもお応えさせて頂くつもりです。可能な限りにおいて。

| | コメント (29) | トラックバック (0)

「韓国修学旅行で土下座って本当?」再び

韓国修学旅行で土下座って本当?」を書いてから3年が経った。その間様々なご意見もいただいたが、土下座させられた」学校はいまだ出てきていない。やはりそんな学校はなかったのだろう。

時々2ch等で引用されるらしく、突然アクセス数が増えるときがあって面白い。

そうした中で、いわゆる「ネットウヨ」の皆さんが、私の文章に批判されることがある。しかしどうもその批判が次元が低いのである。今回はすこし反論を書いておくことにする。

①「このプログは所詮は単なる2次資料だ」という批判へ。

こういう批判をするひとは、「韓国への修学旅行で土下座させられている」という情報がすべて2次資料ですらない情報で成り立っているということに気がついていない。産経新聞記事には、土下座も慰安婦もなし。あとは真偽不明のプログの書き込みだけ。二つをくっつけて「土下座させられている」と強弁して成り立っている情報なのだ。だからそれしか根拠がないなら「土下座はなかった」というしかない。この理屈が納得できない人は、他に土下座させられたという1次資料を出すしかないでしょう。

「単なる2次資料だ」という人は産経新聞記事が1次資料だと言いたいのかもしれませんが記事を読んでいないとしか思えない。次元が低すぎます。

②「韓国への謝罪行事を批判しているのに、土下座があったかなかったかに問題をすり替えている」という批判へ。

私ははじめから土下座の有無を問題にしており、すり替えなどはしていません。そういう方は私の文章を読んでそれ以上の反論がないのなら、まず「土下座はなかった」ということを認めていただきたい。

その上で私は「世羅高校の修学旅行は謝罪行事ですらない」と述べました。自分の価値観を揺るがしてしまう文章をじっくり読むのは確かにしんどいこととは思いますが、ネットウヨの皆さんには、どうもそこまで読んで頂けていないようだ。それが悲しい。

ちなみに私は、現在の高校生が過去の日本の行為を謝罪することには反対です。当時生きていた大人がやりなさい!高校生にできることは、「過去を乗り越えて手をつなごう」という世羅高校が行った未来志向の訴えだけかと思っている。

ところで気になるのは、それはなぜ韓国日報は世羅高校のアピールを「謝罪」であると報道したのかということ。もしかするとそこには、日本人が行った行為を認めればそれが謝罪であるという発想があるのかも知れない。もしそうなら、なんともおおらかな国民性ではないか。

③私を「ネットサヨ」扱いする人へ。

私の文章を読んで、イデオロギーにとりつかれて情報をねじ曲げてまで強弁する「ネットウヨ」や「ネットサヨ」のような傾向性を感じられる方がいることは心外だ。「ネットウヨ」の方は、私の文章が自分の意見と違うから対立する「ネットサヨ」に分類することで思考停止したいのでしょう。批判するならどこがどうおかしいのか説得力ある反論をしていただきたい。

私は、私の文章が否定される事実に出会えば変更する覚悟は持っている。事実、多くのコメントをいただき文章を修正してきた。

反論、修正のための情報をお待ちしています。

| | コメント (49) | トラックバック (0)

『嫌韓流2』を覗いてみた。

以前に「韓国修学旅行で土下座って本当?」を書いた。かなりの反響をいただいているが、韓国で土下座をさせられている学校などないという結論はまったく揺るがずに現在にいたっている。

ただ、気になる存在として「嫌韓流2」に、この件のことが書かれているという情報があった。他国の国民を「これでもか」と言わんばかりにこき下ろしているであろう内容を想像すると、本屋で買うほどの気持ちも起こらず、本屋ではビニールがかかっていることも多いので該当部分の立ち読みもできず、相変わらず読まないままでここまできた。しかし今回ひょんなことで中身を確認する機会が訪れたのであった。

世羅高校の件に限定して述べる。

これは完全な情報操作だ。根本から違う。

まず事実を述べる。

まず、世羅高校の校長先生が「日の丸・君が代」問題で板挟みとなって自殺される事件があった。なぜかそのタイミングで産経新聞が韓国日報の記事として「半年前に世羅高校が韓国に修学旅行へ行き戦前の日本の行為を謝罪した」と発表したのだ。その記事には「土下座」という表現は一切ないし、写真にも写っていない。時あたかも「国旗国歌法案」の審議が行われているときで、自民党の二人の議員が「教師達はお線香もあげにこない」というデマを流した。

この順番で出来事を読めば、産経記事自体が情報操作の可能性がある、と感じられるだろう。

ところが『嫌韓流2』は、まず「韓国で世羅高校が土下座させられた」と騒ぎ、その後で「しかもその半年後に校長先生が自殺している」とのべ、極め付きに「教師はだれも線香をあげにこなかった」(お葬式には全員参加したのにご自宅に行かなかった、というのが事実。)と、とことんすべてを教師の責任にしている。

まず、土下座させられた」がウソ半年後の自殺の原因を検討しない」のが不誠実線香をあげなかった」がウソ出来事の並べ方」が意図的

まあ、やっぱり所詮はプロパガンダ本なんだな、と思ったのである。

| | コメント (1) | トラックバック (1)

「韓国修学旅行で土下座って本当?」その後

以前に「韓国修学旅行で土下座って本当?」という文章を書いた。その後もかなり手を加えて、現在は当初の形とはだいぶん変わったが、基本は

①広島県の世羅高校の韓国修学旅行での謝罪行事を報じた韓国日報の記事を紹介した1999年(平成11年)3月6日付の産経新聞記事には、元従軍慰安婦の方に土下座したなどという事は記事にも写真にも載っていない。

②2004年2月20日未明に2chの「【もうね】カンコク大嫌い【うんざり】」というスレの514、516、518、519番の書き込みは、いろいろなところでコピペされ、あたかも初出のように扱われるが、上記産経記事とは全くの別物であるだけでなく、書き込み自体の内容が不自然で信用できない。

③上の二つが同じ出来事としてネット上で扱われ、「世羅高校は韓国で土下座させられた」と喧伝されているが、この二つ以外にソースを明かせないのなら、これは間違いであるというしかない。また、これ以外に「土下座させられた」という記事は見つからないので、韓国に修学旅行に行って土下座させられたという学校は存在しないのではないか。

ということを論評したものである。少し長文になりすぎたきらいはあるものの、その都度思索をしながら書いた自信作である。

残念なのはこの文章に対するコメントがほとんどないことである。

末尾に

「よって過激に結論。韓国の修学旅行で土下座させられた学校は存在しない!
事実が確認できれば、内容の修正にやぶさかではありません。お知らせ下さい。」

とまで書いたにも関わらず、どこからもでてこないのである。やはり、土下座した学校など存在しないのか、それとも自分の意見に反する文章など読まない人が多いのか、のどちらかであろう。

それにしても、もっとネットウヨの方々から強い反発があるかも知れない、と覚悟していたので、拍子抜けの感がしないではない。

もっとも他のサイトやYahoo知恵袋などで、たびたび私の文章が引用されたりしていて、それに対する反応はまま見られるので、これに対して少し私の考えを述べたいと思う。

本文のコメント欄に直接あった反論はただ一つ。

通りすがり(2人目)さんの

「韓国修学旅行で土下座って本当?」に触れなかったのは、その価値がないと思ったからです。信憑性がないから「土下座は完全にウソ」って。総連の情報は鵜呑みにするのに…。」

というもの。他の知恵袋などの反応もこの方の域を出ない。

曰く、世羅高校の生徒に直接土下座しなかったのかどうか聞いたのか?」

曰く、メールの投稿者に直接ウソメールだということを確認したのか?」

ちなみに私はネット上の世羅高卒業生を名乗る書き込みは紹介しましたが、どうせ信じないでしょう。この言葉はそのままそっくりお返ししたい。

「世羅高校の生徒に直接土下座したかどうか聞いたのか?」

「メールの投稿者に直接本当のメールかどうか確認したのか?」

人や他国を貶める文章を公表するからには、情報が真実であることを証明する必要がある。でなければ名誉毀損。逆にいいかげんな情報に反論するには、その情報に信憑性がないことを証明するだけで充分なのだ。そうでなければ、自分で作った作り話をあたかも真実であるかのようにネット上に流すことが可能になる。ネット上では同じ情報が何度も様々な場所に顔を出すと、真実であるかのように受け取られる傾向があるからだ。

(もっとも、人を誉めたり称えたりする情報にはこのような面倒な手続きは必要ないと私は考えます。)

ネットにガサネタを流す人には「ノーリスクで人を貶めることの快感」があると思う。人の不幸の上に自分の幸福を築こう」という情けない風潮はなんとかならないものか。

ネットという便利なツールを汚すも生かすも人次第。残念ながら、汚す人が多いようで困る。

<追記>

2008.5.31に「無名氏」さんからたいへん有意義なコメントを頂戴した。下のコメント欄にもあるように、1999.3.10産経新聞に、生徒が読み上げた宣言文の全文が掲載されているということなので、探してみました。記事(大阪版)は以下の通りです。

「韓国修学旅行世羅高宣言文 「真実忘れない」 独立記念館の展示に驚き」
1999.03.10 大阪朝刊 1頁 総合1面 
 国旗掲揚、国歌斉唱問題を苦に校長が自殺した広島県立世羅高校が韓国へ“謝罪修学旅行”を行っていた問題で、産経新聞は九日、同校の生徒会がソウル市内の公園で読み上げた「宣言文」(韓国日報の報道では「謝罪文」)を入手した。
 旅行中に訪れた独立記念館での印象に触れ、「展示の数々が目に焼きついて離れない。日本がかつてこの国で何をしたのか、知ったつもりでいた自分に気付きなさけなくなった」「今、自分の目で見た真実を忘れない」などと書いている。
 独立記念館はソウル南方にあり、日本の朝鮮統治時代に日本の官憲が韓国の独立運動家を拷問する残酷な場面をロウ人形で再現した「拷問コーナー」などが設けられている。
 宣言文は昨年十月十六日、タップコル公園で開かれた生徒会主催の「平和集会」の中で読まれた。生徒たちが公園の三・一独立運動記念塔前で、ひざを折り、頭を垂れ、独立運動の犠牲者への黙とうなどを行っている写真や記事が今月五日付韓国日報に掲載され、日本に衝撃を与えた。
 ◆宣言文全文
 「遠い昔から現代まで多くの人々が行き来した玄界灘。
 それは古代から日本に文化を伝え続けた海峡であり、韓国と日本の歴史的に不幸な事実や在日韓国人が受けている不当な差別的現実を生んだ海峡でもある。私たちは昨日その海峡を渡った。
 韓国、こんなに近くにある国なのに、私たちは今まで自分たちから求めてこの国のことを知ろうとしただろうか。教科書や歴史の授業の中で自分から日本とこの国の歴史の真実を学ぼうとしただろうか。
 今、私たちは、日本と異なる文字ハングルや風物の違いを目のあたりにし、「異なるものの存在は当たり前のことである」ということを改めて心の中にきざみ込んでいる。そしてさっき訪れた独立記念館の展示の数々が目に焼きついて離れない。日本がかつてこの国で何をしたのか、知ったつもりでいた自分に気付きなさけなくなった。私たちはこの独立記念館がこの国の人々の「過去を忘れず再びこのようなことのないように子孫に真実を伝えたい」という思いで建立されたのだということをしっかりと受けとめたいと思う。私たちも今、自分の目で見た真実を忘れない。キョレーの家で私たちを迎えてくれた「不屈の韓国人像」の「不屈の魂の叫び」を私たちひとりひとりの心の中にきざみ込みたい。私たちは今、この地に自らの足で立ち、自らの目や耳や心、全身全霊で受けとめられるもののすべてをしっかり自分のものにしたいと思う。この旅は私たちにとって「どの様に生きるか、どの様に生きなければならないか」ということを自らに問うものだと思う。自らの偏狭な価値観で異なるものに優劣のレッテルをはることなく異なるものは異なるものとして受け入れられる真の国際人となる第一歩としたい。
 この地で学ぶ日本とこの国の過去の不幸な歴史的事実を教訓とし21世紀を創る世代の人間のひとりとしてせいいっぱい平和と友好の心を育み続けたいと思う。
 今ここに集う者全ての思いを込め
 平和な未来を求め Lets be ambitious!!」

まずこの産経記事には、「謝罪だと結論づけている」ところはありません。

その上で宣言文をどう見るかは人それぞれでしょう。

宣言文はまず前半で、日本統治下において朝鮮半島の人々が受けてきた仕打ちの展示を見た、驚きの心情と知らなかったことが情けないといった思いが素直に表現していますが、この文章の主題は後半にあり、そのような事態になった原因を、民族に優劣をつけようとする偏狭な価値観に求め、異なるものに優劣のレッテルをはることなく異なるものは異なるものとして受け入れられる真の国際人として過去の不幸な歴史を忘れず、乗り越えてせいいっぱい平和と友好の心を育み続けたい決意が述べられています。

同じ日の産経新聞の東京版には、この宣言文を紹介した上で、

「日本の朝鮮統治を一方的に悪とみる残酷な展示に生徒たちが影響を受けことさらに卑屈になっている心情がうかがわれる。」

としていますが、どこをどう読めばそうなるのか私には分かりません。文章の全体を見ず、前半の一部を切り離して読めばそう見たい人にはそう見えるのでしょうか。半島で日本が行ったことがどのようなものであるかを検証することは確かに必要なことかも知れませんが、かれらはそれを超えていこうとしている。いったい宣言文のような「真の国際人」としての決意を批判する必要がどこにあるのでしょうか。どうしても「韓国人が日本を残虐・残忍な民族であるというレッテルを貼ってバカにしている。けしからん」といいたい人は、宣言文のいう「偏狭な価値観」のレベルから一歩も出ていないと思います。

さてその上でたとえこの宣言文を謝罪文である、としたとしても、はっきり言えることは「土下座はしていない」ということです。産経新聞は「ひざを折り、頭を垂れ」という不自然な表現にとどまり土下座とは表現できていません(したかったのかも知れませんが)。土下座したという情報がなかったからこういう表現しかできなかったのだろうと、推察するものです。

いったい産経新聞はこの報道で何を読者に伝えたかったのだろう。いっそう分からなくなってきました。

| | コメント (35) | トラックバック (1)

Yuutube(Youtubu)その後

以前にワンクリック詐欺のYuutube(Youtubu)について書いたらすごい反響をいただいた。わたしのブログの読者のほとんどは、現在ワンクリック詐欺のYuutubeが来たぞ!へのアクセスである。多くの被害者や被害に遭いかけた方のコメントを頂戴し、情報交換ができたことが何よりである。今回はそのまとめ。みなさんからの情報と私の所に後から貼られたトラックバックをまとめてみた。

まず、誘導ブログがある。芸能情報で釣るのである。

http://ameblo.jp/chisaiojisan1022/ (花田美恵子さんの不倫の件)

http://plaza.rakuten.co.jp/masamihotel/ (長澤まさみ) これはすでに削除されています。

http://plaza.rakuten.co.jp/hytdjutfcgj/ (ジャニーズ若ハゲ伝説)

http://tegesrgvw.cocolog-nifty.com/blog/ (木村拓哉と中田英寿)

このページで動画画面をクリックすると、3つのパターンへ飛ぶ。

①「芸能情報最前線」のページ

http://www.entaenta.com/play_pv/index.php?blog=lb (芸能情報最前線@Youtubu)

http://www.entaenta.com/play_pv/index.php?blog=me (芸能情報最前線@Youtubu)

http://www.utubu.net/movie_pv/index.php?blog=mf (芸能情報最前線@Yuutube)

②ビデオ画面の映像が出る。

http://www.utubu.net/view_wmv/index.php?blog=mf

http://www.entaenta.com/play_movie/index.php?blog=me

http://www.entaenta.com/play_movie/index.php?blog=lb

http://www.entaenta.com/play_wmv/index.php?blog=me など

③登録完了画面に飛ぶ

http://www.utubu.net/entry.php?blog=lc

http://www.utubu.net/entry.php?blog=me

①を経て②、③に行くパターンと突然②や③に行くパターンもある。③に行く前には基本的に2回の確認画面があるが、上の③のURLをブラウザに貼り付けても確認なしで表示される。セキュリティなどはない。やはりいいかげんなものである。

さてここからが本番。

ここまででやつらの使用ドメインは、「utubu.net」と「entaenta.com」であることに気がつく。このドメインはどこで管理されているか「IPひろば」で確認してみると、ミクストメディア株式会社という大分県のレンタルサーバー会社である。

「よーし。サーバー会社に通報すれば、つぶせるだろう!」と、まずは口頭で「utubu.net」の存在を電話で通報。その後、「entaenta.com」もミクストメディアだということが分かったので、再度電話連絡。

そこで予想外の答えが。「担当に伝えましたが、『utubu.net』の存在が確認できないというのです。」

えっ!じゃあここではなかったのか。同社名があるのか。「いやいやサイト自体は存在してますよ。」と私。そこで自信なさげに上記のアドレスを同社にメールしておいた。

その後「ミクストメディア」で検索をかけてみると、ちょっと怪訝なことが分かってきた。

例えば、

http://www.lime-blog.jp/index_13.php/?na=13 (ナスビTube)

http://www.itigo15.jp/ (イチゴ)

もワンクリックサイトだが、同じくミクストメディアのレンタルサーバーを使っているのだ。みてみたら登録完了画面はYuutubeのプラスワンとタイプは同じである。どうもこれは同系列のものらしい。ミクストメディアとはどのようなレンタルサーバーなのか。まさかワンクリック詐欺サイトを放置するレンタルサーバーなどではあるまい。

ちなみに所在地は、大分市生石4-1-2-9Fだそうである。

☆進行状況=11/5(8日目)現在、プラスワンの使用状況に変化無し。

| | コメント (44) | トラックバック (0)

日本ではじめての高速道路サービスエリアは「吹田SA」ではない、という事実

ある日のこと。ふとしたことでNEXCO西日本グループの吹田SA情報をみる機会があった。

http://www.w-holdings.co.jp/sapa/index.php?institution_id=2004

そこには「名神高速道路初のサービスエリアです。」との表現があった。

「待てよ。日本で初めてのSAは大津SAやと聞いたことがあるぞ」そう思った私は、さっそく調査を開始したのである。

まず同じNEXCOのSA・PA情報の大津SAをみるとそのことには触れられていない。しかしいろいろ調べてみると、名神高速道路は日本初の高速道路で、1963年7月16日に栗東~尼崎間が開通。大津SAは、1963年10月1日オープンということが分かった。

ということは吹田SAは1963年7月16日~10月1日の間にオープンしたことになる。しかし、いくら探してもそんな情報はネットにはない。そこで思い切って吹田SAに電話してみた。

「つまらない質問ですみません。吹田のSAは日本で最初のSAだとHPにありますがそれでよろしいんでしょうか?」

「はい。その通りです。」(明るい女性の声)

「大津SAは1963年10月1日オープンですが、吹田SAのオープンはいつですか?」

「え~と、ちょっとお待ち下さいね。え~っと …  1965年7月9日ですね~」(ちょっと困った様子)

「ということは大津の方が早いんですね?」

「ということになりますね~。    お調べいたしまして折り返しお電話させていただきます。私たちも勉強になります~」ということで、電話待ちということになったのである。

ところが約束の時間になっても電話がかかってこない。やむを得ずこちらから電話。

「お仕事中すみません。先ほど吹田SAのオープンについてご質問させて頂いたものですけども」

「ハイ。」(明らかに不機嫌そう)

「先ほどの件いかがでしたでしょうか?」

「担当の者に問い合わせていますがまだ返答がありません。そちらから電話して頂けますか?」(さらに不機嫌なご様子)

NEXCO西日本のお客様サポートの番号を教えてもらってかけてみた。

「すみません。日本で最初のSAはどこですか?」

「大津SAです。」(さわやかな即答)

なんということか!こんなにすぐに分かることをこっちに振るなんて!吹田SAが日本初でないことが証明されて動揺したに違いない。

「じゃぁ吹田は2番目ですね?」という私の質問に担当者の方は「2番目かどうかは~ここではわかりません」とのこと。

しばらくの間、大津が最初だということでいいかと思っていたのだが何か気になる。吹田は2番目なのだろうか?

名神高速道路は、1964年4月12日に栗東~関ヶ原間が供用開始。この間には多賀SAがある。さらに同年9月4日に関ヶ原~一宮間が供用開始。この間には養老SAがある。こっちのほうが早い可能性がある!(東名は1968年とだいぶ遅いのでらち外)

多賀SAに電話。「1964年4月12日オープンです。」多賀町のHPで確認http://www.tagatown.jp/

養老SAに電話。「1964年9月4日オープンです。」養老町HPでは未確認ながらも、おそらく間違いはないだろう。

つまり、吹田SAは、日本で4番目のSAなのである!

この事実は、ウィキペディアのそれぞれの項目に記載させて頂いた。

ネットというのは怖いものである。そこに記載されている「事実」は不確定なものでも確定的な事実として一人歩きをする。今後も注意したいと思った出来事であった。

《追記》

ここまで書いて気がついた。

名神高速道路初のサービスエリアです。」という表現は、「名神高速道路に乗ってはじめて出会うSAです」という意味なのだろうか?それならあっている。(名古屋方面から来たら最後のSAだけど)

ついでに言うとNEXCO西日本も大津SAが日本最初のサービスエリアだということは認識している。

http://corp.w-nexco.co.jp/corporate/release/hq/h18/0912a/

じゃあなんで吹田SAの方はあんな勘違いをしていたのだろうか?!

よけいに分からなくなってきた。

(追記)

冒頭に引用したNEXCO西日本の吹田SAのページは「名神高速道路に乗って最初のサービスエリアです。」と訂正されています。NEXCO西日本の誠意を感じます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)