「韓国修学旅行で土下座って本当?」再び

韓国修学旅行で土下座って本当?」を書いてから3年が経った。その間様々なご意見もいただいたが、土下座させられた」学校はいまだ出てきていない。やはりそんな学校はなかったのだろう。

時々2ch等で引用されるらしく、突然アクセス数が増えるときがあって面白い。

そうした中で、いわゆる「ネットウヨ」の皆さんが、私の文章に批判されることがある。しかしどうもその批判が次元が低いのである。今回はすこし反論を書いておくことにする。

①「このプログは所詮は単なる2次資料だ」という批判へ。

こういう批判をするひとは、「韓国への修学旅行で土下座させられている」という情報がすべて2次資料ですらない情報で成り立っているということに気がついていない。産経新聞記事には、土下座も慰安婦もなし。あとは真偽不明のプログの書き込みだけ。二つをくっつけて「土下座させられている」と強弁して成り立っている情報なのだ。だからそれしか根拠がないなら「土下座はなかった」というしかない。この理屈が納得できない人は、他に土下座させられたという1次資料を出すしかないでしょう。

「単なる2次資料だ」という人は産経新聞記事が1次資料だと言いたいのかもしれませんが記事を読んでいないとしか思えない。次元が低すぎます。

②「韓国への謝罪行事を批判しているのに、土下座があったかなかったかに問題をすり替えている」という批判へ。

私ははじめから土下座の有無を問題にしており、すり替えなどはしていません。そういう方は私の文章を読んでそれ以上の反論がないのなら、まず「土下座はなかった」ということを認めていただきたい。

その上で私は「世羅高校の修学旅行は謝罪行事ですらない」と述べました。自分の価値観を揺るがしてしまう文章をじっくり読むのは確かにしんどいこととは思いますが、ネットウヨの皆さんには、どうもそこまで読んで頂けていないようだ。それが悲しい。

ちなみに私は、現在の高校生が過去の日本の行為を謝罪することには反対です。当時生きていた大人がやりなさい!高校生にできることは、「過去を乗り越えて手をつなごう」という世羅高校が行った未来志向の訴えだけかと思っている。

ところで気になるのは、それはなぜ韓国日報は世羅高校のアピールを「謝罪」であると報道したのかということ。もしかするとそこには、日本人が行った行為を認めればそれが謝罪であるという発想があるのかも知れない。もしそうなら、なんともおおらかな国民性ではないか。

③私を「ネットサヨ」扱いする人へ。

私の文章を読んで、イデオロギーにとりつかれて情報をねじ曲げてまで強弁する「ネットウヨ」や「ネットサヨ」のような傾向性を感じられる方がいることは心外だ。「ネットウヨ」の方は、私の文章が自分の意見と違うから対立する「ネットサヨ」に分類することで思考停止したいのでしょう。批判するならどこがどうおかしいのか説得力ある反論をしていただきたい。

私は、私の文章が否定される事実に出会えば変更する覚悟は持っている。事実、多くのコメントをいただき文章を修正してきた。

反論、修正のための情報をお待ちしています。

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久しぶりの日本武道館

長男が参加する日本武道館の少年剣道大会に、自家用車で行ってきた。往復とも高速深夜割引を使うために、夜中の0時~4時の間、少しでもいずれかの時間に高速道路上にいなければならないという条件をクリアするために、かなりの強行軍であった。

夜中の1時に出発。とにかく走り続けて牧ノ原SAで1時間ほど休憩。さらに足柄SAで小休止をとり、後は一路東京へ。ところがラッシュアワーに遭遇して、9時の開会式には間に合わない始末。あ~あ。

試合は団体戦。1回戦は難なく勝利。2回戦、惜しい試合展開ながらも惜敗。今一歩の力が出し切れずいわゆる「勝ちきれなかった」という状態。子ども達にはいい勉強になったと思う。

しかし、会場で思ったこと。再三主催者側が「フラッシュを使用しての写真撮影はご遠慮下さい」とアナウンスしているのに(フラッシュが目にはいると試合の妨害になる)、平気で撮影している指導者がいる。うちの妻が「アナウンスをお聞きになられましたか?」とていねいに注意しても無視(この人だけではない。会場内で結構光っていた)。「監督章のない方は観覧席にお戻り下さい」とのアナウンスも無視する人多数。プロクラムに「物を置いての席取りは禁止します」とあるのに、ほとんど完全無視少年剣道の指導者たちはいったい何を子ども達に伝えようとしているのだろう。子ども達も同じ趣旨徹底を聞いている。それを無視する身近な大人達を見て、彼らはどう思うのだろう

このままでは剣道も終わるな」と思わざるを得なかった。

帰りもさらなる強行軍。そもそも0時以降にインターを出るために、どこかで風呂に入って時間調整を、と考えていたのだが、足柄SAでは東京に近すぎる。また、コースを変えて中央道の諏訪湖SAではどうかと思ったが、距離が長くなりしんどそう。そこで発見したのが、刈谷ハイウェーオアシス。伊勢湾岸道(第二名神)のPAながら、スーパー銭湯(天然温泉かきつばたの湯)があり、産直市場やフードコート、デラックストイレ、観覧車もある。昼間ならゴーカートや遊具で子どもを遊ばせることもできる。ちょっとこれは驚いた。結局、スーパー銭湯に2時間も休憩してしまい、帰宅が遅くなったが満足だった。これも道路公団民営化の恩恵だ。

剣道への若干の落胆と、いい施設との巡り会い。複雑な気持ちの変化の一日であった。

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芦浦道を行く

芦浦(あしうら)道という道があったらしい」と聞いて一度たどってみたいと思っていた。

これまでも、司馬遼太郎の『街道を行く』に影響されて、近江の街道をたどってきた。東海道、中山道、朝鮮人街道、西近江路、北陸道、北国脇往還、御代参街道などなど。最近は志那街道や矢橋道などの脇街道の経路をたどってみたりしている。

http://chizuz.com/map/map35271.html 志那街道

http://chizuz.com/map/map35454.html 矢橋道

芦浦道は、マイナーな道である。東海道、中山道などの大道ではないが、湖辺を南北に通る道は他になく、地元の庶民が行き交う道であったらしい。現在は「浜街道」に役割をゆずっている。

芦浦道は、大津市大江で東海道と分岐して、いきなり一部が東レ瀬田工場によって消えているが、その後大萱、新浜、矢橋、御倉、木川、上笠、下笠、穴村を通って芦浦観音寺で有名な芦浦へと抜ける。芦浦からは志那街道を北東に中山道を目指すことも、そのまま北上することもできたようである。

たどってみて分かったこと。とにかく道が細い。道幅はほとんどが2m弱(一間)といったところ。軽自動車でもしんどいだろう。一部は田の畦道と化している。地元の方と話したりもしたが、これが古い道だとは分かっていても、「芦浦道」という道であることは知られていない。忘れられつつある道なのである。

しかし、細い道なのに小学生の通学路だったりする。他に大きな道が出来て車はそっちへ行ってしまいかえって安全なのだろう。志那街道でも同じ現象がある。おそらく伝統的にそうなっているのだろう。

他の街道にはない特徴は、昭和50年代の道標が2つある。この道を消えさせてはならない、という関係者の努力が感じられて感激させられるものがある。他にも道ばたの古く小さな道標、明治初期のものと思われる水準点(主要道路に設置される)が見られ、趣が深い。

周辺に重要文化財が少ないことも、近江の他の街道と異なる特徴である。近江には重要文化財がゴロゴロあって多くが旧道に面している。しかし芦浦道には、矢橋に石津寺本堂と鞭崎神社表門、終点の芦浦に芦浦観音寺があるだけである。文化財にはどうも乏しい。やはり「日常の道」だったのではないかと想像する。

興味のある方は、たどってみて下さい。自転車が最適です。

http://chizuz.com/map/map51194.html 芦浦道

この次は、「山田道」を探してみます。

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松江へ行って来た。

先日、島根県松江へ行ってきた。高速の休日1000円を活用して、格安の料金はうれしい。今まで行けなかったところにも足を伸ばそうと思うものである。

しかしおどろいたことがある。中国道から米子道へ。米子インターで降りて、山陰道米子道路へ。この山陰道。最初は無料区間。自然に山陰道安来道路に入りここは有料。さらに松江バイパスに入ると無料。さらに行くと山陰自動車道に入って有料となる。この間料金所以外になんの障害物もない一本の道路である。この不自然さは何だ。しかもこの山陰自動車道は斐文町というところですぐにとぎれ、出雲までさえも行けないのだ。島根県には西側にも益田、江津や浜田という都市があるが、浜田が浜田自動車道で広島とつながっているだけ。つまり、島根県を横断する高速道路はないのである。山陰自動車道を横断させ、西は山口、東は鳥取とつなぎ、兵庫まで行けるようになれば、県内だけでなく他県との交流も進むだろうと、素人でも想像できる。なんと不便なのだろうか。

この高速道路建設を遅らせている原因は簡単に想像できる。「費用対効果」というやつである。鳥取、宮崎も高知もこのわかったようなわからないような言葉のせいで道路建設を見送られている。今までさんざんもうけられるはずの路線でムダをして赤字を出したせいで、よりもうけが望めない路線は建設しないそうだ。つまり都会生じたひずみを地方に押し付けようということだ。

本来都会でもうけて地方の赤字をカバーするべきではないのか!それが「市場の失敗」をカバーする公共事業の真骨頂のはず。これだから東京目線はダメなのだ。

とはいえ松江の町はきれいだ。松江城は最高だ。便利と引き換えに町が汚れるならもったいないと、矛盾したことを考えるわたしであった。

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『嫌韓流2』を覗いてみた。

以前に「韓国修学旅行で土下座って本当?」を書いた。かなりの反響をいただいているが、韓国で土下座をさせられている学校などないという結論はまったく揺るがずに現在にいたっている。

ただ、気になる存在として「嫌韓流2」に、この件のことが書かれているという情報があった。他国の国民を「これでもか」と言わんばかりにこき下ろしているであろう内容を想像すると、本屋で買うほどの気持ちも起こらず、本屋ではビニールがかかっていることも多いので該当部分の立ち読みもできず、相変わらず読まないままでここまできた。しかし今回ひょんなことで中身を確認する機会が訪れたのであった。

世羅高校の件に限定して述べる。

これは完全な情報操作だ。根本から違う。

まず事実を述べる。

まず、世羅高校の校長先生が「日の丸・君が代」問題で板挟みとなって自殺される事件があった。なぜかそのタイミングで産経新聞が韓国日報の記事として「半年前に世羅高校が韓国に修学旅行へ行き戦前の日本の行為を謝罪した」と発表したのだ。その記事には「土下座」という表現は一切ないし、写真にも写っていない。時あたかも「国旗国歌法案」の審議が行われているときで、自民党の二人の議員が「教師達はお線香もあげにこない」というデマを流した。

この順番で出来事を読めば、産経記事自体が情報操作の可能性がある、と感じられるだろう。

ところが『嫌韓流2』は、まず「韓国で世羅高校が土下座させられた」と騒ぎ、その後で「しかもその半年後に校長先生が自殺している」とのべ、極め付きに「教師はだれも線香をあげにこなかった」(お葬式には全員参加したのにご自宅に行かなかった、というのが事実。)と、とことんすべてを教師の責任にしている。

まず、土下座させられた」がウソ半年後の自殺の原因を検討しない」のが不誠実線香をあげなかった」がウソ出来事の並べ方」が意図的

まあ、やっぱり所詮はプロパガンダ本なんだな、と思ったのである。

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御代参街道のルート

滋賀県・近江国の御代参街道(土山~小幡)のルートを載せてみました。滋賀県教育委員会の中近世古道調査報告5「御代参街道・杣街道」を参考にしました。歩かれる方の参考になれば幸いです。

http://chizuz.com/map/map36205.html

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近江の東海道 ルート決定版

近江の東海道をまとめてみました。意外に間違ったルートを歩いている方が多いようです。ご参考にしていただければ幸いです。

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おいしいそばやだったのに…

先日の事。久しぶりに滋賀県草津市のとあるそばやにいった。何年か前に入って、そのときはおいしかったのである。「全国新そば会」という有名そば老舗店の会にも加盟している。店舗を使って時々落語の寄席もやっている粋な老舗なのである。

しかし、出てきたざるそばを見て、我が目を疑った。色も艶もない、若干乾燥して互いにまとわりついている。においもない。コンビニのソバに「ほぐし水」がついているが、それが必要なくらい固まっているのである。そう、明らかに作り置きである。しかもどうみても「手打ち」ではない。新そばのシーズンだったのに「新そば」の表示もない。金がもったいないのでなんとか食べた後、あまりのまずさに「本当のそば」を求めて町をうろついてしまった。幸いにも栗東市に「平」というおいしいそばや(おいしい店は実名でもいいでしょう)があって命びろいをしたのである。件のそばやには二度と行くことはないであろう。

全国新そば会」というと、本当においしいそばやが集まっているという印象がある。有名な「かんだやぶそば」もその一員である。一度食べたが「かんだやぶそば」は本当においしかった。しかし、こんな会員がいるとは…。看板倒れも甚だしい!「全国新そば会」はこの店の退会を勧告した方がいい。

件の店のホームページを見てみた。「打ちたて、ゆがきたての名代○○そば」

うそつけ!功利を優先しやがって!

身近に「食品偽装」が発覚した瞬間であった。

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しられざる偉大な日本人シリーズ2 ウズベキスタンの抑留日本兵たち

西岡京治さんから、久しぶりの第二弾である。

中央アジア・もとソ連のウズベキスタン。ここにも各地に満州から抑留された日本兵捕虜収容所があった。ウズベキスタン全土だけで約1000人が故国の土を踏むことなく亡くなったという。

この国の首都タシケント(地理の学習では内陸の地中海性気候(Cs)として有名)には次のような碑文がある。

[日本人抑留者記念碑文]
1945年から1946年にかけて、極東からウズベキスタンに強制移住された日本国民25,119余名の内、9,760余名が過酷な条件のもとで、数年にわたりタシケントの都市建設に貢献した。望郷の念むなしく79余名がこの地に眠る。この厳粛な歴史を後世にとどめ、永遠の平和と友好を念じ建立する。主な労働場所:ナヴォイ劇場、電線工場、運河建設、住宅建築、道路建設など。<2002年5月25日 日本人墓地整備と抑留者記念碑建設代表発起人会>

狂人スターリンが日本人を異国の地の強制労働に駆り立てた。シベリアの奥地よりは過ごしやすいはずのこの地でも約80名の方が亡くなっている。そして、その彼らが建設した建築物こそ『ナヴァイ国立劇場』である。

強制労働という忌まわしい記憶の産物であるこの劇場は、しかし思いもよらぬ効果をもたらした。建設の際のまじめな労働への取り組みの姿があった。そしてなんといっても完成後の1966年の大地震でタシケント市内の多くの建造物が倒壊した時、この劇場はビクともせず、「日本の建築技術は素晴らしい」という評価が定着したというのである。これらの事情からウズベキスタンの親日感情は中央アジアの中でも飛び抜けているらしい。

当時総指揮に当たったのは永田行夫さん。25歳で隊長となり本来の航空隊技術をこえる仕事をやってのけたという。

(以下参照)http://homepage2.nifty.com/silkroad-uzbek/works/2001/04_yuuzuru_nagata.html

羽田首相時代の2000年。事情を知る羽田首相とウズベキスタンの大統領との間で日本を代表するオペラ「夕鶴」の公開の話がすすんだ。翌2001年8月末、約束通りに「夕鶴」は講演された。現地の小学生は日本語を学びコーラスに参加したという。作曲者である團伊玖磨さんも指揮をする意欲を示しておられたが、残念ながら同年5月に逝去された。この時の公演は團伊玖磨さんの追悼公演ともなったのである。永田さんを含む当時の抑留者の代表も参加されたらしい。

戦中の日本の暴挙は批判されてしかるべきである。しかしだからといってスターリンの暴挙がゆるされるわけではあるまい。しかしそうした武力という強制力によって抑留された人々が、技術や文化の力によって日本への信頼を勝ち取ったのである。ソフトパワー(感化力・教育力など)がハードパワー(有無を言わさぬ強制力=武力・政治力など)に打ち勝ったすばらしい事例である。

日本の今後行く道がここに示されていると強く感じる。文化立国日本の建設を目指さなければならない。

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日本ではじめての高速道路サービスエリアは「吹田SA」ではない、という事実

ある日のこと。ふとしたことでNEXCO西日本グループの吹田SA情報をみる機会があった。

http://www.w-holdings.co.jp/sapa/index.php?institution_id=2004

そこには「名神高速道路初のサービスエリアです。」との表現があった。

「待てよ。日本で初めてのSAは大津SAやと聞いたことがあるぞ」そう思った私は、さっそく調査を開始したのである。

まず同じNEXCOのSA・PA情報の大津SAをみるとそのことには触れられていない。しかしいろいろ調べてみると、名神高速道路は日本初の高速道路で、1963年7月16日に栗東~尼崎間が開通。大津SAは、1963年10月1日オープンということが分かった。

ということは吹田SAは1963年7月16日~10月1日の間にオープンしたことになる。しかし、いくら探してもそんな情報はネットにはない。そこで思い切って吹田SAに電話してみた。

「つまらない質問ですみません。吹田のSAは日本で最初のSAだとHPにありますがそれでよろしいんでしょうか?」

「はい。その通りです。」(明るい女性の声)

「大津SAは1963年10月1日オープンですが、吹田SAのオープンはいつですか?」

「え~と、ちょっとお待ち下さいね。え~っと …  1965年7月9日ですね~」(ちょっと困った様子)

「ということは大津の方が早いんですね?」

「ということになりますね~。    お調べいたしまして折り返しお電話させていただきます。私たちも勉強になります~」ということで、電話待ちということになったのである。

ところが約束の時間になっても電話がかかってこない。やむを得ずこちらから電話。

「お仕事中すみません。先ほど吹田SAのオープンについてご質問させて頂いたものですけども」

「ハイ。」(明らかに不機嫌そう)

「先ほどの件いかがでしたでしょうか?」

「担当の者に問い合わせていますがまだ返答がありません。そちらから電話して頂けますか?」(さらに不機嫌なご様子)

NEXCO西日本のお客様サポートの番号を教えてもらってかけてみた。

「すみません。日本で最初のSAはどこですか?」

「大津SAです。」(さわやかな即答)

なんということか!こんなにすぐに分かることをこっちに振るなんて!吹田SAが日本初でないことが証明されて動揺したに違いない。

「じゃぁ吹田は2番目ですね?」という私の質問に担当者の方は「2番目かどうかは~ここではわかりません」とのこと。

しばらくの間、大津が最初だということでいいかと思っていたのだが何か気になる。吹田は2番目なのだろうか?

名神高速道路は、1964年4月12日に栗東~関ヶ原間が供用開始。この間には多賀SAがある。さらに同年9月4日に関ヶ原~一宮間が供用開始。この間には養老SAがある。こっちのほうが早い可能性がある!(東名は1968年とだいぶ遅いのでらち外)

多賀SAに電話。「1964年4月12日オープンです。」多賀町のHPで確認http://www.tagatown.jp/

養老SAに電話。「1964年9月4日オープンです。」養老町HPでは未確認ながらも、おそらく間違いはないだろう。

つまり、吹田SAは、日本で4番目のSAなのである!

この事実は、ウィキペディアのそれぞれの項目に記載させて頂いた。

ネットというのは怖いものである。そこに記載されている「事実」は不確定なものでも確定的な事実として一人歩きをする。今後も注意したいと思った出来事であった。

《追記》

ここまで書いて気がついた。

名神高速道路初のサービスエリアです。」という表現は、「名神高速道路に乗ってはじめて出会うSAです」という意味なのだろうか?それならあっている。(名古屋方面から来たら最後のSAだけど)

ついでに言うとNEXCO西日本も大津SAが日本最初のサービスエリアだということは認識している。

http://corp.w-nexco.co.jp/corporate/release/hq/h18/0912a/

じゃあなんで吹田SAの方はあんな勘違いをしていたのだろうか?!

よけいに分からなくなってきた。

(追記)

冒頭に引用したNEXCO西日本の吹田SAのページは「名神高速道路に乗って最初のサービスエリアです。」と訂正されています。NEXCO西日本の誠意を感じます。

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