いわゆる「リベラル」のこと

「リベラル」を名乗る政党がある。

 

「リベラル」の定義は毎日新聞によると「リベラルは英語の「自由な」に由来し、個人の自由を重んじて社会を変えていく立場で、欧米の歴史に根ざしている。」「日本のリベラルのルーツは戦後の革新勢力にある。」「今のリベラルは『革新マイナス社会主義』で人権・平和の理念を掲げている」とある。

米ソ冷戦の終焉とともに「革新」という名称が時代に合わなくなって、「リベラル」を名乗りだしたという事だ。

 

アメリカでは民主党がリベラルと言われる。そもそも建国の際に、連邦政府の権限を強化する方向性を持っていた勢力が共和党になり、州政府の権限を強くしようとした勢力が民主党になった。共和党は自由主義を標榜しているのが、民主党はオバマケアに見られるように、国民の生活をケアする方向にも動く。

 

日本の自民党にもリベラル派はいる。岸田文雄政調会長の率いる岸田派(宏池会)がそうである。小選挙区制度になって、おとなしくなったイメージがあるけども。

 

そうしたリベラル派と比べて、日本の野党のリベラル派はどうであろうか。

先の毎日新聞を引用する。

「国際医療福祉大の川上和久教授(政治心理学)は「社会民主主義を掲げる欧州のリベラル政党は福祉を重視し、大きな政府を志向する。それには税負担が欠かせない」とした上で、「日本のリベラル勢力は福祉重視を訴えても必要な負担増をこれまで国民にきちんと求めてこなかった」と指摘する。」

 

まさにその通りだと思う。主張のための主張。実現する気のない「政策」の名を借りた票集めのためのカモフラージュ。私にはそうとしか見えない。

 

多数派の与党が提案した政策の、難点を指摘するのはよい。危険性を挙げるのもよい。それが野党の役割だ。しかし、対案・修正案を提案しなければ議論にならない。共産党や社民党が、重要法案に対して自分たちの主張を少しでも反映させようと、説得力のある修正案を出したことがあっただろうか。

 

安保法制を例に取れば、自民党の案に「与党内野党」として修正をかけたのが公明党であった。さらに野党として修正を要求したのが日本維新の会であった。これも説得力のある修正であったように思う。安保法制の理解に最も役立ったのは、私にとっては維新の質疑であった。

しかし、民主党、社民党、共産党は反対!廃案!のみ。大した対案も出さずに、議決の際に国会内にプラカードまで持ち込んで大騒ぎして「強行採決」を演出したものの、結局は通してしまった。できあがったシアリオ通り。本気で廃案にできると思っている節など微塵も感じられなかった。こういうのを「少数者の横暴」という。反対の世論を掻き立てることで、次の選挙で票が多くなることが目的だったのだろう。多数者(与党)の側に、少数意見に耳を傾ける必要性があるのは当たり前としても、修正案を出さない反対にいつまでも付き合わなければならない謂れはない。

 

あんなことをしていた人たちが、希望の党で保守を名乗るという。人によっては「あの時は党の方針だったからしかたなかった」なんて言っている。面白いものだ。今度こそは本音で政治に取り組む、ということなら歓迎するが、どこまで信用すればいいのだろうか。

 

共産・社民の体質は変わらないでしょう。立憲民主党はどうだろうか。新しい政党が成立したばかりのところである。今は人気があるようだが、これまでの民主・民進党とは違うところを国民に見せないと、すぐに呆れられてしまうだろう。少~し期待している私であるが、さて、どうなるだろうか。

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希望の党について

久しぶりの書き込みである。

このところ、少しSNSに傾注したところもあり、パソコンに向かうのが億劫でなかなかブログを書く気にならなかった。これほど長く離れていたことに少し驚いている。

突然発足した「希望の党」が新しい流れを作りつつある。これについての感想を書いておきたい。

戦後、自民政権(その前身を含む)を退陣に追い込んだ例は、3回ある。

昭和47年の社会党・片山哲内閣が最初である。この内閣は日本国憲法下における最初の内閣で、選挙によって政権を得た最初の内閣なので、その後の政権とは少し事情が違うと言えるかもしれない。

二回目が、平成4年の非自民非共産連立内閣である。これが連立時代の始まりとなった。佐川急便事件、選挙制度改革の先延ばしに反発した世論の大勢に、自民党内からも造反が続き、宮沢内閣不信任決議が可決。自民から分かれた新生党新党さきがけそれまで野党であった民社党公明党社民連民改連社会党に加えて日本新党が結成され、八党連立内閣が結成され、政権を握った。党首には日本新党を結成して国政に躍り出た元熊本県知事・細川護熙を担いだ。しかし、新生党と社会党との路線対立、細川のスキャンダルと突如の政権投げだしで、社会党とさきがけが離脱。新進党の結成も及ばず、羽田孜内閣が退陣となった。

つぎが八年前の平成21年の鳩山内閣である。民主党はさきがけ系、新生党系、日本新党系、さらには社民党右派系も加わり、右から左までの選挙互助会的な政党である。「政権を取れば何でもできる」と言いたい放題のバラ色のマニフェストを発表して大勝したが、結局何もできずに野田内閣で下野した。

さて、今回の「希望の党」である。選挙互助会的な色合いはごまかせない。公約も「安保法制OK」「原発廃止」「一院制の実現」などの大枠は掲げられているものの、具体性に欠ける。しかし、これまでの勢力と違うところは、左派を意識的に排除しようとしているところである。小池代表は、平成4年日本新党での初当選である。八党連立の崩壊も見ている。小沢一郎の側近として、新進党崩壊後の自由党に参加。保守党を経て自民党へ、という経歴である。政権の崩壊、野党暮らし、連立小党の悲哀。いろいろなことを経験したようだ。
だからであろうか。大胆に見える今回の挑戦にも、過去の反省が生かされているように見える。

まだまだ不安定だがなかなか、面白い。

こういう勢力が出てこなかったから、自民党の一人一人の国会議員にゆるみがなくならないのである。相次ぐ問題発言、不倫にいそしむ議員(自民だけじゃないけど)。若手の大臣政務官に、肩書を振り回して飲み屋で女の子に声をかけまくっているやつが複数いるらしい。もう一度お灸をすえるいい機会ではないか、と私は思っている。

民進党も左派系だけで一つの政党を作ればよいのである。他人を批判することにしか存在意義を見出せない社民、共産は話にならない。民進党左派は、現実的な提案をするヨーロッパ型の社会民主政党を目指せば、存在意義は大いにある。保守派と別れることは、やむなく共産党に行かざるを得なくなっている真面目で冷静なリベラル票を集めるチャンスになるのではないか。連合も付いてこよう。(数日後に立憲民主党が結成された。我が意を得たりである)

こうなると、公明党の動きが面白い。八党連立、新進党、自自公連立、自公保連立、自公連立と、長く与党を経験し、実務家集団の色合いを日に日に濃くしている。自民も公明党を必要としている。それは都議選で証明された。「希望の党」も欲しいに違いない。参議院議員の山口代表を「総理大臣に」などという実現不可能なことを口走ったのは、自民との間を分離する目的とともに公明党懐柔の意味もあるのではないか。しかし、公明党は八党連立を組んだ時の八党で現存する唯一の政党である。あの体制の痛みを忘れていないだろう。もし「希望の党」が政権を取るようなことがあっても、すぐには公明党は動かないであろうと私は思う。

久しぶりに、今考えていることを書いてみた。それにしても面白い政局である。

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祖父の記③

 1934(昭和9・康徳元)年。2年前に建国していた満州国で溥儀が皇帝に即位して満州帝国となった。「五族共和」の「王道楽土」を理想とするこの国から日本に、木工と印刷業技術者の招聘があったのはこの年のことであった。この報に接した武司は、10月、小菅刑務所を退職し、同僚であった増田武史とともに渡満することを決意した。12月に始まった正式な招聘刑務官事業に先立って3家族が渡満したが、二人に加えて名古屋刑務所の印刷技術員であった北川又も渡満した。同じ広島出身の後輩を武司は大切にした。武司は新京<現・長春>刑務所に奉職した(のち奉天<現・瀋陽>第一監獄に転勤)。当初発令された職名は「看守長」であった。
 当時、満州国の警察制度は日本の指導下にあり、武男は新京監獄において満州ではじめての日本人作業科長となった。増田もハルピン監獄の作業科長についた。満州の監獄は、取調段階からの過剰拘禁(一坪に数人など)など、収容者は過酷な環境下に置かれていた。ある程度施設が改善されていた1942(康徳9・昭和17)年当時でさえ、「収容者の年間死亡人員は、全施設の平均収容人員に匹敵」しており「裁判でいい渡された有期刑が矯正の段階で生命刑に転化する」(ともに『追想録 動乱下の満州矯正』)状態であった。暴動も多かったようである。1937(康徳5・昭和12)年に満州を訪れた正木亮は「その工場の狭くて就業人員の多いこと、獄内の不潔なこと、わたくしはこの國にこそ監獄改良の大きなメスを入れる必要のあることを痛感したものである」と感想をのべている。監獄の改善に必要な経費もままならず、1937(康徳4・昭和12)年からは「監獄特別会計制度」が実施された。収容者の作業による収益によって監獄の経費を賄うこととなったのである。武司ら作業科の責任はいや増して重くなっていった。
 そうしたなか、なにがあったのか。増田武史が自害した。囚人の更生を目的としていたはずの作業が、いつのまにか監獄の運営費を稼ぐことが目的となり、しかも彼らの命を奪う原因となる。真面目な増田には耐えられなかったのではないかと思われる。
 1937(康徳5・昭和12)年は、蘆溝橋事件を端緒とする日中戦争が始まりあわただしい空気が満州を包み始める時期である。雑誌「作業」にはこの年4月の武司科長を中心とする新京監獄の作業会議の様子を掲載している。ここには北川又氏や石川静夫氏ら、のちに「追想録」に武司のことを書き残して下さった方々も参加されている。この年6月、三男邦士が誕生。同年武司は奉天第一監獄に転勤。一家は奉天に移った。8月には満州視察に来た正木亮と錦州で出会っている?(「志願囚」)。
 しかし予期せぬ事が起こった。武司は結核に罹患し休職を余儀なくされてしまったのである。さらに結核は妻さちにも伝染。さちは4人目の子を身ごもっており、療養を考慮して1939(昭和14)年夏に一家で日本へ帰国。同年8月長女育美を生んだ。
 武司一家が暮らしたのは郷里の広島県佐伯郡五日市町(現広島市佐伯区五日市)であった。しかし、1941(昭和16)年1月1日、さちが死去。長男・和司を下谷区在住、さちの長兄・辰三郎に、次男康史を荒川区のさちの妹に預ける一方、自身は奉天第一監獄に一時復職。家族が離れて暮らす不自由な生活が始まったが、このような変則的な生活は長くは続かなかった。武司は満州の刑務官を正式に退職した。

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祖父の記②

1916(大正3)年、地元大柿町大原の大古(おおふる)尋常高等小学校の尋常科を出た武司は、併置されていた高等科に進学。1919(大正6)年には、親元を離れて佐伯郡立工業徒弟学校(現・広島県立廿日市高等学校)に進学した。廿日市は西中国山地からの林産物の集積地として発展した町で木工の伝統があり、武司はここで指物を学んだ。指物とは、釘などの接合道具を使わずに、木と 木を組み合わせて家具・建具・調度品などを作る技術である。進学先選びには家業との関連もあったであろう。1921(大正10)年3月徒弟学校を卒業した武男は、一時、呉海軍工廠に就業。当時柿浦から海軍工廠まで渡船があり、大柿村から1000人以上が働きに行っており、武司もその一人であったと思われる。

しかし、ほどなくして東京へ上京した。何が武司を東京へ駆り立てたのであろうか。
灘尾弘吉は22才。まだ内務省には入省していなかったであろう。しかし、武司の星雲の志を刺激するのに一役買ったであろうことは想像できる。
もう一人、いつどのように出会ったのかは不明であるが、同郷の佐伯郡玖波村出身に正木亮(あきら)がいる。当時は司法省行刑局勤務で、この年司法省監獄局に入っている。上京した武司は家具屋に就職し、都会での生活が始まった。

1923(大正12)年9月1日、職場近くの食堂でカレーライスを食事中、激しい揺れが襲った。関東大震災である。武司はテーブルの下にもぐりこみ、ことなきを得た。

翌年、徴兵によって九州福岡の大刀洗飛行場で軍務についた。後に東洋一の航空基地となる大刀洗飛行場も完成して5年。航空第4大隊が置かれているだけであったが、飛行機の重要性に着目していた軍部によって翌1925(大正14)年には航空第4連隊に昇格するなど発展途上であった。武司はここで整備兵として2年間をすごし、兵長で退役した。第一次世界大戦終了後の、国際協調路線が引かれていた時代であり、大きな危機を感じることなく兵役を終えたものと考えられる。

東京に帰った武司は、1929(昭和4)年、小菅刑務所に作業技師(指物工担当)として奉職した。トルストイなどの影響を受け監獄の環境改善に取り組んだ正木亮と知己となった。正木は受刑者と起居を共にして待遇改善策を提案するなど現場からの監獄学を打ち立て、戦後は死刑廃止論の弁護士として有名となった人物である。武司は受刑者を改心させ、手に職をつけさせて社会復帰の道を歩ませることに没頭した。
1932(昭和7)年には正木家出入りの大工の棟梁・中澤英助の娘である下谷区万年町のさちと結婚。さちは、1926(大正15)年、上野高等女学校(現・上野学園)を卒業した才媛であった。二人は東京で、和司(昭和8年)、康史(昭和9年)の2男をもうけた。

1934(昭和9)年、岸野秋一という同郷人が小菅刑務所に奉職。のちに、たいへんに世話になるこの人物は、気の合う、そして頼りがいのある先輩であった。

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祖父の記①

広島県の瀬戸内海に能美島という島がある。江田島と地続きになっているといえばおおよその位置が分かる方もおられるかと思うが、その名を聞いたことのない方の方も多いのではないだろうか。能美島は佐伯郡、江田島は安芸郡と郡も違ったが、その間は浅瀬となっており干潮時には飛び石を飛ぶように行き来ができた。「飛渡瀬(ひとのせ)」という集落名はそれをあらわしているという。浅瀬が埋め立てられたのは昭和はじめのことである。

島は全土が農業地帯で、米と麦以外に菜種・実綿・煙草・砂糖などの商品作物が収益をあげていた。明治期に蜜柑が導入され一時特産物となった。5月頃には蜜柑の花が咲き薫ったことであろう。
 漁業は近海の漁場を他の地域にとられ、さほど盛んとは言えなかったが、漁師には遠く韓国沿岸にイワシ漁に出かけて利益をあげるものがいたという。
 そんな島に大きな変化が訪れたのは明治中頃のこと。1888(明治21)年東京築地にあった海軍兵学校が江田島に移転。対岸の呉鎮守府とあわせて海軍の重要拠点として位置づけられることとなり、1894(明治28)年の日清戦争の際には広島に大本営が設置され、能美島も呉要塞地帯に組み入れられたのである。1896(明治29)年には能美島に朝日紡績能美工場(のち大阪合同紡績。現在東洋紡に吸収)が設立。さらに1903(明治36)年には呉海軍工廠が完成するなど、静かな農漁村は急速に近代化の波にさらされていった。各地から働く場所を求める移住者が相次いだ。

 武司は、明治37(1904)年12月29日、文次郎・スワの長男として、その能美島、佐伯郡大柿村大原に生まれた。父・文次郎は建具屋を営んでいたが、武司の祖父、文七郎の代に広島城下の段原村から移住してきたいわば新住民であった。
 大柿村は東能美島の中~南部(現在は江田島市)。大原(おおばら)、柿浦、大君(おおきみ)、小古江(おぶれ)の4カ村が明治22年に合併してできた村で、村名は二大集落であった大原と柿浦からとったという。大原は、世界で初めて全身麻酔による乳ガン手術に成功した華岡青州の門人・山野井元恵の出身地である。また同時代人としては、のちに文部大臣や衆議院議長となる灘尾弘吉(なだおひろきち)がでている。武男の5才年上の弘吉の家は町の名士で、弘吉は「神童」と呼ばれるほど優秀で有名であった。武司は灘尾家までよく遊びにいったという。また、被差別部落の解放に生涯をささげた山本政夫は隣村の柿浦で1898年の生まれである。灘尾と山本は同郷の友人として肝胆相照らす仲であった。
 急速に世界へ門戸を開いた故郷。ここにはさまざまな情報が飛び交い、日本や世界というより大きな世界を意識する素地があったのではないかと思われる。過去の偉人、そしてのちに東京で活躍する郷土の先輩と語らいながら、武司はどのような夢をいだいたのであろうか。

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久しぶり

長く体調を壊し、ブログの更新ができませんでした。携帯モバイルで迷惑コメントを削除するのが関の山で、長い文章を打てる環境にありませんでした。

他のブログにもしばらく更新されていないものもけっこう多い。自分がこういうことを経験して、ああそういうことだったのか、と実感。ブログの継続って難しいな、と思った次第です。さらに「俺が死んだらこのブログどうなるのかな」などと馬鹿なことを考えてしまった。死ぬ前にブログを削除するなり家族に任せるなりできればいいけど、家族に黙って書いている人もいるはず。そういう人のブログは永久に残るのだろうか。何年間更新されなければ削除する、とかそういう規定は@niftyにあったっけ、などと色々考えた。

この2~3ヶ月間、世間も大きく変わった。漁船衝突事故とその後の日中関係の悪化、相変わらず進まない経済対策、どんどん進む円高、言いたいことは溜まっている。

しかし、何か書こうとするということにはエネルギーがいる。体を壊してそれを痛感している昨今です。でもいい加減な文章は書きたくない。ここに少しジレンマがある。

まあ、あせらずゆっくり、ぼちぼち再開することにします。

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暗闇に血まみれのおばさんが!

昨日のこと。せまく暗い測道で車を運転していたら、すこし向こうの路面に大きな物体がある。近づいてよく見てみると自転車で転倒したとおぼしいおばさんだった。顔面半分が血まみれで、一生懸命からだを起こそうとしておられる様子。

思わず車から降りて「どうしたん!大丈夫?」と聞いても返事がない。名前もすぐには言えず、電話番号もちょっとしてから思い出された。かなりのショックを受けられたのかな、という様子だった。「何があったんやろう」と、こちらが聞きたいことを自分でおっしゃるような状態。とりあえずご自宅に連絡し、道の脇の看板にもたれてもらい、車を脇へ寄せて救急車を呼んだ。親指と肩の骨が折れているとのこと。病院に搬送されて行かれた。

この時、後から来た若いお兄さんが止まって降りてきてくれて、適切なアドバイスをくれて本当に助かった。何台かの車が見て見ぬふりをしていくのに、ただ1人助け船を出してくれた。本当にありがたかった。

他人から客観的に見ると、私がこのおばさんを跳ねたように見えてもしかたがないところ。正直言って「関わり合いにならないほうがいい」と考えるのが普通ではないか。それでも「ほっとけない」という思いで関わってくれたのだろう。なかなかできることではない。

そこで思い出したのだが、10数年前のこと。夜中に車を走らせていると、白い服を着たおばあちゃんが飛び出してきて、本当にびっくりしたことがあった。道路脇の病院に入院していた方で、「息子夫婦が私を邪険にしてここに入院させている。連れて帰って!」と訴えられていたが、当然どうすることもできず、病院までおんぶしていった。夜勤の看護士さんが、礼を言うわけでもなく不始末を詫びるわけでもなく、「あーそうですか」みたいな感じでおばあちゃんを迎えられたことをよく覚えている

私は今回、助けてくれたお兄ちゃんに感謝してお礼を言った。今回のことは直接自分のことではないが、それでも助けてくれた方にお礼を言うのは当たり前だろう。連絡を受けて様子を駆けつけてこられたご親戚の方もお礼を言って下さった。一つの心使いに様々な心のこもった言葉が行き交うことが、この世の中のいいところではないのか。あのときの看護士さんはなぜあんなに冷たかったのか。今頃ちょっと腹が立ってきた。

我々は、警察からも事情を聞かれ、小1時間くらいでその場を去った。おにいちゃんの車はマフラーをいじっていたと見えて、ボボボボボ-!と大きな音を立てて去っていった。そのギャップが、ちょっとかっこよかったのである。

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久しぶりの日本武道館

長男が参加する日本武道館の少年剣道大会に、自家用車で行ってきた。往復とも高速深夜割引を使うために、夜中の0時~4時の間、少しでもいずれかの時間に高速道路上にいなければならないという条件をクリアするために、かなりの強行軍であった。

夜中の1時に出発。とにかく走り続けて牧ノ原SAで1時間ほど休憩。さらに足柄SAで小休止をとり、後は一路東京へ。ところがラッシュアワーに遭遇して、9時の開会式には間に合わない始末。あ~あ。

試合は団体戦。1回戦は難なく勝利。2回戦、惜しい試合展開ながらも惜敗。今一歩の力が出し切れずいわゆる「勝ちきれなかった」という状態。子ども達にはいい勉強になったと思う。

しかし、会場で思ったこと。再三主催者側が「フラッシュを使用しての写真撮影はご遠慮下さい」とアナウンスしているのに(フラッシュが目にはいると試合の妨害になる)、平気で撮影している指導者がいる。うちの妻が「アナウンスをお聞きになられましたか?」とていねいに注意しても無視(この人だけではない。会場内で結構光っていた)。「監督章のない方は観覧席にお戻り下さい」とのアナウンスも無視する人多数。プロクラムに「物を置いての席取りは禁止します」とあるのに、ほとんど完全無視少年剣道の指導者たちはいったい何を子ども達に伝えようとしているのだろう。子ども達も同じ趣旨徹底を聞いている。それを無視する身近な大人達を見て、彼らはどう思うのだろう

このままでは剣道も終わるな」と思わざるを得なかった。

帰りもさらなる強行軍。そもそも0時以降にインターを出るために、どこかで風呂に入って時間調整を、と考えていたのだが、足柄SAでは東京に近すぎる。また、コースを変えて中央道の諏訪湖SAではどうかと思ったが、距離が長くなりしんどそう。そこで発見したのが、刈谷ハイウェーオアシス。伊勢湾岸道(第二名神)のPAながら、スーパー銭湯(天然温泉かきつばたの湯)があり、産直市場やフードコート、デラックストイレ、観覧車もある。昼間ならゴーカートや遊具で子どもを遊ばせることもできる。ちょっとこれは驚いた。結局、スーパー銭湯に2時間も休憩してしまい、帰宅が遅くなったが満足だった。これも道路公団民営化の恩恵だ。

剣道への若干の落胆と、いい施設との巡り会い。複雑な気持ちの変化の一日であった。

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教師と夏休み

ずいぶん変わったものである。

20年前、土曜日半日学校があったころ、本来休みのはずの土曜日に仕事している分(約15~17日分くらい)を夏休みや冬休みなどに固め取りするように指導されていた。これと夏季特別休暇をあわせるとかなりの日数、連続した休みが取れた。これが「教師の夏休み」の正体であった。もっとも、ほぼ毎日のようにクラブはあったので、学校には行っていた。当時、クラブ特別勤務手当が半日以上1回につき600円か何かで、あまりに安いので請求する気にならなかったことを覚えている。

それが今では、夏休み中でも出勤するのが当たり前。教師の夏休みの実態は、「夏季特別休暇」による休みと年時休暇(やはり夏休みは取りやすい)になってしまった。

そのことはいい。制度の変更だからしかたがない。問題はこの制度の変更が世間に理解されていないことである。

まず、いまだに「教師は夏休みがあっていいな」という方がおられることが面倒くさいのである。いつでも家にいると思っている保護者までいる。「いえいえ仕事ですから学校にいるのが基本です」というとびっくりされたりする。一度説明したはずの人が、翌年も同じ反応をしたりすることもある。

さらに、中途半端な知識で、「教師も夏休みってなくなったのと違うの」という方がおられるのである。そういう方の中には、正式な休暇もズル休みに見えているパターンがあるらしい。

正式に休みを家にいるのに後ろめたい気持ちがするのはなぜだろう?なぜ家にいるのか説明しなければならないようなこのイヤな気分。

全国の教師の皆さん。きっと同じ気持ちの方が多いのではないでしょうか。

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飛べないカラス

学校の中庭にカラスがいる。

春先に、中庭の木に親鳥が巣を作り、いつしか3匹の雛が孵った。

ガー、ガー、とうるさいカラス。親鳥が餌を持って帰ってくるたび、それはエスカレートする。

はじめは授業の障りになる、と眉をひそめる人も多かった。中庭は生徒の団らんの場。昼休みの時間、上空の巣からの糞害もあって不評だった。

しばらくして幼鳥といってよいくらいに羽がはえそろった3匹の雛は巣から出た。彼らがレンガ敷きの中庭を我が物顔に闊歩する姿を見せ始めると、彼らはいつしか生徒の市民権を得た。カラスは警戒心の強い鳥。さすがになつきはしないが、強い警戒を示さないことは、生徒たちにとっていじらい姿に映ったようだ。

彼らもいつかは巣立つ。そのためには中庭を囲む校舎の壁を飛び越えなければならない。しばらくして一羽の姿が見えなくなった。

残りの二羽はなぜか体が小さい。中庭に降りたままの幼鳥に、親鳥はせっせと餌を運んでいた。それでもなかなか体は大きくならなかった。

生徒達は「あいつら餌の奪い合いに負けたから体が小さいんや」「はよ巣立たんと気になってしょうがない」などとうわさしあっていた。

何日かが過ぎた。

親鳥は、ある日を境に来なくなった。

この時点で二羽のカラスはまだ水平にしか飛べなかった。中庭の狭い土の部分を掘り返してみみずを食べたり、昼食後の生徒が落としていった弁当のカスを食べたりしていた。

校長先生がこっそりとパン屑をやっているのも、みんなが知っていた。

ある夜中、集中豪雨があった。

翌朝、生徒がみたのは一羽のカラスの遺骸だった。彼は疲れ朽ちたように中庭の隅に転がっていた。

一羽になったカラス。

まだ上には飛べない。

誰かが「家で飼えば?」と言った。しかし、だれも手を挙げる者はいなかった。

「中庭から出してやれば?」という者もいた。しかし、すぐにネコにやられて終わりだろう、という意見が返ってきた。

ここだから安心なのだ、しかしここだから飛べないのかも知れない。

ある日、久しぶりに親鳥を見た。親鳥は校舎の上から「ガー、ガー、」と何度か鳴き、子どもがそれに激しく応えた。親鳥はそのまま去った。

風通しも悪く、とにかく暑い中庭を唯一の世界として、彼は生きていた。

ある嵐の翌日、彼の姿が消えた。

狭い中庭のどこにも姿がない。

どこかへ飛んでいったのだろうか。それとも誰かが連れて行ったのだろうか。

誰にも分からない。

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