軽減税率に関する報道への違和感3

3回目である。二つのことに触れてみる。

○軽減税率で徴収されない税(約1兆円)の一部を使って低所得者に給付した方が効率的

いわゆる「給付付き税額控除」である。

いったん高率の税を支払う必要があることから、痛税感を和らげる効果は薄い。
所得の把捉と線引きが難しい。
不正受給の防ぎ方が難しい。

などが言われてはいるものの、一考を要する考え方である。

マイナンバーカードを使っての方法を財務省が提案したが、公明党から一蹴された経緯は記憶に新しい。

ただし、一つ疑問がある。一定以下の所得の方に給付を行うという考え方は、定額給付金などで行ってきた経緯があるが、その時マスコミはこぞって「バラマキだ」と批判したのではなかったのか?
多くのコメンテーターに言いたい。
軽減税率にケチをつけ、給付方式を主張するなら、その前にその前歴を総括するべきである。

○「どうせ選挙目当て」という批判について

コメンテーターにとって、こういっておけばとりあえず恰好がつく、という投げセリフ。何も調べなくても、考えなくても、その場限りのええかっこしいができるセリフ。
それが「どうせ選挙目当てでしょ」「あれはバラマキ」
大っ嫌いなセリフである。

国民に受けのいい政策には「選挙目当て」、国民に負担を強いる政策には「庶民の気持ちが分かってない」とりあえずこれを言っておけばニュースバラエティは形が作れるのだ。

問題は政策の中身である。「選挙目当て」という批判を怖がっていては、国民に寄り添った政策を提案できないことになるではないか。
実に愚かなセリフである。

以上3回にわたって、軽減税率に関わるマスコミ報道への違和感を述べてきた。
要は財務省とマスコミが歩調を合わせる姿に違和感を感じるのだ。普段は偉そうに政権批判をしゃべっているコメンテーターも、財務省のお墨付きをもらって安心して批判できるのだろう。
「マスコミは自分の意見を言うよりも、国民に議論の材料をすべて提供せよ。」
今回も深くそう感じる。
 

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軽減税率に関わる報道への違和感 2

前回の続きである。軽減税率に関する報道のどこに私が違和感を感じているのか。

二つ目に、軽減税率を導入する財源がない、というものである。

当たり前のことであるが、まだ消費税は10%になっていない。現在8%で運営されているのだ。軽減税率とは「消費税10%時に食料品を8%据え置く」ということであって「食料品以外の税率を10%にあげる」ということである。
つまり、新たな財源が生まれるという話であって本来財源がなくなるという話ではない。表現の仕方が明らかにオカシイ。
そもそもこんな話が出てくるということは、与党が先の衆議院選挙で公約した軽減税率の導入を無視するつもりで、財務省は予算を考えていた、ということである。国民もバカにされたものである。なのに、なんだか丸め込まれて、軽減税率に反対する人が増えているという。だまされやすいにもほどがある。

普段官僚政治を批判しているマスコミが、なぜか今回は選挙公約を実現しようとしている政党を批判している。やはり「マスコミの裏に財務省あり」と見えてしかたがない。

そもそもなぜ「消費税が足りなくなれば社会保障費を削らざるを得ない」のか。消費増税分を社会保障の充実に充てることは確認されているが、社会保障費の財源は消費税だけではない。

これは脅迫に等しい発言ではなかったのか?

なぜ「防衛費を削らざるを得ない」「公共事業費を削らざるを得ない」ではないのか?
いやなぜ「歳出全体のあり方を見直さざるを得ない」ではないのか?

財務省がそういわないのはまだ理解できるが、マスコミがそういわないのは何故なのか?

軽減税率に関わる報道への違和感

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軽減税率に関わる報道への違和感

軽減税率の導入が世間を賑わせている。

「消費税には低所得者ほど納税率が高くなる逆進性がある。せめて生きていくのに最低必要な食料品の税率を抑えることで、低額所得者の痛税感逆進性を緩和する」
私は基本的に賛成である。

いままでも、財務省が政治家に抵抗する場面になると、なにか違和感のある報道に接することがあった。
今回、政治家が政権公約を実現しようとしたら、自民党税調と財務省が待ったをかけて、それをマスコミが応援している。
違和感を感じない訳にはいかない。

まずは、「軽減税率を導入すると高額所得者のほうが減税額が大きくなる」という批判に対してである。


これは数字のマジックそのものである。ここでは「率」と「額」がすり替えられている。
そもそも、消費税は、税率が上がると低所得者層の負担税が上がる傾向がある(逆進性がある。消費税そのものに反対する人がもっとも強調する点)一方で、高額所得者層のほうがより多くの税を負担することになる、という税なのである。
 逆に言うと
「税をさげれば逆進性は緩和するが、高額を収めていた高額所得者の税がより減る」という特徴をもともと持っている税なのである。
 

 例で見てみよう。

Photo

これが逆進性の説明。低額所得者のほうが5ポイント高い税率で納税していることになる。しかし、高額納税者の方が多い額を納税している。

さて、今かりに消費税を8%に下げてみると、どうなるだろう。

Photo_2

2000万円の所得の方は20万円減額、200万円の所得の方は4万円の減額となる一方、税率ぱ4ポイント差となり逆進性は緩和されている。
これは消費税を廃止する時にも同じことが言える。共産党に「高額所得者のほうが多く減額されるから消費税廃止に反対だ」といったらどうだろうか?  それはオカシイというだろう。しかし共産党は軽減税率の導入に「高額所得者のほうが減税額が大きくなる」といっている。矛盾した話である。

さて、食料品のみ税率を8%に据え置いた場合を具体的に見てみよう。
家計に占める食料品支出の割合は、低額所得者の方が高額所得者よりも高い。総務省の2014年度家計調査によると、平均的な食料品支出割合は24.0%なので、今かりに、低額所得者の食料品支出割合を30%、高額所得者の食料品支出割合を20%としてみた。
Photo_3
一律10%の場合と比べると、
   高額所得者 4万      円の減額(0.2%の減率)
   低額所得者 1万2千円の減額(0.6%の減率)
確かに高額所得者の方が減は大きいが、減は低額所得者の方が大きい。つまり、逆進性は緩和されている。それも、食料品で緩和されている、という点が重要なのである。

軽減税率を額で論じるなら、金持ちにとっての4万円と庶民にとっての1万2千円はどちらに重みがあるか、ということを論じるべきなのである。庶民の痛税感を和らげる、というのにそういう議論がまったく抜け落ちているのはどういうことなのだろうか。

こんなに当たり前のことを、数値をすり替えて批判するテレビのコメンテーター、新聞記者には庶民感覚のかけらもないのではないだろうか。
私はこういう報道に「役人感覚」を感じるのだ。裏に財務省がいると考えているのはそういう感覚の問題でもある。

続き 軽減税率に関わる報道への違和感2

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橋下はいらない

いわゆる「大阪都構想」の是非を問う住民投票が否決の結果で終了した。
私は素直によかったと思う。
以前も少し書いたが、複数の区割り案がでていて一長一短あるから「もう少し慎重に検討したい」という声があったものを「これで行く」と押し切ったのが今回の原案。当初から多くの矛盾点が指摘されており、今回の反対派はそれを指摘するだけで反対運動になったのだ。賛成派はそうした指摘を隠し打消しながら、最終的には「大阪都体制ができなければ、大阪は終わりですよ」と感情的に訴えるしかなかった。あれが通っていたら大阪はむちゃくちゃになっていたのではないかと思う。

最近、橋下という人がどういう人なのか、ようやくわかってきた。

①戦いが好きなだけの人

おそらく彼は、心底大阪をよくしようなどと思っていない。そして大阪をよくする唯一の手段が「大阪都構想」だとも思っていなかった。もし思っていれば、あんなにサバサバ敗戦の弁を述べられるはずもない。彼の説によれば「大阪都構想が否決されれば大阪は終わり」のはず。「いやー叩き潰されました」なんて気楽に言っているのは、ゲームの勝敗程度にしか考えていなかったからだろう。政治も法律も彼にとっては自身の戦いのステージと武器でしかない。だから解釈も無茶苦茶。そして今「自公の提案ている総合区について検討したい」と言っている。街頭演説で「野党は対案も出さないんですよ」と言っていたのはうそだったのだ。そういう人なのだ。

②民主主義をまったく理解していない人

民主主義は、「選挙で多数を取ったら何をしてもよい」という制度ではない。多数決そのものは単なる手段であって民主主義そのものではないのだ。よく多くの利害関係者の意見と主義主張に耳を傾け、限られた社会資源をできるだけ多くの人に配分できるよう調整するのが民主主義。しかし、最終的には何かを決定しなければならず、それを決するのが多数決である。そこで多数を得たとしても少数意見に耳を傾けなければならない、ということは小学校でも教えている。
 「野党議員は一部の市民しか代表していない」「今、大阪に必要なのは独裁」
 まったくわかっていない。

③民間活力をとことん嫌う人

他地域と比べて大阪のすごいところの一つに、民間活力がある。自前で切り開く文化。全国、全世界に誇る素晴らしい制度が民間発で作られてきた。
 橋下はそれをつぎつぎに潰していった。例をあげよう。

○子どもの家
20数年前、市内のあちこちで、普通のおばあちゃんたちが、自分の家で、子どもたち、高齢者、障がい者、シングルマザーさんなど、居場所のない人たちを、無料で、年齢制限も時間制限もない居場所づくりを始めた。これを「子どもの家」という。
大阪市では「これは有益な取り組みだ」ということで1989年に事業化され、補助金が出たり、市が管理する施設を提供するようになった。
それを2013年、「来年の3月31日で廃止にする、大阪市の施設でやってるところは、出て行け」と橋下が言い出した。
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/2014
それを境に嫌がらせの電話や、インターネットのいやがらせの書き込みが急増。そこに通う子どもたちへ、心ない罵声を飛ばされた。かくして全廃されてしまった。

○救護施設 今池平和寮(日本ヘレン・ケラー財団)
平成2年に高齢単身の生活困難の人々が利用する救護施設としてスタートしたこの施設。大阪市が「
それはいい仕組みです」と、市立今池生活館の跡地施設を提供することで現地にできた。25年間で100人を超える自立支援者を生み出した。ところが2013年、大阪市は急に来年の3月31日ででていけ、といいだした。理由は耐震問題。それなら代替施設を提供するのが筋道を通す態度のはず。しかし、一切なし。ついに平成27年3月、閉所となった。

http://www.helenkeller.jp/publics/index/208/&anchor_link=page208#page208

○大阪人権博物館 リバティ大阪
西浜の地域の人たちの土地提供によって設立されたリバティ大阪。まず橋下は展示内容にいちゃもんをつけた。「部落差別の内容が多すぎる」と。博物館側はさまざまな人権問題を広く扱う展示変更を実施したが、2013年大阪府市は補助金1億2千万円を廃止。さらに大阪市は土地の賃借料年2700万円を要求してきました。もう驚くしかない。
http://www.liberty.or.jp/member/

○大阪府立国際児童文学館
児童文学者鳥越信氏の膨大なコレクションを、滋賀県とのし烈な誘致合戦を勝ち抜いてもらい受け、1984年に大阪府が設立した、世界に誇る文学館。以後、年間2万点の児童書が無償で提供され、研究もすすんでいた。2008年、橋下はこれを突然中央図書館に移設するといいだし実施した。鳥越氏をはじめとする寄贈者から蔵書・資料の返還請求があったが無視。

④効率だけが基準の文化否定の人

「文化」というものは人の心を潤すもの。それだけで存在価値がある、と私は思っている。「市場の失敗」という言葉があるが、市場が非効率で手が出せない分野を担うのが行政の意義の一つであることを思えば、文化への投資は間違いなく行政の仕事である。
文楽、大阪センチュリー交響楽団への補助金打ち切り。大阪市音楽団の廃止と楽団員の解雇。彼は文化をも効率という尺度でしか測れない。


彼が本当にやめるのかどうか知らない。

ベーコンは物事の正確な把握を邪魔する偏見をイドラと呼んだ。四つのイドラのうち「劇場のイドラ」というのがある。「思想家たちの舞台の上のドラマに眩惑され、事実を見誤ってしまうこと」つまり政治家やコメンテーター、思想家などの発言を無批判に受け入れること、である。劇場では、観客が演技者の演技を楽しむ。演劇で表現されているものが事実でないことは、だれもが知っている。その上でいい意味で騙されに行くのが劇場である。

「橋下劇場」という言葉があるが、それは橋下氏のことというよりは橋下氏のことを「面白い」「次は何をするのか」と眺めている市民の側の状態を言い表した言葉ではないだろうか。
劇場のイドラを払拭し、真実を見つめねばなるまい。

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橋下は何を考えているのか。

橋下氏が市長をやめた。よくやめる人である。元弁護士で元知事で元市長である。

大阪都構想が頓挫したからだと言っている。

大阪市の区割りに四案あったものを一つに絞ってこのタイミングで住民投票にかけたかったのに、「慎重審議を」「集中審議してもよいから早急に決めるのはよくない」と言われたことが不満らしい。

だったらまだ「頓挫した」わけではない。なぜやめるのか分からない。

ただどうやら、彼が何かに焦っていることだけは、間違いないらしい。

私は、橋下氏には不信感を持ち続けてきた。

世話になった人を裏切る人

万能感にとらわれて現場を見なくても自分の感性で判断できると思い込んでいる人

マスコミを批判しながらもマスコミをうまく利用する人

思ったことを簡単にしゃべる口が軽い人

そういう風に感じてきた。私の彼に対する見方はどんどん増幅されていく。

この「あの人を信じると裏切られるよ」という感覚。

相変わらずマスコミをうまく使っている。

いつまでこの茶番劇は続くのだろうか。

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靖国への疑問

今年も終戦(敗戦)の日が過ぎ去った。毎年この日に、戦没者の無念に思いを馳せ、「二度と戦争を起こしてはならない」と決意・確認することは、この国にとって本当に大切なことであると思う。

さて靖国である。

はじめに、
中国・韓国などの外国が日本の国内の宗教事情に首を突っ込んでくることには私は否定的である。「うるさい」「他国のことに口を挟むな」と言っておく。「政府が宗教を優遇したり弾圧したりしない」という政教分離原則は、国によって形は違うが近代民主国家が獲得した原理である。他国の宗教事情について口を突っ込むのは政教分離原則に反する可能性がある。政府レベルで抗議されても日本国政府が靖国という宗教法人のあり方を変えることは政教分離原則にしたがえばできるはずもない。靖国のあり方は宗教レベルの議論でしか変えられないものなのである。閣僚であれ政治家であれ、個人の信条で参拝することを強制的に止めさせることなどできるはずがない。それを政府レベルで「するな」というのは、近代民主国家の否定である。もちろん、公人として公費を支出しての「公式参拝」は違憲であるが、それも外国から指摘される筋合いのものではない。

ただし、中国・韓国が言うのは問題ない。議論もしたらいい。しかし、ことは靖国神社という日本の宗教法人の問題である。靖国問題は本来、靖国などというばかげた宗教団体を信じて参拝する愚かな政治指導者の「個人的な資質」の問題である。ところがこいつらは、中国・韓国などから批判があるたびに「内政干渉だ」と「政治問題」にすりかえようとする。日本の中で日本人が「靖国をどう評価するか」という議論を進めることが優先されるべきで、外からやいやい言われると、冷静でなくなる人がでてきて「内政干渉」だと勘違いする人もでてくる。自重してもらいたいものだ。

さて、ここからは「宗教法人 靖国神社」に対する私の思いである。

私は前安倍政権が誕生したときに「靖国神社に戦争責任がある」という趣旨の記事を書いた。その思いは今も変わっていない。
「日本人なら靖国に詣って当たり前」と言う政治家がいる。大きなお世話である。

1.私には靖国神社に英霊が眠っているとは思えない。
そこにはどのような哲学・死生観があるのだろうか。どういう理屈でそうなるのだろうか。
戦没者を祀るために作った神社だから戦没者が眠っているのは当たり前、とは私には思えない。いかなる信用があってそんなことが信じられるのだろうか。
公が作った作り物の神社になど魂が帰ってくるはずがない。日本の伝統でもなんでもない。日本各地に自然に成立した伝統的な神社を、国家権力によって統合再編成して(潰すものは潰して)ヒエラルヒーに押し込んむことで、むしろ日本の伝統を壊したのが国家神道ではなかったのか。その象徴が靖国神社ではないのか。靖国を認めることは、長年培われてきた日本の文化を国家主導で再編し、国民精神を集めようとした明治新政府の行為を認めることになる。
レイテ島で亡くなった私の祖父はそんな出来合いの靖国になどいない。もし、魂というものがあるのなら、遺骨が埋まっている現地に留まっているか、帰りたくって仕方がなかった祖母と母の元に帰ってきたかであろう。

2.靖国は戦争遂行装置である。
「靖国で会おう」この言葉が、どれだけ多くの若者が無策無謀な作戦を受け入れる動機になったのか。靖国はいわば戦争遂行装置だったのである。この国の軍隊ほど兵隊の命を軽く扱った軍隊は近代には存在しないのではないだろうか。「死して虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓の一節に象徴されている。「捕虜にならずに死ね」「死んだら靖国で神になる」この思想がいったいどれだけの生きることのできる命を散らすことになったのか。先の大戦の日本人兵士の半分以上が餓死であったことと考え合わせれば、私は怒りを禁じえないのである。
ちなみに、アメリカのアーリントン墓地などと靖国はまったく違う。アーリントン墓地に眠る兵士たちは母国を守る「神」などではない。アメリカの兵士は「アーリントン墓地で会おう」などと言って玉砕しない。
靖国は無策無能な戦争指導者が無謀な作戦における死を納得させる手段。兵士を玉砕させる言い訳。悲劇を美談に摩り替えるフィルター。つまり戦争の道具。

3.靖国参拝は日本人として当たり前などとのたまう政治家らがいるが、自分の宗教的信念を国民に押し付けていることが分かっているのだろうか。
靖国を否定する人を「日本人じゃない」「売国奴」とまで悪し様に批判する連中がいるが、いったい何様だと思っているのだろうか。議論はいい。信教の自由には布教の自由も含まれているのだから。靖国神社の信者を増やす為に論陣を張るのは信者ならば当然であろう。しかし靖国を嫌いな人、評価できない人に対して、日本人じゃないとまで悪し様にいう政治家の存在はいかがなものか。靖国を強力にすすめる人たちの言動に他の宗教団体にはない独善性・強迫性を感じるのは私だけであろうか。
4.現憲法下に存在する宗教法人靖国神社は自らの戦争責任をどう総括するのだろうか。
国民みなが祈りを捧げたのに一国を敗戦の憂き目に遭わせた宗教的責任。靖国は無力な宗教だということを証明しているのではないか。
○敗戦が決定的だったのにも関わらず、無能・無策な戦争指導者が、無謀な精神論だけで立案した計画で多くの若者の命を散らせた。「靖国で会おう」という誰でも知っている言葉が示すように、そうした無策無謀な作戦の実行に靖国は利用された。その責任を認めるのかどうか。
国内で無策無謀な作戦を立案した張本人たち(その象徴がA級戦犯。彼ら一人一人に対する評価はいろいろあるが、少なくとも戦没者ではない)を合祀した責任。靖国は戦場でなくなった方々を祀るために作られたのではないのか。なぜ、彼らを特別に合祀したのか。そのために、天皇陛下と多くの国民が参拝できなくなった。その責任はどのように誰に取るのか。

4.戦没者名簿を厚生省から得ていた過去のシステムは政教分離違反だったのではないのか。そのことの総括を靖国は行ったのか。

これは、先の大戦を日本人としてどのように総括するか、ということとも関連する問題ではあるが、私の思いの中心はむしろ靖国の宗教としての価値について、である。靖国には参拝に値する宗教的価値などない、と私は思っているのである。

戦争でなくなった方々を国として悼む場所として靖国がふさわしいとは私にはまったく思えない。

ちなみに私は私の宗教的信念に従って、戦没者を毎年供養している。そこに国家が介在する余地などない。なぜ靖国を信仰する人は、政治家に参拝して欲しいのだろうか。政治家が参拝することを目的としている宗教法人は他にないのではないか。靖国という宗教は国家に依存し自立できない弱い国民性を表してもいる。

やはり私には靖国など必要ない。
追記:次の「アゴラ」掲載の主張は、私の考えにほぼ一致している。感性の似通った人と出会うことは、本当にうれしいことだ。

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私が共産党を嫌うわけ

参議院選挙が終わった。
選挙期間中ははっきり書けなかったが、私は共産党が嫌いである。
共産党員の中に庶民に光を当てる為に一生懸命頑張っている人がいることは理解している。しかし、共産が党としてやることには不信感を持っている。
今回は、その理由を書きたい。
(以前も何回も書いたことがあるような気がするが、共産党勢力が伸びた腹いせみたいなものだと思っていただいて結構です)

一つ 共産党は重要法案には反対しかしない。共産党は政権をとる気がないので、とにかく政策のマイナス点をあげて反対する。反対に共感してくれる票を集めて一定の議員数が確保できれば、「運動の成果があった」と満足する政党なのである。
以前ある中核市の共産党議員団のホームページに「要求マップ」というのがあった。「実績マップ」ではない。「要求マップ」である。市民の要求は受けるが実現する気がないのが共産党である。ところがそのマップに「実現しました」というマークもあった。そこを見てビックリ。「○○に反対します」「△△に反対します」と書いてあった。「反対だけが実績です」という共産党批判のキャッチフレーズを聞いたことがあるが、まさにその通りで納得してしまった(現在このマップは削除されている)。

二つ 近所に尊敬すべき市議会議員さんがいる。その方は長年の議員生活の中で「福祉巡回バスの実現」をライフワークにしておられ、4期目にやっと実現できそうなところまで持っていけ、市議会でも行政担当者から前向きな答弁を引き出した矢先、共産党が「福祉巡回バスの実現を」という署名をかき集め、提出した。そして次の選挙でビラに「福祉巡回バスを実現しました」と書いたのである。共産党は実現を横取りする政党だと知った。

三つ 共産党系の人が関わる市民運動には、「主役のすり替え」「テーマのすり替え」をしているものがある。
有名な「豊郷小学校校舎保存運動」(建築家ボーリズが設計した校舎を解体新築しようとする町側に対して、由緒ある格式高い校舎を残して使用するべき、とする卒業生を中心?とする人々の反対運動)には、そもそも大きな違和感があった。校舎で教育を受けるのは子どもたちである。子どもたちにどのような校舎で教育を受けさせるのか、を考える主役は、子どもたちの親と教師、教育行政である。子どもと親の思いを組んで最も教育を行うにふさわしい校舎を作る責任が教育行政にはある。その幾多の主役たちを無視して、卒業生がノスタルジーを持ち込んでマスコミが煽っている。私にはあの運動はそのように見えた。さらに耐震、バリアフリー、最新の情報教育等への対応が可能なのか、等いくつも疑問があった。
そこで、私は運動の責任者にその旨指摘した上で、「現代のボリーズになって子どもたちに素晴らしい校舎を作って後世に残せばいい」と提案した(丁寧な文面にしたつもり)ら、意外な答が返ってきた。「それでは町長の思う壺だ」と。そう。彼らは町長の不正?を暴くために戦場として学校を選んだのだ。そして子どもたちを巻き込のだ。と許せない気持ちになったものである。

今、校舎は保存されたが校舎としては利用されていない。彼らの主張は「校舎として使え」だったはずである。しかし今「運動の結果保存できてよかったね」という本が出ている。全く理解できない。

四つ 教育の世界に政治を持ち込むからである。私の初任校は共産系組合(高教組)が強かった。私も積極的ではなかったが組合に加入していた。ある時、国旗国歌を卒業式でどう扱うか、が議論になった。私は当時、旧日本政府の行為によって不本意にも日本に住まざるを得なくなった人たちの子孫である在日の生徒たちの感情に配慮するべきだ、という意見を持っていたので、斉唱・掲揚反対の立場で議論に臨んだ。急先鋒だったといってよい。組合系の教師は最初威勢がよかった。しかし、最終的に「国歌斉唱」を式次第に載せないこと、国旗を小さなものにすること、で妥協した(本部?に「一定の成果があった」と報告さえした)。私は怒った。それでは子どものためとはいえない。これは教育ではない。単なる政治だ。怒る私を組合はなだめられなかった。私は組合を辞めた。
(念のため。今は組合から脱出したためか、ぜんぜん違う考え方をもっています。)

以上、四つの体験を述べた。今回の参議院選挙でもこの共産党の本質は、今も変わっていないと感じた。彼らの思惑通りに反対した人の票が共産党に集まったのは本当に残念でならない。

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参議院選挙2013

参議院選挙が公示された。自民圧勝の情勢が伝えられている。
公立の教師という仕事はこういう時つまらないものだなと、いつも思う。というのも選挙活動に参加することはできないからだ。今回はネット選挙活動が解禁になった初めての国政選挙だが、やはり公務員はそれもゆるされないのかな、と思うと、facebookに書き込まれた政治向きの書き込みに「いいね」するのも若干の躊躇があったりする。

選挙で投票先を選ぶのには、政党の政策で選ぶのとその人の人柄で選ぶのとがある(もっともかなり多くの方が『風』お雰囲気で選んでいるようだが)。選ぶ動機はどちらでもいいが、私が気にしているのは「ネットで得られる情報は圧倒的に今の情報ではないのか」ということである。政党のホームページや候補のホームページには、確かに今の主張が書かれている。しかし、過去にさかのぼってその政党と候補の主張や言動を知らなければ、その政党や候補がどのような体質を持っているのか、は分からない。

日本共産党がその昔、資本主義国の政府が福祉を政治に取りいれるのはおかしい、それは社会主義・共産主義国家になってからするべきだ、と主張していた過去があることは意外と知られていない。生活の党やみどりの風の主張が、以前民主党が主張し実現できなかったことがベースになっていることに、どれだけの人が気がついているだろうか。昔主張していたことと真逆なことを主張している候補もままいる。

日本人は歴史健忘症だと言われている。かつては汚職をしたやつでも「禊」の期間をすぎれば当選したものである。この国の国民はそういうことに実に甘いのである。

人間だから考え方が変わることは当然ある。しかし時流に乗って政党を渡り歩き、そのたびに主義主張がコロコロ変わる人だけは、絶対に当選させてはならない、と私は強く言いたい。でもそれが見極めにくいネット環境になってはいないか。

facebookやline、twitterなどは、横の広がりには強いが、縦(時間軸)の広がりにはどうも弱いようだ。友達から「今」の情報は洪水のように流れてくるが、それだけで判断するのは危険である。地道に、市井に分け入り、岩を砕くような思いで政策を主張し、実現してきた人を見つけるのが困難で、派手な聞き心地のよい主張が受け入れられる。変節漢を見つけるのも難しい。落選運動も可能だというネット選挙運動である。せっかく誰でも情報を発信できるのだから、そういう確実な情報を発信する人が多くなることが、必要であろう。

残念ながら教師の身ではできないのが悔しい限りである。

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政治家の選び方

明日、衆議院議員選挙が公示される。

多党乱立でわけがわからない選挙だ。
ただ、私はこれまで投票行動の結果を後悔したことはない。
今回その選び方を記しておきたい。
選挙直前に離党して他党に行った候補を信用しないことである。これまでにもそういうことは山ほどあった。
所属している党を裏切る人には「裏切った」という感覚がない。必ず「自分は変わっていない、党が変わったのだ」という。選挙直前に党が変わるわけがない。なぜもっと前から離党しなかったのか。
自分中心の発想しか持てない人なのである。そういう人はいずれ、国民をも裏切るものだ。
ただし、「自分が間違っていた」と出直す人は一考に価する。ただその場合、一回は間を空
けてもらいたいものである。
基本的に金に汚いうわさのある候補を信用しないことである。もちろん冤罪の可能性はあるが、情報をしっかり咀嚼してだまされないようにするべきである。
元職については、国会と委員会で質問をしていない候補は信用しないことである。国会の議事録は次のアドレスで閲覧できる。
http://kokkai.ndl.go.jp/cgi-bin/KENSAKU/swk_srch.cgi?SESSION=27940&MODE=1
このページの発言者名に、自分の選挙区の候補者名を入れて、検索すれば簡単に分かる。
本会議でも委員会でも発言しない議員が働いているといえるか。「ほかにも仕事はある」と言った御仁がいたが、演説を聴いていてもまったく信用できない人物であった。
ただし、政務次官等の役付きになると発言の機会がなくなるのも事実である。その場合は演説会等で働き振りを聞くしかない。
働かない候補は当選させてはならないのである。
話し合いのできない政党を信用しないことである。民主党政権が「決められない政治」だったのは、参議院が不当に権力を持っているという制度的欠陥だけでなく、政権与党内で政策が決められないことが最大の原因だった。その意味では離党覚悟で小沢氏を乗り越えた野田首相を私は若干買っている。
政治主張が違うものがくっついた政党を信用しないことである。
何も決められない。選挙が終わったら必ず足を引っ張り合って瓦解する。
そもそも各議員は違う人間なのでまったく同じ政治主張を持っているはずがない。それが最低限の政策が一致することを前提に政党を作るのである。だから伝統的な政党には話し合いのルールと伝統がある。新しい政党はルールと伝統がない分、政治主張を最大限一致させることが必要なのである。
「大同小異」というが、何が大同で何が小異なのかという判断さえ個々で違う。
非自民連立政権とここまでの民主党がいい例である。
員のいない、党員を獲得しようとしない政党を信用しないことである。支援者の声を聞く気がない政党は、簡単に説を曲げるからである。
反対ばかり、国民に耳障りのいいことばかりを言っている候補・政党を信用しないことである。100%いい政策などこの世に存在するわけがない。
そんなやつらは結局何もできない。
あとは残ったなかから、自分の思いにより近い候補・政党に一票を投じるのである。③でも紹介した検索システムで、発言を見れば思想性は分かるはずである。
私は、政党の体質や候補の人格は政策よりも優先すべきではないか、とさえ思っている。なぜかならいい政治家は国民の意見にも耳を傾けるし、自身の主張が間違っていれば反省し軌道修正するものだからである。
前の記事にも関連するが、いい政治家は平時でもメール等に誠実に返事を書くものである。
棄権はいけない!誰に入れたらいいか判らなければ、「よりまし」な候補に入れるか「棄権」と書いて投票しよう!投票総数に対して有効投票数が少ないということは、抗議の意思表明だ。
「国民の義務」だととらえて、投票に行こう!

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ある評論家

2週間ほど前、テレビを見ていたら、寺島実郎氏が発言していた。

「日本は政治でメシを食っている人が多すぎるんですよ。」
そうそう、だからこそ「政治家」と「政治屋」を見分けてちゃんと投票しなきゃいけないんだよな、と納得しかけた私の耳に、思いがけない言葉が入ってきた。
「国民一人当たりにすると日本の国会議員はアメリカの三倍いるんです」
だから国会議員を減らすべきだ、といいたいらしい。
これはおかしい。
日本の衆議院議員数480人と参議院議員数242人をあわせると、722人である。これを日本の人口1億2千8百万人で割ると、0.00,000,564である。
アメリカの上院議員数100人と下院議員数435人をあわせると、535人である。これをアメリカの人口3億1千万人で割ると、0.00,000,173である。
だから日本の方が3.26倍多い、といいたいらしい。
しかし、多くの人が知っているように、アメリカは合衆国つまり連邦国家である。50の州=国が集まって連邦政府を形成しているのである。アメリカの本体はまずは州であり、州には憲法もあり、州政府もあり、上院と下院をそなえた州議会もある。制度は各州で異なる。外交などの主権にかかわる問題は連邦議会にゆだねるが、国民生活に密着した政治課題は州議会が担当する。
アメリカの州議会議員数は知らないが、ニューハンプシャー州は下院だけで400人。単純に50州を掛けるとそれだけで2万人になり、アメリカは日本をはるかに越える。日本とアメリカを単純比較してはいけないのである。
基礎になる数字の捕らえ方が間違っているだけでなく、政治家全員を指して「政治でメシを食っている人が多すぎる」と言うのは真面目に活動している政治家も一緒くたにした表現で、総選挙前の大切な時期に影響力のある評論家の言う言葉ではあるまい。
政治嫌いを増やすだけで何の意味もない。
私は看過できず、ご本人にファックスを出した。もちろん実名と返信先を明記し、職業も明かした。言葉も極力丁寧に上記の趣旨を礼を失しないように書いたつもりだ。
しかし残念ながら、2週間たった現在、まだ返事はない。
この程度のものか。
以前、ある評論家が「学校が週休2日になって喜んでいるのは学校の先生だけですよ」と言った。
私は、3年間で12時間が削られた分の行事が無くなるなど学校現場は逆に余裕がなくなったこと、部活動の遠征が増え保護者と顧問の経済負担が増えていること、などを挙げて喜んでいる教師はごく一部であることをメールで指摘した。調べもないで雰囲気だけで発言するのはいかがなものか、と。
件の評論家はすぐに返信をよこし、謝罪し、つぎの番組で訂正してくれた。
ずいぶんと違うものである。
寺島氏が私の中で評価を下げたことはいうまでもない。

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