教員免許更新制に意味なし

教員免許更新制が廃止の方向だ。歓迎したい。歓迎したいが賛成するだけで批判されるような雰囲気があることは確かだ。

実際にバカな情けない教師がいることは認める。しかし、そういう教師を排除するためにすべての教師の免許を更新制にした。そこにそもそもの無理がある。無理はどこにあるのか具体的に述べよう。

①そもそもどのような研修をすればいいのか全く検討されていないという現実

今回更新研修を受けられた先生方にうかがったが、内容は全く意味なし。大学の先生が講師をするのだが、大学の先生も何をどうすれば必要な研修になるのか全く分かっていないご様子だったとか。そもそも研修の定員が大学で決まっていて、国公立ほど早く埋まってしまい、有名でない私学は「必ず免許更新しますから受講して下さい」などと宣伝していたらしい。大学の金儲けのための研修なのかと思ったらしい。現場を知らない机上の空論を貴重な時間と金を使って聞くことに何の意味があるか」とのこと。

そう、更新制の受け皿となる大学側の体制は全く整っていないのだ。

②そもそも研修は行われている。

これまでにも各都道府県の教育委員会は、10年目や20年目などの節目に研修を受ける機会を作ってきた。講義形式もあればボランティアもあれば職場体験もあれば授業研修もある。教師にどのような研修が必要か、ということを一番知っているのは都道府県教育委員会ではないかと思う。

更新制にするから免許を発行する大学に行かなければならない。今までの研修制でなぜいけないのか、私には分からない。

③講師をどうするのか

高校の時間割は、転勤が決まって人員が決まった段階で決まる。そこで始めて講師の先生に何人何時間来ていただけばよいかが決まる。年度当初に急に電話をしてお願いするのが毎年のこと。「これからも講師を続ける」と決めて下さっている方は免許を更新されるからいい。しかし実際には講師になる予定のない方に無理矢理お願いしないといけない場面も多いのである。その際に「免許を更新していないから」と断られる場面が増えていくのは目に見えている。

このまま続ければ絶対に混乱する。間違いない。

④そもそも更新研修でおかしな教師はいなくなるのか。

講義を受ければいなくなるのか。木登りをすればいなくなるのか。いなくなる訳がない。こんなものは、文部科学省が世間の批判をかわすために作った言い訳の制度でしかない。

⑤まじめな教師ほど忙しい。真面目な教師から貴重な時間を奪う制度には絶対に反対だ。

私は免許更新制よりも、今の研修制度をより充実させるほうが現実的かつ効果的であると思う。そのためには、現場から離れて、最新の教育理論や実践を聞く時間を、職場体験をする時間を、確保する必要がある。その態勢を整えることをしないで、とりあえず教師自らが免許を更新するという「金のかからない」方法で誤魔化そうとしたとしか私には思えない。

こんなもの早く無くして、もっと有意義な制度を考えてもらいたい。

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教師と夏休み

ずいぶん変わったものである。

20年前、土曜日半日学校があったころ、本来休みのはずの土曜日に仕事している分(約15~17日分くらい)を夏休みや冬休みなどに固め取りするように指導されていた。これと夏季特別休暇をあわせるとかなりの日数、連続した休みが取れた。これが「教師の夏休み」の正体であった。もっとも、ほぼ毎日のようにクラブはあったので、学校には行っていた。当時、クラブ特別勤務手当が半日以上1回につき600円か何かで、あまりに安いので請求する気にならなかったことを覚えている。

それが今では、夏休み中でも出勤するのが当たり前。教師の夏休みの実態は、「夏季特別休暇」による休みと年時休暇(やはり夏休みは取りやすい)になってしまった。

そのことはいい。制度の変更だからしかたがない。問題はこの制度の変更が世間に理解されていないことである。

まず、いまだに「教師は夏休みがあっていいな」という方がおられることが面倒くさいのである。いつでも家にいると思っている保護者までいる。「いえいえ仕事ですから学校にいるのが基本です」というとびっくりされたりする。一度説明したはずの人が、翌年も同じ反応をしたりすることもある。

さらに、中途半端な知識で、「教師も夏休みってなくなったのと違うの」という方がおられるのである。そういう方の中には、正式な休暇もズル休みに見えているパターンがあるらしい。

正式に休みを家にいるのに後ろめたい気持ちがするのはなぜだろう?なぜ家にいるのか説明しなければならないようなこのイヤな気分。

全国の教師の皆さん。きっと同じ気持ちの方が多いのではないでしょうか。

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授業料未納者に卒業証書授与するの?

今日(2009年2月27日)、島根県の県立8高校が、「授業料を滞納している生徒には卒業証書を渡さない」と各家庭に通告していたことが報道された。

最初は、「それだけ景気が悪くなった」という報道かと思っていたら、「卒業証書を渡さないなんてけしからん」という報道らしい信じられない!

確かめたわけではないが、全国ほぼすべての高校の学則は、授業料滞納者は卒業させないことになっていると思う。私の過去3校の赴任高はすべてそうだった。私の中ではそんなことは当たり前である。

経済的にしんどい家庭には授業料減免の制度もある。奨学金もある。たいていの学校は、家計の困難な生徒はアルバイトも手続きをすれば認められる。そうした条件の中でどうして授業料の支払いができないのかわからない。

なによりも、それを「弱者の立場」を装って甘やかそうとする報道の姿勢がゆるせない。現在の制度でもどうしても払えない事情がある人がいるなら、その人をフォローする制度がないことを批判し、問題提起すればよい。あれこれ理由にもならない理由をあげて給食費すら払わない保護者がいる時代である。

卒業証書を授与しないことを批判するのはおかしい!

この報道が、ますます無責任で自分勝手な人たちをのさばらせる結果にならないか、本当に心配である。

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ケイタイと学校 2

私の現在の赴任校は県内上位に位置すると巷間言われている進学校である(正直そんなに優秀だとは思わないが)。生徒は傲慢だが理解力が高く、情に薄いがある程度自律している。そういう学校はだいたい生徒の自由度が高い。教師が管理しなくても生徒が自分で自己管理するからである。

そうした背景から、本校では携帯電話の持ち込みは自由である。ところが今年4月以降、授業中に携帯電話が鳴ることがあまりに多いということで指導を入れようということになった。結果なんと、すべて集約すると現在までの指導件数は80件もあった。

原因は

①業者からのメールがきた(定期購読のメールを含む)が最多。マナーモードは解除していた。

②アラームの設定を間違えた。または電源を切っていたのにアラームが鳴った。

③他人から電話がかかった。メールが来た。

④自分で使った。

の順で多かった。

実は、本校で「指導する」と宣言してから、生徒はかなり気を使ってきた。しかしそれでも授業中に携帯は鳴るのである。①と②は生徒の責任もあるがケイタイ自体の問題でもある。機種によっては電源を切ってもアラームが鳴る設定になっているのだが、全く理解に苦しむ。業者は顧客の置かれている状況をいちいち考えているような暇はないのでいつでもメールを送る。それならケイタイの基本設定はマナーモードにして販売するべきだし、音が鳴るのはしばらくすれば解除されるくらいの設定でいいのではないか。携帯電話を販売する業者は自分たちが販売している品物が社会に迷惑になっているという意識が低いのではないか!

実際、センター試験の受験会場でアラームがなり、しかもスヌーズ設定だったので最悪の事態となった例が本校でもあったのである。原爆を開発したのは悪ではなく、使ったやつが悪だ、という論法もあろうが、アインシュタインのように開発した者の自己責任を意識するのが現代の潮流ではないのか。(2chにも聞かせたい)

ケイタイは世間に迷惑を振りまいた!携帯各社はこれを事実として受け止めなくてはなるまい。

今のご時世、子どもに携帯GPS、家庭と連絡の取れる携帯電話、携帯メール機能、携帯警報ベルは必要だと思う。しかし、携帯パソコンに近い現在のケイタイの機能すべては必要あるまい。コミュニケーションの欠如、イジメの温床、マナーの欠如につながり、社会問題化していることを携帯各社はもっと強く自覚するべきである。

生徒達だけではない!大人も携帯をコントロールできていない現状にしばしばうんざりする。卒業式の心を込めた呼名の時に鳴り響く携帯の音に、何度腹が立ったか。コンサートの静寂のなか携帯が鳴り、あまつさえ「はい、もしもし」と出てしまう大人もいた。

もはやユーザーの能力の問題ではない。

携帯電話自体が使いこなすことのできない化け物となっている。

私はそう考えている。

そうした視点から、子どもに禁止するのは賛成である。でも今さにら禁止できるかどうか、というと、不安である。

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子ども達のイモ畑 なんだか臭うぞ

子ども達のイモ畑を行政代執行で摂取され、2週間後に予定されていた行事が踏みにじられた、という事件が報道された。

なにか変である。

行政代執行が行われるのはよっぽどのことである。この土地が自動車専用道路の建設予定地になったのはだいぶ以前のことのはずだ。行政代執行の連絡があったのは最近だと言うが、立ち退きの話はもっと前から切実なものだったはずだ

何故今年もそこにイモを植えたのか?本当に子ども達のことを考えるのなら、私なら子ども達が傷つく可能性のある、そんなところにイモを植えたりしない。

大人の「戦い」に子どもを巻き込んだのではないのか?

接収作業の最中にメガホンをもって「そこだけは掘らないで」と叫んでいる人がいた。

何故メガホンを持っているのか?

子ども達が泣き叫ぶシーンが写っていた。

何故子ども達を連れてきたのか?子どもが傷つくではないか!

豊郷小学校問題の時と同じ空気を感じる。あのときは、本当の主役であるはずのこどもたちと教師を押しのけた「住民」たちが「由緒ある校舎を使え」といいだし、町長が校舎をつぶしにかかったその場所に子ども達を連れてきた。騒ぐだけ騒いで子どもを泣かして、今では校舎の保存で満足しているらしい。私は運動の指導者に「旧校舎は残して新しい子ども達のために本当に役に立つ校舎を造ればいい」と提言したが、「それは町長に荷担する理論」と一蹴された。あれはどこにいったのか?本当の目的は何だったのか?

マスコミもこんなことで騒がぬがいい。誰かさんに利用されてるぞ!

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教員採用試験の不正に思う

大分県で、県教委の絡む賄賂疑惑で逮捕者がでた。なさけない限りである。

教員採用試験に不当な操作が加えられているのでは?といううわさは以前からあった。ただし点数化が難しい2次試験でのうわさである。1次のペーパー試験ではさすがにあり得ないと思っていたが、大分県はやっていたのだ。ちょっと驚く。これでは人間関係を持たない、特に県外からの受験者は著しく不利になることは言うまでもない(私は県外者だった。勤務県がまじめに採用をしていたことがわかる)。逮捕者だけが関係者ではないだろう。このシステムを悪用していた連中は、とことん摘発して欲しいものだ。

さてこの一件でいろいろなことが取りざたされている。

まずは、「教育委員会制度を見直せ」という声である。基本的に見直しには賛成。以前にも書いたように、現在の学校教育課は、本当に教育を何とかしようというものになっていないので、教員の不信感が大きすぎる。戦前・戦中に行われていた上からの軍国主義教育を反省し、国から独立して民主教育を行うために教育委員会ができたと聞いているが、教育委員の公選もなくなった今、形骸化した「保護者の要求を現場につなぐ組織」になっていないか。さらには地域によっては「国からも行政からも独立した伏魔殿のような組織」とまで言われるようになっているという。開かれた委員会を目指してほしいものである。

このことについて、いつものように素人コメンテーターは無責任にうるさくさえずっている。「教育委員会なんか廃止して文科省直轄にすれば」とか、「一から作り直したら」とか好きなことを言っている。しかし、現実も歴史・経緯もふまえずにいうものだから、いい加減なことおびただしい。現場を知らない文科省の役人なんかに支配されてたまるものか!奴らのせいで、どれだけ現場が振り回されてきたか。ただ、市民の声に耳を傾けるのと同時に、今よりも現場の教師の言うことに耳を傾ける体制を取ってくれさえすればいい。それだけ。

さらに、「教員採用試験のあり方はこれでいいのか」ということが議論されている。これは難しい問題をはらんでいる。例によって素人コメンテーター達は、「点数を取った優秀な人が落とされて、ズルをした人が現在教師をやっているのはおかしい」などと言っている。一見その通りに聞こえる。点数を取った人から合格するのが現在の採用試験の原則だと言うことはいうまでもないが、しかし点数を取ったからといって優秀だとは限らない。現実に役に立たない新人にも何人かお目にかかってきた。そこで現場の講師のなかからいい人を学校長が推薦したらいいのでは」という意見が説得力を持つように思える。一定そういう制度も導入すべきかとも思うが、買収先が教育委員会から校長に代わる可能性もある。

中国は歴史上、様々な官吏任用の制度を経験している。校長の推薦は「郷挙里選」(地方豪族から推薦させる)だろうか。現在の制度は「科挙」に近い。身分に関係なく試験で点を取れば任用される。それはいい面もあるのである。

本当に力ある教師を任用することはどうすればできるのか。私は今の制度の問題点に改善を加えるだけでいいと思う。むしろ教師をどう育てるか、に力点を置いたほうがいい。

今回の一件は、けしからんことは間違いない。しかし、今の教育行政の現実に目を向け、改善のための機会になれば言うことはない。

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ケイタイと学校

必ず毎日どこかの教室でケイタイが授業中に鳴っている。

ほとんどが「うっかり」していて電源を切り忘れ、業者やサイトからのメールの着信音が鳴るというパターンだ。時には自宅からのメール、友人からのメールの場合もある。

その都度授業は中断する。

ケイタイを持ち込み禁止にするのではなく、マナーを指導すべきだ」という方々の主張をいれた結果こうなっている。でもまあそれは別にいい。それも一つの考え方だ。

ケイタイの問題は、子ども達だけの問題ではない。ピアノのコンサートの静寂の中でケイタイを鳴らした奥様もいた。子どもの幼稚園の卒園式で呼名の際に思いっきりケイタイを鳴らし、なんとばかでかい声で「モシモシ」と出たおじいさんもいた。ケイタイの波はすべての世代に同時に押し寄せたのだから、すべての人が同時にケイタイへの対応をする必要があるのにその体制になっていないのだ。今日本人はケイタイを使いこなせてはいない。そう、ケイタイに振り回されているのだ。

授業中に鳴らして叱られているのはほとんどがまじめな生徒。それを見ていると問題は「マナーを守れない個人」ではなく「ケイタイとそれを取り巻く環境」ではないか思うようになった。

ケイタイ関連業者は、ケイタイの機能を見直せ!ユーザーがうっかりしていても周囲に迷惑がかからないように、なんとかしろ!

それができなければ、本校はケイタイ持ち込み禁止になるかも知れない。

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「韓国修学旅行で土下座って本当?」その後

以前に「韓国修学旅行で土下座って本当?」という文章を書いた。その後もかなり手を加えて、現在は当初の形とはだいぶん変わったが、基本は

①広島県の世羅高校の韓国修学旅行での謝罪行事を報じた韓国日報の記事を紹介した1999年(平成11年)3月6日付の産経新聞記事には、元従軍慰安婦の方に土下座したなどという事は記事にも写真にも載っていない。

②2004年2月20日未明に2chの「【もうね】カンコク大嫌い【うんざり】」というスレの514、516、518、519番の書き込みは、いろいろなところでコピペされ、あたかも初出のように扱われるが、上記産経記事とは全くの別物であるだけでなく、書き込み自体の内容が不自然で信用できない。

③上の二つが同じ出来事としてネット上で扱われ、「世羅高校は韓国で土下座させられた」と喧伝されているが、この二つ以外にソースを明かせないのなら、これは間違いであるというしかない。また、これ以外に「土下座させられた」という記事は見つからないので、韓国に修学旅行に行って土下座させられたという学校は存在しないのではないか。

ということを論評したものである。少し長文になりすぎたきらいはあるものの、その都度思索をしながら書いた自信作である。

残念なのはこの文章に対するコメントがほとんどないことである。

末尾に

「よって過激に結論。韓国の修学旅行で土下座させられた学校は存在しない!
事実が確認できれば、内容の修正にやぶさかではありません。お知らせ下さい。」

とまで書いたにも関わらず、どこからもでてこないのである。やはり、土下座した学校など存在しないのか、それとも自分の意見に反する文章など読まない人が多いのか、のどちらかであろう。

それにしても、もっとネットウヨの方々から強い反発があるかも知れない、と覚悟していたので、拍子抜けの感がしないではない。

もっとも他のサイトやYahoo知恵袋などで、たびたび私の文章が引用されたりしていて、それに対する反応はまま見られるので、これに対して少し私の考えを述べたいと思う。

本文のコメント欄に直接あった反論はただ一つ。

通りすがり(2人目)さんの

「韓国修学旅行で土下座って本当?」に触れなかったのは、その価値がないと思ったからです。信憑性がないから「土下座は完全にウソ」って。総連の情報は鵜呑みにするのに…。」

というもの。他の知恵袋などの反応もこの方の域を出ない。

曰く、世羅高校の生徒に直接土下座しなかったのかどうか聞いたのか?」

曰く、メールの投稿者に直接ウソメールだということを確認したのか?」

ちなみに私はネット上の世羅高卒業生を名乗る書き込みは紹介しましたが、どうせ信じないでしょう。この言葉はそのままそっくりお返ししたい。

「世羅高校の生徒に直接土下座したかどうか聞いたのか?」

「メールの投稿者に直接本当のメールかどうか確認したのか?」

人や他国を貶める文章を公表するからには、情報が真実であることを証明する必要がある。でなければ名誉毀損。逆にいいかげんな情報に反論するには、その情報に信憑性がないことを証明するだけで充分なのだ。そうでなければ、自分で作った作り話をあたかも真実であるかのようにネット上に流すことが可能になる。ネット上では同じ情報が何度も様々な場所に顔を出すと、真実であるかのように受け取られる傾向があるからだ。

(もっとも、人を誉めたり称えたりする情報にはこのような面倒な手続きは必要ないと私は考えます。)

ネットにガサネタを流す人には「ノーリスクで人を貶めることの快感」があると思う。人の不幸の上に自分の幸福を築こう」という情けない風潮はなんとかならないものか。

ネットという便利なツールを汚すも生かすも人次第。残念ながら、汚す人が多いようで困る。

<追記>

2008.5.31に「無名氏」さんからたいへん有意義なコメントを頂戴した。下のコメント欄にもあるように、1999.3.10産経新聞に、生徒が読み上げた宣言文の全文が掲載されているということなので、探してみました。記事(大阪版)は以下の通りです。

「韓国修学旅行世羅高宣言文 「真実忘れない」 独立記念館の展示に驚き」
1999.03.10 大阪朝刊 1頁 総合1面 
 国旗掲揚、国歌斉唱問題を苦に校長が自殺した広島県立世羅高校が韓国へ“謝罪修学旅行”を行っていた問題で、産経新聞は九日、同校の生徒会がソウル市内の公園で読み上げた「宣言文」(韓国日報の報道では「謝罪文」)を入手した。
 旅行中に訪れた独立記念館での印象に触れ、「展示の数々が目に焼きついて離れない。日本がかつてこの国で何をしたのか、知ったつもりでいた自分に気付きなさけなくなった」「今、自分の目で見た真実を忘れない」などと書いている。
 独立記念館はソウル南方にあり、日本の朝鮮統治時代に日本の官憲が韓国の独立運動家を拷問する残酷な場面をロウ人形で再現した「拷問コーナー」などが設けられている。
 宣言文は昨年十月十六日、タップコル公園で開かれた生徒会主催の「平和集会」の中で読まれた。生徒たちが公園の三・一独立運動記念塔前で、ひざを折り、頭を垂れ、独立運動の犠牲者への黙とうなどを行っている写真や記事が今月五日付韓国日報に掲載され、日本に衝撃を与えた。
 ◆宣言文全文
 「遠い昔から現代まで多くの人々が行き来した玄界灘。
 それは古代から日本に文化を伝え続けた海峡であり、韓国と日本の歴史的に不幸な事実や在日韓国人が受けている不当な差別的現実を生んだ海峡でもある。私たちは昨日その海峡を渡った。
 韓国、こんなに近くにある国なのに、私たちは今まで自分たちから求めてこの国のことを知ろうとしただろうか。教科書や歴史の授業の中で自分から日本とこの国の歴史の真実を学ぼうとしただろうか。
 今、私たちは、日本と異なる文字ハングルや風物の違いを目のあたりにし、「異なるものの存在は当たり前のことである」ということを改めて心の中にきざみ込んでいる。そしてさっき訪れた独立記念館の展示の数々が目に焼きついて離れない。日本がかつてこの国で何をしたのか、知ったつもりでいた自分に気付きなさけなくなった。私たちはこの独立記念館がこの国の人々の「過去を忘れず再びこのようなことのないように子孫に真実を伝えたい」という思いで建立されたのだということをしっかりと受けとめたいと思う。私たちも今、自分の目で見た真実を忘れない。キョレーの家で私たちを迎えてくれた「不屈の韓国人像」の「不屈の魂の叫び」を私たちひとりひとりの心の中にきざみ込みたい。私たちは今、この地に自らの足で立ち、自らの目や耳や心、全身全霊で受けとめられるもののすべてをしっかり自分のものにしたいと思う。この旅は私たちにとって「どの様に生きるか、どの様に生きなければならないか」ということを自らに問うものだと思う。自らの偏狭な価値観で異なるものに優劣のレッテルをはることなく異なるものは異なるものとして受け入れられる真の国際人となる第一歩としたい。
 この地で学ぶ日本とこの国の過去の不幸な歴史的事実を教訓とし21世紀を創る世代の人間のひとりとしてせいいっぱい平和と友好の心を育み続けたいと思う。
 今ここに集う者全ての思いを込め
 平和な未来を求め Lets be ambitious!!」

まずこの産経記事には、「謝罪だと結論づけている」ところはありません。

その上で宣言文をどう見るかは人それぞれでしょう。

宣言文はまず前半で、日本統治下において朝鮮半島の人々が受けてきた仕打ちの展示を見た、驚きの心情と知らなかったことが情けないといった思いが素直に表現していますが、この文章の主題は後半にあり、そのような事態になった原因を、民族に優劣をつけようとする偏狭な価値観に求め、異なるものに優劣のレッテルをはることなく異なるものは異なるものとして受け入れられる真の国際人として過去の不幸な歴史を忘れず、乗り越えてせいいっぱい平和と友好の心を育み続けたい決意が述べられています。

同じ日の産経新聞の東京版には、この宣言文を紹介した上で、

「日本の朝鮮統治を一方的に悪とみる残酷な展示に生徒たちが影響を受けことさらに卑屈になっている心情がうかがわれる。」

としていますが、どこをどう読めばそうなるのか私には分かりません。文章の全体を見ず、前半の一部を切り離して読めばそう見たい人にはそう見えるのでしょうか。半島で日本が行ったことがどのようなものであるかを検証することは確かに必要なことかも知れませんが、かれらはそれを超えていこうとしている。いったい宣言文のような「真の国際人」としての決意を批判する必要がどこにあるのでしょうか。どうしても「韓国人が日本を残虐・残忍な民族であるというレッテルを貼ってバカにしている。けしからん」といいたい人は、宣言文のいう「偏狭な価値観」のレベルから一歩も出ていないと思います。

さてその上でたとえこの宣言文を謝罪文である、としたとしても、はっきり言えることは「土下座はしていない」ということです。産経新聞は「ひざを折り、頭を垂れ」という不自然な表現にとどまり土下座とは表現できていません(したかったのかも知れませんが)。土下座したという情報がなかったからこういう表現しかできなかったのだろうと、推察するものです。

いったい産経新聞はこの報道で何を読者に伝えたかったのだろう。いっそう分からなくなってきました。

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生徒に媚びを売る教師もいる。(野党根性について)

職員会議で議論をする。議論の結果が出れば全員で心を合わせて取り組む。どんなに会議で反対意見があっても取り組みは全員でしなければ、教育効果は薄い。ところが特に生徒指導的な事例の時に、自分だけ生徒に対して「自分は今回の措置に反対だ」とか生徒に媚びを売る教師がかつていた。自分だけ安全なところにいて泥を他人にかぶせようというのである。

最低である。

今の後期高齢者医療制度も同じではないか。一度は政治的に決着したこと。ならば国民に向かって全員で説明する義務があるのではないのか。与党だけではない。野党にもその責任はある。

制度が成立し、開始されてからゴチャゴチャ文句を言うのは、生徒に媚びを売る教師といっしょだ!マスコミよ!君たちにも説明責任があったはずだ!

国民に媚びを売るな!全員で説明せよ!高齢者医療に今後一層お金がかかることは分かる。どこからそのお金を持ってくるのか、が議論のはず。この制度ではダメだ」だけでは説明になっていない。

「今まで日本を支えて下さったお年寄りからお金を取るのはけしからん」その通り。「解決していない年金から天引きするのはゆるせない」いちいちその通り。物知り顔な野党議員や素人コメンテーターに言われなくてもそんなことは誰にでも分かっている。しかし今の日本は、そんな悲しい措置をしなければ成り立たないくらい難しいところにいるのではないのか。少なくとも私はそう理解していた。そうでないというならどうすればいいかを説明せよ!

野党とマスコミよ。国民に媚びを売るな!国民に対する説明責任を果たせ!それが君たちの仕事だ。

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進学実績だけが魅力なのか?

「昔は」などというと年寄りの戯言のように思われるのでいやだが、現在の問題点を考えるときどうしてもそういわざるを得ない時があるので、あえて言う。

昔は各高校の魅力は進学実績だけではなかった。クラブが盛んな学校、自主活動が盛んな学校、就職指導に熱心な学校、地域に開いた学校、様々な学校があった。しかしいつからか進学実績があがっていることが魅力ある学校の最低条件のようになった。

県教委が「各学校の特色を出す」ということを言い出してから、特色がなくなってきたように感じるのは私だけだろうか。片やそういいながら、「県民の要請が大きい」という理由で進学実績のあがっているいわゆる進学校の定員を増やし、困難校の定員を減らしてきたのは他ならぬ県教委である。1学年のクラス数が減れば生徒数が減る。生徒数が減れば集める生徒会費が減る。クラブ予算も行事費も削減される。困難校にはリーダーシップをとれる生徒も少ない。そんな状態でどうやって学校の特色を出せというのだろうか。勉強もクラブも進学校にかなわないのである。学園祭なども規模も取り組みのレベルも違う。

実業高校は生徒もそれなりの覚悟を持っているのでまだいい。普通科の困難校には、働く覚悟もなく、勉強もクラブも自主活動も何もできない生徒が多いのである。彼らの中には「自分たちは腐ったリンゴのようにこの学校の押し込められている」というような被害者意識も存在する。

ある教師が言った。「社会階層はいい意味でも悪い意味でも、三角形の形のはず。少ない優秀な人間がリードして、多数のそうでない人間は社会の底辺を支えてきた。今の学校は逆三角形。いつか倒れるぞ」すごい着眼点だと思った。

本当に特色ある学校を作ろうと思うなら、困難校のクラス数を増やし進学校のクラス数を減らせ!優秀な生徒が少しでも困難校に入れば、いろんな事ができるようになる。

保護者の要求を呑むばかりが教育ではあるまい。本当に全体の教育のことを考えるのなら、保護者の意に反することも必要ならばするべきである。

もっともっと、進学実績以外の魅力を認めよう!

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埼玉県の校長が教え子に…

前の「第二名神を~」の記事のコメントで、以下のような文章をいただいた。

「突然のメール失礼致します。
教職のお立場におられるという事で、先生に、今回埼玉県で起きた、県立高校校長による女性(もと教え子)脅迫ならびに逮捕の一件について、どのようなご意見ご感想をお持ちでしょうか?是非ともブログ上にてご発言をお願い申し上げます。
宜しくお願い申します。」(原文ママ)

せっかくのご要請なので少し申し上げてみたいと思う。

まず私は、今回の事件そのものについては情報が少なくってコメントの仕方が難しいと感じている。その上で間違いなく言えることは、「事実ならば」情けない事だということ。たとえどんな事情があろうが許されるはずがない、ということ。これだけは間違いない。要は人間が出来ていないのだ。

教え子に手を出す教師の存在は、私の生徒時代にも他校の例として聞いたことがある。その時代にはあまり問題にならなかったように思う。教師が特別な存在だったのかも知れない。教員になってからも卒業生から、「教育実習に行った先の先生から、一人くらい自分のものにして帰れ。うちの教師はみんな経験者だ、と言われた」と、ウソか本当か知らないが聞いたことがある。私の周囲には、卒業生と出会いなおして結婚した教員は何人かいるが、在校生と出来てしまった教師はほとんど知らない(ほとんどというのが微妙な表現でしょ。うわさ話を聞いた、というのがあるのです)。

ただ、不祥事は現実としてある。県教委の方からその実情を伺ったことがある。

その趣旨は、

①教師になるまで特別な存在でなかったのに、教師になれば特別な目で見られる。そのことで自意識過剰になる人がいる。

②特にいわゆる「まじめ」で通してきた人は「女性慣れ」していないから、舞い上がってしまって抑えが効かなくなることがある。

③きっかけとしては、女子生徒の方からアプローチをかけることが多い。ただしそれはちょっとした遊び心や純な憧れから来たもので、深入りすることを想像していない。なのに相手教師が本気にしてしまい深みにはまる、というパターンが多い。

④生徒は友人に相談するので、必ず明るみに出る。

⑤生徒が教師を「はめる=だます」ということも若干だがある。

というものだった。

教師はそういう現実を知った上で、我が身を振り返り自分自身を律する必要がある。

ましてや管理職(校長・教頭)はそれを指導する側のはずである。なのに自らを律することができなかったということが今回の事件だとすると、本当に情けない。教師が奉られていた古い時代が続いていると勘違いしたのだろうか、相手の女性の感情を読みとることが出来なかったのだろうか。

いずれにしても目が曇っている、としかいいようがない。

こんな事例をすべての教師に当てはめて欲しくはないのであるが、管理職がやったということで、世間で一般化されることが怖い。それが一番の思いである。

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都教委の新基準に覚悟はあるのか?

東京都教育委員会が、教師の生徒個人情報の扱いの新基準の作成をするそうだ。

 児童や生徒のテスト結果など個人情報を教員が学校外に持ち出し、紛失するケースが相次いでいることから、東京都教育委員会が個人情報の扱いを詳細に定めた独自のガイドラインづくりに乗り出したことが25日、分かった。新たな管理基準は、教員に個人情報を含むメールの送信を禁じるほか、学校外で児童・生徒の情報を話題にした会話も禁止するなど厳格化した点が特徴という。違反した場合、厳しく処分する方針で検討している。

 都内の公立学校で今年4~10月、児童・生徒や卒業生の個人情報を紛失するミスが5件も発生。いずれも個人情報が入ったメモリーやパソコンを入れたかばんを電車内や飲食店などに置き忘れる不注意が原因だった。

 都教委は、これまで断続的に注意喚起や再発防止を指示してきたが、ミスが絶えない原因を「個人情報保護に対する教員の意識が必ずしも高くない」と分析し、個人情報管理の厳格化が必要と判断した。

 新たな管理基準には、

(1)個人情報の入った電子メールの送信禁止(2)個人情報を記録したメモリーや書類は必ず鍵のかかる引き出しなどに保管(3)私物パソコンの学内使用禁止(4)個人情報が記された書類の裏面をメモ用紙に使用しない-などを盛り込んだ。また、学外で児童・生徒の個人情報を含む会話も慎むように求める。

 緊急時の保護者の連絡網など、校長の許可で持ち出せる個人情報の種類まで定めるとしており、「個人情報の取り扱いをここまで詳細に定めた基準は全国でも例がない」(教育関係者)という。

 都教委は管理基準作成のため、教員の個人情報管理の実態を把握する調査を開始。19日には全教員に個人情報管理について23項目の「自己点検票」を配布し意識レベルを細かくチェックする。

 都の公立学校の教諭が個人情報を紛失したケースとしては、都立拝島高校の男性教諭(54)が10月下旬、定期試験の結果や調査書など生徒ら1087人分の個人情報を保存したUSBメモリー4本が入ったバッグを、JR中央線武蔵境駅の公衆電話に置き忘れたほか、4月に都立広尾高校の男性教諭(40)が調査書など生徒ら2757人分の個人情報が入ったメモリーを無断で持ち出し、電車内で紛失したものなどがある。

(産経ニュース 07.11.25)

「個人情報の入った電子メールの送信禁止」とは、どこまでを個人情報とするつもりなのだろうか?クラブの大会試合結果はどうだろうか?試合・シンポジウム等の参加申込みはどうだろうか?電子メールの否定は時代の逆行である。メール使用の際のガイドラインを作ることこそが時代の流れではないだろうか。

「私物パソコンの学内使用禁止」とは聞こえがいい。しかし裏返せば、これまで学校で教師の私物パソコンが使われてきた現実を暴露している。教師が私物パソコンを使わなければ仕事にならないというのが現実なのである。はたして都教委は教師分だけのパソコンを用意する覚悟があるのだろうか?予算はどこから持ってくるのだろうか。

学外で児童・生徒の個人情報を含む会話も慎む」というのは、校内ですべての仕事をせよ、ということであろう。都教委はその時間学校に拘束される教師の残業をどう処理するつもりなのだろうか?また、教師にすべての矛盾を押しつけるというであろうか。

生徒の個人情報を保護しなければならないのは当然である。なさけない事故の事例も報告されているのは事実であろう。しかし、何が問題なのか現場と問題意識を共有する努力を教育委員会はしていない。事故が起こるとアリバイ作りの「通達」を発するだけだ。教育委員会は世間受けばかり考え教師と共に取り組もうという発想に欠ける」というのが私の持論である。何か新しい事を起こすと現場でどのようなことが起こるのか、は現場の教師にしか分からない。教師に問題提起し、教師とともに考えてもらいたいものだ(教師の現場が意外と保守的であることはその通りだが、心ある人も多いのである)。

無理だと思うけど。

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企業での「研修」について

最近ブログが書けていなかったのには理由がある。メッチャクチャしんどかったのである。

実は現在、ある民間企業へ「研修」へ行っているのである。「教師は非常識だから民間企業の体験をしてこい」というような、分かったような分からないような理由で設定された派遣研修に、半ば強制的に参加させられているのである。「マンネリ化した教師生活だ。気分転換にはなるかな」くらいの軽い気持ちで返事した私がバカだった。学校現場に無理をお願いし、生徒にも負担をかけてまでやる価値があるのだろうか。しかも、長い教師生活の末に多くの初めての体験をするのは、やはり精神的にも肉体的にもしんどいのである。

この経験は何に生きるのだろうか?一人の人間として新たな経験をすることが悪いことであるはずがない。しかし、企業で経験したことが学校現場で生きなければ、何の意味もないことは明らかである。

企業で働きながら(働くマネごとをしながら)日に日に思うこと。その第一は、「もっと教育技術をアップさせる研修を受けさせろ」である。日々教員としての技量アップを図っていることが前提で、その上で「企業も覗いてこい」ならまだ分かる。しかし県内の研修でもその時間を作ることは大変なことなのである。一日二日なら授業の時間をやりくりして無理矢理参加しても、長期となるとそうはいかない。企業研修なら臨時講師もつけられるのに絶対につかない。しかも予算逼迫の現今、特に県外への研修などには絶対に旅費は出ない。参加料など絶対に出ない。どんなに先進的な内容であっても、「自費で行くならいい」との返事である。

第二に、この研修は国民・県民受けのための研修ではないのか、ということである。教員のための研修であるとはどうも思えないのである。転職を奨められているのかとさえ感じることがある。さきにも触れたが国民の中に「教師は世間知らずだ」という決めつけがあって、それに対応してますよ、というポーズのための研修ではないのだろうか。

第三に、ここからは学んだこと。「企業で通用する人材を育てる」ことよりも「社会に変革をもたらす力をつけて企業へ送り出す」ことのほうが大切だ」ということである。第四に、「したいことを探す」「夢を実現する」力よりも、「目の前の困難を乗り越える」力のほうが必要とされている、ということである。それほどに企業社会は矛盾だらけである。残念ながら「夢」などというきれい事だけで渡っていける社会ではない。

きびしいようだが、学校時代に苦労を避けた人、我慢をできなかった人、つまり、学校でつけられる力さえもつけないで苦労を避けて通った人は通用しない、そんな風に感じる。

力のない人には「夢」は実現できない。うっかりすると本当の自分の価値も発見できないから本当の夢さえ発見できなかったりするのである。だから大切なことは「目の前の課題から逃げないで立ち向かう」こと。他人の力を借りてもいい。乗り越えようと努力すること。乗り越えられなくてもいい。少なくともそこで力はつく。

断言する。自分の子どもの前に壁が立ちはだかると、すぐに学校や他人のせいにしてどこかしかに抗議してくる最近のモンスターペアレント達(甘やかし親)からは絶対にいい人材は育たない。そうやって育った子は世間で通用しない。このことは以前から考えてきたことだが、そのことの再確認はできた。

ということは、私にとっての企業研修には意味があったということか。

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中学の地理をなんとかしてくれ!

高校のカリキュラムの世界史必修が維持の方向で検討されているらしい。

日本史を必修に、とか未履修問題の総括を、とか意見があったらしいが、結局は中学で日本史と地理を重視して高校で世界史を重視する流れをつくるということで合意がすすんでいるらしい。

現場がわかっとらん!

今の中学の地理がどれだけ悲惨な現状か、審議会の皆さんは分かっていないのだろう。世界の国など全く頭に入っていない。香港がハワイの位置にあると思っていたり、アメリカがヨーロッパにあると思っている生徒は、進学校でもざらにいるのである。

これでどうやって世界史をやれというのか!ばかもの!

教育を語る者は現場に来い!事件は文科省の部屋でおこってはいない!

いつでも現状を見せてやるから来い!

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おお!クレーマーよ!

先日の放課後のこと、校長室の前を通ると中年とおぼしき男性の怒鳴り声が聞こえた。

「ははぁん、クレーマーが来たな」と中で対応しているであろう管理職に同情しながらも、私の担当する生徒指導に回ってくることを半ば覚悟しながら、そのときはその場を立ち去ったのであった。

しかし、いくら待っても回ってこない。「うちの管理職もたいしたものだ」と感心しつつ、教頭に顛末を聞いてみたのである。

要は、うちの生徒が夜中まで楽器の練習をしているのがうるさい、学校の教育方針を教えろ。学校が悪いから近所まで迷惑しているのだ、責任をどう考えているのか、ということだったらしい。

名前も名乗らず当該生徒の名前も「個人情報だから」と言わないクレーマーに対して教頭は、家庭に帰れば家庭の責任です、とか名前も教えてくれなければ対処のしようがない、とか対応していたそうである。

そこへ入ってきた学校長。「名前も名乗らない方の無責任な情報につきあう必要はないと考えている。」と一喝。びびらした後で、とにかく当該生徒の名前を言って欲しい、と促すと、出てきた名前はなんと本校生徒ではなかったのである!

クレーマーがほうほうの体で帰っていったことは言うまでもない。

かつての赴任校で7月に行われた地区別懇談会で、「なんで退学する生徒がこんなに多いのか!」と保護者に詰め寄られたことがある。しかし、その年の退学者が0であることをお伝えすると素直に謝罪されたことを思い出した。

クレーマーの皆さん!クレームをお寄せになる際にはよく調査をして、学校に寄せるべきクレームなのかどうかも含めてよく検討してからお寄せ下さい。そうしないと恥をかきますよ。

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「合格実績水増し」そこまでするか?

私学の中に、大学合格者の水増しをしていたところがあることが報道された。

「大阪市住吉区の私立大阪学芸高校が、成績優秀な1人の男子生徒に志望と関係のない大学の学部・学科を大量に受験させ合格実績を粉飾していたことが20日、明らかになった。同校は、この生徒に関西有名4私大の延べ73学部・学科をセンター試験の結果を利用して受験するよう依頼。すべて合格した生徒の成果を実績に加算し「関関同立144名合格」と学校案内などでアピールしていた。受験料も丸抱えしていたという。 合格実績躍進の裏にはからくりがあった。関西の高校で進学実績の一つの基準となるのが関大と関学大、同大、立命大のいわゆる「関関同立」の合格者数。大阪学芸高はホームページなどで「2006年度は関関同立144名合格」とうたっていた。 近藤永校長が「(合格実績の)水増しと言われても仕方がない…」と話す“粉飾”は、1人の成績優秀な男子生徒をピックアップし行われた。センター試験だけで合否が決まる制度を利用し「関関同立」の73学部・学科の受験を、この生徒に依頼。生徒は見事すべてに合格した。ところが同校は1人が稼ぎ出した73の合格を「合格者73人」とカウント。つまり「144名」という合格者の約半数は、たった1人の実績だったことになる。実際の合格者は33人のみだった。」報知新聞7/21

「私立の神戸龍谷高校(神戸市)と神戸常盤女子高校(同)、兵庫県播磨高校(姫路市)が、特定の生徒の大学入試受験料を負担して、有名私大を受験させていたことが二十三日、分かった。これまでに県内の私学二校が、同様の方法を採っていたことが判明している。 神戸龍谷高校によると、大学入試センター試験の結果だけで合否判定する私大の入試制度を利用し、二〇〇三年から五年で計五十三人の生徒が三百学部・学科に出願し、百八十学部・学科で合格した。学校側は受験料計五百六十八万六千円を負担した。」神戸新聞7/24

とんでもない話である。弁解を聞いてみると、

「受験意欲の喚起と指導の情報収集のためで、合格者数を稼ぐ目的ではない。今後も続ける」「進学のノウハウが乏しく、独自のデータを集めるため協力を求めた」

だそうである。こういうのを世間では「開き直り」という。情報収集やデーター集積のための合格なら合格実績に入れなければよい。入れた時点で「合格者数を稼ぐ目的」だといわれてもしかたがなかろう。

なによりも問題は、片棒をかつがされた生徒がいることである。この生徒はすべての事実を知っているわけだ。最も信用したい帰る場所であるべき母校の暗い部分を見せつけられたわけだ。そのことを考えると気分が暗くなる。

そういう感性がないものは教育者失格だと声を大にしていいたい。

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河合隼雄先生のご冥福をお祈り致します。

河合隼雄先生がお亡くなりになった。

「臨床心理学の第一人者として心の問題に取り組む一方、教育や宗教など幅広い分野で業績を残した元文化庁長官で京大名誉教授の河合隼雄(かわい・はやお)さんが19日、奈良県天理市内の病院で死去した。79歳だった。

 河合元長官は奈良市内の自宅で脳こうそくの発作を起こし、昨年8月に緊急入院して手術を受けていた。

 兵庫県出身。京大大学院と米カリフォルニア大で心理学を学んだ後、スイス・チューリヒのユング研究所で心理療法家の資格を得て1965年に帰国、ユングの心理学を日本に初めて紹介したほか、箱庭療法を実践、普及させた。

 75年に京大教授となり、心の病を抱えた患者の治療に現場で取り組む一方で、文学、宗教、科学、教育などの分野で積極的に発言した。国際日本文化研究センター所長、文部科学省顧問なども歴任。2000年に文化功労者に選ばれた。」YOMIURI ONLINEより

あまり知られていないが、河合先生は元数学の高校教師(天理高校)である。元文化庁長官などという仰々しい肩書きよりも、心理学を学問の分野から臨床さらには家庭や教育の現場に役立つものとして定着させた功績はあまりにも大きい。先生は長官になられてからも患者を担当し診ておられたと聞いている。

河合先生の本は本当に読みやすい。分かりやすい。門外漢でも難なく読むことができ、読めば自然に自分を見直す機会を与えられるのである。

先生、本当にありがとうございました。

これからも先生の遺された本を読み続けます。

心からご冥福をお祈り致します。

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高校に社会科を復活しませんか?

産経新聞に、「センター試験 「地歴」と「公民」統合 22年度にも 」という記事が載った。ああ、やっとそういう話が出てきたか、というのが正直な感想である。

1994年(平成6年)から学年進行で導入された高校の社会科分割は、中曽根内閣の教育課程審議会で審議され、1989年(平成元年)告示されたものである。小学校1,2年で社会と理科がなくなって生活科になったのと同時だったので、とかくリベラルで教育現場のオピニオンリーダー的な存在である社会科の教員組織を標的にした措置だ、という意見もあった。

導入当時、教育課程審議会委員の木村尚三郎が「人文科学=地歴、社会科学=公民と区別するべきだ」と主張したと聞いていた。しかし、現場は分かっていた。そんなことできるわけがない。授業を担当する教員をどうやって分けるのか。内容も相互に関連することが多いのである。まったく、学者風情が現場を知らずに原則論だけで行う主張にはろくなものがない。今後、地歴だけの免許や公民だけの免許の教員が現場で採用されたらどうするのか。現場は相変わらず「社会科」として授業を分担しているから、そんな教員は使えないことおびただしいのである。

そして今回の「統合」報道である。しかし今回はセンター試験だけの統合のようだ。私は断言する。分割してよかったことなんか一つもない。早く社会科復活してくれ!

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モンスターペアレント2

「モンスターペアレント」の項目をWikipediaに立ちあげたら、一瞬にして他の方々に書き換えられて原文はほとんど残っていない。Wikipediaのすごさを思い知らされた次第です。しかも内容が知らなかったことだらけ。学問的な深まりもあり、感心することしきりです。

さてその記事の「外部リンク」に多くの新聞社の記事へのリンクが紹介されていた。読んでみると各社それぞれモンスターの行状を浮き彫りにしているので、ここにまとめてみるのもいいかなと思いました。

読売新聞 2007/6/18

*「自宅で掃除をさせていないから、学校でもさせないでほしい」と要求。

*「(子供同士で小さなトラブルになった)相手の子を転校させるか、登校させないようにしてほしい」と要求

*勉強の進み具合が遅れている中学生に小学生の問題を解かせたところ、「子供が精神的に傷ついた」と抗議。

*子供がお年寄りに自転車で接触事故を起こしたら、親が「学校の指導が悪い」と主張。

*大学進学に関係ない教科を受けないでよいようにして欲しい、と要求。

*ピアノの技能はうちの子が一番なのに、合唱の伴奏が別の子なのはおかしい、とクレーム。

*担任や校長の自宅に深夜電話し、長時間に渡って不満をいう。

*暴力団との関係をほのめかして要求を通そうとする。

*教師を中傷するメールを学校関係者に送りつける。

*気に入らない教師の悪口を子ども達に触れ回る。

読売新聞 2007/6/26

*市教委に対し、「自分の子どもを手厚く指導するために専用の教員をつけろ」と要求。

*市教委に対し「我が子を学校代表にして地域行事に参加させろ」と要求。

中日新聞 2007/7/1,7/2

*子どもどうしのトラブルをまとめるのに子どもが納得しかかっているのに、同席の親が納得せず激しく言い争い。

*。「うちの子がいじめられた」と訴える父親が、“容疑児童”の調書を作って学校に乗り込み。他の子どもたちに聞き取り調査まで行い「〇月〇日、A子はどこで誰に何をした」などと数十ページにわたって詳細に記し、「悪質なA子の転校を求める」と要求。

*真夜中に生徒の母親から「離婚したいけど先生どう思う?」と相談。

*「うちの子は足が速いのになぜリレーの選手になれないのか」「うちの子は二十五メートル泳げるはずなのになぜ検定に受からないのか」などの苦情。

*校庭を見下ろす高層マンションに住む保護者が、双眼鏡で体育などの授業の様子をチェックしては、翌日の連絡帳に「ここはこういう指導法に変えた方がいい」などと細かく“アドバイス”。

*宿題をしない、提出物が遅れる生徒の成績を悪くつけたら、「担任はうちの子を問題児扱いした。内申点が足りずに中学受験に落ちたら担任のせいだ」と学校に乗り込んできた。

東京新聞 2007/7/1

*ある小学校の個人面談で教員との会話の録音を父親が要求。

*別の小学校では、運動会で子どもに日差しが当たっていたことに立腹した母親から「熱射病になったら責任がとれるのか」と苦情。

*運動会直前に父親が「うちの子が騎馬戦で上に乗れないのはおかしいじゃないか」と怒鳴り込み。

*周囲の子とぶつかって階段を踏み外した児童の母親が、『うちの子が殺されそうになったそうじゃないの』と怒鳴り込み。

毎日新聞 2007/7/12

*「喫煙を注意されたが、人に迷惑をかけていないので指導は必要ない」とクレーム。

*授業妨害をする児童の母を指導したら『先生に魅力がないから』と反論。

*「不登校の子が家でストーブをけり倒した。学校が弁償してほしい」と要求。

*「いじめに遭う我が子を転校させるので、通学の交通費を出してほしい」と要求。

*「義務教育は無償なので野球部のユニホームは学校で洗濯すべきだ」と主張。

*「写真の中央に自分の子供が写っていない」

*「休んだ1週間分の給食費を返してほしい」

*「給食が必要だと言った覚えはないので、給食費は払わない」

*「登下校時に友達とトラブルになるので、学校が送り迎えしてほしい」

*「クラスに気に入らない子がいる。その子を別のクラスに替えてほしい」

*参観日に授業を録音した親が「先生の授業はここがよくない」と指摘。

*「評価が気に入らない」と、保護者が1年半の間通知票を返さなかった。

何らかの事情が背景にありそうなものもあるが、全般的にはやはりとんでもないと言わざるを得ない。実際に多くの教師は理不尽なクレームが増えていると実感している。教師力の低下が言われるが、保護者まで相手にしなければならない時代である。昔の教師よりも今の教師の方がよっぽど苦労しているという真実を認識してもらいたいものである。

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モンスターペアレント

 最近、モンスターペアレントという言葉を聞く。学校現場に理不尽な要求をする保護者のことである。よくできた言葉だと思う。その実態は本当にモンスター。要は「怖いものなし」なのである。自分と自分の子どもの世界が経験のすべてであるにもかかわらず、多様な子どものいる学校という世界を自分の世界に押し込めてはばからない。教師を教師と思っておらず、トラブルが起これば悪いのは常に教師か他の生徒。義務を伴わない権利しか主張しない、戦後民主主義の悪しき申し子、それがモンスターペアレント達である。

 彼らは担任をほとんど信用していない。すぐに校長に訴えたり、教育委員会に訴えたりする。教育委員会は基本的に議会に指を指されないことばかり考えており教員の味方ではないのですぐに校長に対応を指示する。校長は在任中に問題を起こしたくないので担任のせいにする。かくしてすべての難問は担任に押しつけられるのであるが、モンスター達はそうした教育界の実態をよく知っており、担任いじめと自身の要求の実現に実にうまく教育委員会を使う。「担任なんかに言ってもあかんで。教育委員会にいうたら一発や」などと会話しているのを直に聞いたことがある。

さらに子どもにまで担任や学校の悪口を聞かせているので、子どもは教師の言うことを聞かなくなること請け合い。教師は親の悪口を子どもの前では言わないがそれは常識の範疇のはず。しかし、常識は破ったもの勝ちのゆがんだ権利意識の彼らには、そんな教師の配慮はかえって教師いじめの格好のアドバンテージ。かくして子どもは学級崩壊の原因となり、教師は無能の烙印を押されるのである。

そんなモンスター達で、見聞きしたものをあげてみよう。

①体育祭の本部テント(放送・来賓の接待・救護などをする中枢機能を司る場所)にいつの間にか入ってきて、「先生、邪魔です」とのたまうモンスター。さらには救護対象の生徒が連れてこられても動かないモンスターもいた。

②小学校で、「うちの子は塾に行っているので、夏休みの宿題は無しにして下さい」とのたまうモンスター。

③卒業アルバムに自分の子の写真が少ないので、作り直しを要求するモンスター。

他にもいろいろなモンスターがいる。

○給食費を払って欲しいといったら、「もっとおいしくせよ」と逆ギレするモンスター。

○校則通りに携帯電話を取り上げて1日あずかったら、基本料金の日割りを要求するモンスター。

○頭髪を染めてきたので指導したら「みんなやっていると子どもがいっている」と子ども丸飲みの抗議をするモンスター。

○親通し仲が悪いので、子どものクラスの変更を要求するモンスター。

○クラブの試合に出られなかった子どもの腹いせに、顧問の変更を要求するモンスター。

まだまだいっぱいある。

こんな親に育てられた子どもはどうなるだろう。自分のことしか考えない親が、えてして子どもにまで学校批判、担任批判を繰り広げるのである。子どもは学校不信になり、教師不信になり、学級崩壊の急先鋒となることもあるという。担任教師は日々悩み、苦しんでいるのである。新任教師が成長する前につぶされるパターンもある。精神を病む教師も多い。

私は以前、4月に「教育方針はいろいろあるがそれぞれ長所と短所がある。うちのクラスの教育方針は私が学年・学校と相談して決めている。長所を生かして短所を無くしていけるように保護者の皆さんのご協力をお願いします。」と先手を打ったことがある。これは大成功だった。しかしそんな成功例はむしろ少ない。

モンスター対策は、学校だけの問題ではない。そんな子どもが増えると日本が危ない。真剣に考えるべき問題なのである。

卒業生の同窓会に招待された時のこと。もう30代半ばの卒業生達の会話からモンスターを嗅ぎ取り恐ろしくなった覚えがある。ひとしきり自戒の念を感じた。

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高野連幹部のウソを許すな!

 野球特待生制度を持っている学校が、350校を超えたそうだ。この制度自体の是非は今は論じない。野球だけがダメなのはおかしいと思うが、今の私には特待生制度自体をどう評価するかという明確な考えはない。

 しかし言いたい。高体連幹部は「知らなかった」ふりをするな!私学の多くに野球特待生が存在することなど、一般社会に暮らしていれば半ば常識に属する話だ。それを「知らなかった」ではすまされない!だいたい「思ったよりも多かった」というコメントが知っていたことを表している。知っていて対策をできなかったお前達の責任はどこへ行ったんだ!

 今回の問題で一番心配になるのは、現在特待生で活動している球児のことだ。中には家計が苦しく今後の学費を払えない球児もいよう。そうした生徒は中退するのだろうか。そうした生徒のことを高野連幹部はどう考えているのか!

 トップが責任を免れて不利益を現場(生徒)に押しつける。こんなことを何度繰り返すのか。単位未履修問題と同じだ。いつから日本はこんなに醜悪な国になったのか。「野球は教育の一環」と言ってはばからない高野連幹部よ。諸君の保身術を生徒に見せつけることがあなた方の教育なのか?

 西武の裏金問題から発覚した今回の問題だが、高野連幹部が自分の保身のために球児達を犠牲にするのは断じてなんとしても許されない。

 高野連の老醜をさらしている幹部達よ!君たちこそ責任をとれ!

 (提案)

 このまま高野連幹部がこうした立場を貫くというなら、この際、各校が高野連から脱退して新しい高校野球団体を作ってはどうだろうか。甲子園も別に契約すればよかろう。その場合高体連に加盟してはいかがか。「高体連野球専門部」。こちらの方が健全だと思う。

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「先生」受難の時代 議員をバカにするな!

世に「先生」と呼ばれる職業がある。かつてはもんくなしに尊敬されていた職業である。教師はもとより他に議員、医者、弁護士などがある。これらの職業が今受難の時代を迎えている。

 かつて「先生」であるだけで尊敬される、という風潮があった。これが間違っていることは議論の余地がないであろう。不祥事を起こす教師、権力を笠に着て私腹を肥やす議員、ミスを隠蔽する医者、悪に魂を売り渡した弁護士などの存在は、連日マスコミをにぎわしているし、他にも大勢いるだろう。奈良県生駒市の元議長などは最低であるが、あんなやつは他の市町村にもまだまだいるに違いない。しかし、すべての「先生」が「所詮は自分のことしか考えていないつまらないやつら」かというとそんなことはない。本当に尊敬に値する実践をしている、またはそのように成長しつつある「先生」まで一緒くたに論じられているのではないだろうか。

 どうも最近、世間的に「上」であるとされる職業の人を自分たちと同次元に引きずり降ろそうという傾向が蔓延している。実際に悪いやつもいるから、あの人は偉い人にみえるけども、所詮は金に汚くて、自分のことしか考えておらず、女に弱いんだ、とすれば、日常の生活のストレスが幾分か晴れるのであろう。それにしても最近どうもいきすぎた風潮となってきていると思うのは私だけであろうか。 

 議員に例をとろう。最近、国・地方とも議員の評価が低すぎる。議員は私たちが選んだ私たちの代表である。それを不当におとしめるのはいかがなものか。

 議員の収入を減らせという方に言いたい。私たちの代表が世間の会社員程度の収入でいいのですか?それは私たち自身を低く評価することになりませんか?多くの市町村議会議員のように生活も出来ない収入では、議員になろうとする人は定年した人か、個人事業を持っている人か、議員の立場を利用してもうけようとしている人になりませんか?生活はきれい事ではない。意欲ある若い人材を確保するためにも議員には国・地方問わずしっかり収入を確保するべきだろう。その上でしょうもないやつを排斥するのである。今のままではしょうもないやつが定数の中に入らざるを得ない。

 議員宿舎にいちゃもんをつける人に言いたい。議員宿舎がなくなれば、首都圏選出の議員と地方選出の議員に大きな経費の差がでます。国会議員は一年の3/4くらいは国会期間。その間地方から選出される議員のために宿舎を用意することはそんなに不自然なことですか?さらに言えば、真剣に仕事をしてもらおうと思ったら宿舎が都心の一等地にあるのは当たり前ではないですか?交通費のかかる郊外に宿舎を構えると意味がなくなるでしょ。「ビジネスホテルに泊まってます」という議員がいるが、どれだけ経費がかかっているのですか?ビジネスホテルで来客をこなす等の仕事が充分にできるのですか?議員宿舎の家賃は世間のマンションの家賃と比較するのではなく、仕事に必要な装備を備えたホテルに泊まるのとどちらが高いか比べるべきである。「朝ズバッ」は論点が間違っている。要ははなから議員は仕事をしないという前提で議論するからこんなおかしな話になるのではないだろうか。自分は仕事をしているという確信のある議員さん!新宿の衆議院宿舎に是非入ってください!

 国会議員の人数が多すぎる、という人に言いたい。日本国の政治は、少人数で把握できるほど単純ではないことは分かるでしょ。複雑多岐にわたる国政の議論にはそれぞれの分野の専門家が議員にならなければ、官僚の思うがままになるでしょ。議員を減らせ。官僚に負けるなでは、話自体が矛盾していませんか?その事をふまえた上で人数に関する議論するべきではないだろうか。

 もちろん、肖像画を国費で描く、無駄な公用車の存在など、仕事と関係ない特権は廃止するべきであろう。しかし、私たちの代表たる議員が、後顧に憂いなく仕事に勤しめるようにすることは絶対に必要である。

 私たちは自分の憂さ晴らしのために、真剣な心ある議員の仕事を邪魔してはならないのである。その上で議員の立場を利用して金儲けをするやつらは、しっかり見抜いて追放するのである。「一期目は食べ物もなく、血反吐をはいて選挙運動を乗り切った」なんてお涙頂戴話をしているやつが実は地元に「○○御殿」と呼ばれている家を建てている。こんなやつを追い出せ!お前は国会議員になってどれだけ私腹を肥やしたのか!

 教師も医者も同じである。一分野の専門家相応の尊敬も受けられず、一部の人間の不祥事がすべての人間の課題であるかの如くに論じられる。こんなに不当ないちゃもんをつけられる時代も過去にはなかったであろう。

 国民の大多数が、自分の経験が全世界に通用すると思っている「不勉強な専門家」になってしまった。ワイドショーのコメンテーターがその典型であろう。知りもしないのに知ったかぶりをしてコメントする。自分の生徒時代しか経験がないのに教師に自分の教育観を押しつけてくる保護者にはまったくこまったものである。そんな保護者に「最近の教師は」などと言って欲しくないのである。

 本当に腹立たしい限りである。

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教育再生会議は現場を知らないのか?

 教育再生会議が、学校自由選択制を検討しているという。それはいい。しかし、志望者の多い学校には予算も多くつけるという。しんどい学校で頑張っている教師の給料をあげようというなら話は分かる。ところがその逆の話である。いったい何を考えているのだろうか。

 どうやら教育再生会議は、学校は教師だけで成り立っているものと思っているらしい。地域無くして学校などありえないという現実を知らないらしい。新興住宅地と旧市街とは明らかに課題は違う。繁華街に近い中心地の学校の方が田圃の真ん中の学校よりも人気は出やすい。学校の人気は交通アクセスにも左右される。学校の伝統も評価の対象である。交通アクセスのよい中心地の伝統校は人気が高いものである。

 だいたい志望者数で学校を評価しようということが間違っている。それでいくと結局成績をあげられる学校がいい学校ということになるのは目に見えている。馬鹿をいうのでない。人権教育を大切にする学校、クラブ指導の熱心な学校、生徒会行事の盛んな学校、いろいろあっていい。その意味では学校自由選択制はいい。しかし予算に差をつけるのは明らかに間違っている。たまたま転勤を命じられてその学校に来た教員のモチベーションは下がる一方だろう。

 やっぱりダメだ。再生会議には任せられない。もう解散してくれ!

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卒業式ライブに思う

 卒業シーズンである。

 学校最大の行事はといえば学園祭でもクラブ活動でもない。卒業式である。教師にとっても生徒にとっても、「この日のために3年間やってきた」という大きな記念日である。教師の最大の幸福は、卒業式を迎えられることではないか、とさえ思う。

 その卒業式に最近大きな変化が起こってきているらしい。「卒業式ライブ」というのがそれである。去年、京都市立西京高校にAIが来て「Story」や「Believe」を唄ったと聞いたときは、「なんと!」と驚いた。確かにあの歌は卒業にぴったりのメッセージが込められている、と思ったからである。「なんて幸せな生徒たちなんだ」とさえ思った。また、Gacktも兵庫県立舞子高校に招かれて唄っている。阪神大震災の時からメッセージ交換があって、今回の出演となったらしい。

 しかし今年に入って、「EXILEがメンバーの母校・長崎県立佐世保東翔高校でコンサート」だとか、「川嶋あいが久宝寺中学で卒業式ライブ」だのと聞くと、何のためにやっているの?と疑問が湧いてきた。なにか普段から深い関係があるわけでもなさそうだ。川嶋あいは、卒業式ライブして欲しい学校を募集し、一年に一カ所選んで今年で3年目らしい。EXILEの新ボーカルの出身校だからというのは分かるようで分からない。EXILEがメンバー全員の出身校を回るわけでもあるまい。よく考えたらAIの事に感動したのは、私が彼女のファンだからに他ならない。ファンでなければ迷惑なだけだ。

 いうまでもなく卒業式の主役は、第一に卒業生、第二に3年担任と卒業生の保護者である。卒業生の学校生活を支えてきた担任・保護者が卒業生を送り出すのが卒業式であり、卒業生が担任・保護者に感謝するのが謝恩会である。この三者以外が割り込むからにはよっぽどその学校の取り組みと深い関係にあるべきである。そうでないと主役を食ってしまう。もし卒業生がそれでもいい、というなら「それなら卒業式や謝恩会はやめだ」といいたい。「誰のための卒業式・謝恩会か。君たちが目の前にいる教師と学校から旅立つためだぜ。それになんで無関係なアーティストの手を借りなきゃいけないのか」歌手のコンサートなんか自分で勝手に行けばいいのである。いい歌唄っているからといって割り込む資格なんかないのである。そのいい歌はこっちでかってに歌うから。

 最近、「卒業ライブ」を商売にするサイトを見つけた。実に不快である。

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教育現場の数字目標

 数字は怖いと思うときがある。 

 例えば前回書いた出生率である。正確には「合計特殊出生率」という。過去1年間の女性の出生率を15歳から49歳の年代毎にはじき出し足したものだ。つまり、一人の仮想の日本人女性が15歳から49歳までを一年で体験したとしてそのときに生んだ子どもの数とでもいえばいいだろうか。ところがこの数字、扱いに注意を要するのである。例えば不景気の時など「もう少し経済基盤を整えてから」などと出産を遅らせる傾向の時には不当に低く出るのである。また、皇族の出産があると「ご学友ねらい」(?)などで出産が増える傾向がある時には高く出るのである。つまり本当に一人の女性が生涯に生む子どもの数ではなく、その年その年の社会状況によって大きく変化するのである。この数字に振り回されすぎるのは実はよくない。

 よく聞く「日本人の平均貯蓄高」なんてのもよくわからない。「格差社会」が指摘されて久しいが、ということはこの数字も一部の大金持ちによってつり上げられているということである。貯蓄0に近い人の方が圧倒的に多いのである。この数字はあまり意味のあるものとはいえないのである。

 「国民の借金は651万円」なんていうのも変だ。国の国債と借入金の残高を人口で割ったものらしいが、そもそも国債はだれが発行しているのかというと日本銀行。日本銀行はそれを売ったり買ったりして景気調整に使ったりしているわけで、諸外国からすぐに返金を迫られている借金がそれだけ日本にあるわけではない。国債を買っている国民もいるわけで、その人は国に金を貸しているわけだ。人口で割るのはおかしいと言わざるを得ない。

 事象を数字で示されると分かったような気分になることが怖い。数字を達成しても実は中身がともなっていないことが怖い。

 教育現場なんか数値目標がそぐわないことも多い。私は「自分を幸福にする力を身につける」ことが教育の目的だと考えている。そのために身近な目標を数字をあげて決めるのはよい。進学率、クラブの成績、出席率などがそれである。しかし、数字を達成しただけで目標を達成したと考えるのは早計にすぎる。先の出生率などのように仮想の数字を現実のものと勘違いしたり、平均貯蓄みたいに実はその裏で苦しい思いをしている人の存在を隠してしまうこともある。

 最近、教育現場に数値目標を導入しようとしていることに危惧を覚える一人なのである。

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群馬県太田市はすごい!

 以前から、身内で言っていたこと。「少子化支援には1人目と3人目に手厚くだ。1人目は夫婦にとって一番不安だし、3人目が積極的に生まれないと人口は維持できない。だから3人目を国が全額面倒を見るくらいにすると出生率は確実に上がる。」

 こんないわば常識を現実のものとする市が現れた。群馬県太田市である。3人目は出産費も医療費も入学金も文具費もみんな市が持つという。

 すごい!財政的に持つのかなという不安があって井戸端会議的な話題にとどまらせていたのだが、やろうというところが出てきた。すごい!感激!これを日本全体でやれば確実な少子化対策になる!

 少子化対策を、「子育て世代に偏った政策」だの「一部の市民へのご機嫌取り」だの「バラマキ」だのいう人が相変わらずいるが、全然分かっていない。本当に一部の日本人の問題ならこんなに話題になるまい。少子化対策は将来の日本をどうするかという問題であり、経済対策・財政対策・年金対策につながる根本の問題である。

 あとは1人目への手厚い対策を望みたい。不妊治療への保険適用、育児就業対策などまだまだやることは多い。

 今出生率はちょっとアップして1.3。この難局を乗り切らねばなるまい。

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大阪の教育委員さん頑張れ!

 大阪府教育委員のダイキン工業副社長が、ある府立高校の名をあげて、「成績の悪い生徒が皆そこへ行く」などと発言したと報じられた。

 確かに公開の場での発言としては不適切であったと言わざるを得ない。この発言が在校生に伝わればどのような感想を持つかと考えると、悲しい気持ちになる。教師としてどのようにフォローすればいいのか想像もつかない。

 しかし、現実はこの委員の言うとおりなのかも知れない。授業に参加する人数も少なく、参加していても寝ている生徒が多数いたり、携帯をいじったり、横の友達としゃべったりしているのだろう。委員が視察をした際にそのような光景を見て驚いて報告する中で先の一言となったらしい。

 私もかつていわゆる困難校にいた。自分の名前が漢字で書けない生徒がいた。九九を覚えていない生徒がいた。字が読めない父親にかわって成人指定の本を朗読させられ国語だけは得意になったが他の教科は全くできず留年した生徒もいた。努力の仕方が全くわからず脇に人がついていないと勉強も宿題ができない生徒もいた。7人兄弟の上3人だけが同じ父親で後の4人は母親の乱行の結果生まれてきたという家庭もあった。彼が家計を支えたいといって退学するのを私はだまってうなずくしかなかった。

 こんな子供たちが集まっている学校が確かに存在するのである。入学は定員割れで入った子の約半分が退学する。まじめな生徒から「こんなところでやってられない」とやめていくのである。そんな現場が各県に複数存在するという現実を、教育委員や教育再生委員会の方々は把握しているのだろうか。そんな現場でも何とかよくしようと必死で取り組んでいる教員集団がいるということを分かっているのだろうか。

 私は喫煙やシンナー吸引や暴力が見つかり常に誰かが家庭謹慎しているという学期を2回経験したことがある。その間の家庭訪問の回数は数え切れない。謹慎の訪問だけではなく勉強の家庭訪問も行うのだから、その回数は膨大な数になる。保護者の暴力的な言動で、無事に帰れないのではないかと思ったこともある。なのに県教委からは「回数の報告を数であげてくれ」と一枚の報告用紙が来るだけである。ねぎらいの言葉も何もない。

 今の教育現場には、現場の把握と教員の頑張りへのねぎらいが決定的に欠けていると思う。悪い教師の話ばかりが話題となり、本当に現場で何が起こっているのかが把握されていない。いや本当は把握したくないのではないかと思うくらい教師の言葉に耳を傾けない。教師が一番現場の状況を把握しているのに、その教師をバカにするという人は本当に教育を何とかしようとしているのではないと思う。おもしろがっているだけだ。

 大阪の教育委員さん。学校の実名をあげたのはまずかった。でも現場を見て何とか支援できないかとされたあなたの姿勢を私は買います。あなたのような人に頑張ってもらいたいのです。もう少し慎重に。そして今後も現場が変われるようご努力下さい。

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地域に教育力は期待できないのか?

 今日、地域の自治会長から学校におしかりの電話があった。

 自転車で通学途上の生徒が、自治会長さんが孫を乗せている自転車に接触しそうになり、自治会長がはずみでこけた。怪我はなかったが、「どんな教育しているのか」「県会議員に言うぞ」ということである。

 (なんで県会議員なのか、サッパリ分からん。こういう権力志向は嫌いだ。)

 「あ~またか。よっぽどこの生徒の自転車のマナーが悪かったんやろうな。でも、それって学校の教育が悪いせいかな?こういう子供の不始末は親の責任と違うんかな?その子の住んでる地域にも普段注意せんとほっといた責任があるやろ。学校が全部の通学路に立つのんは不可能なんやから、地域が注意してくれんとあかん。たぶんこの被害者の人は、どこに怒りをぶつけたらいいのかわからんと、ターゲットに学校を選んだんやろな。まあ、しゃーないわ。話だけ聞いとこ。」とお話をうかがったわけである。

 私は、すべての生徒がピタッと言うことを聞く指導方法を知らない。いや、そんな指導方法はないと断言する。人間は大人だって未完成だ。ましてや生徒は未完成なものである。その生徒を教育するというのは、学校だけでは無理なのである。常に子供を見守る目がある。常にしかってくれる人がいる。そういう環境を保つためには、家庭と地域の協力が必要なのである。だから、子供の不始末は、家庭と地域にも責任を分担してもらわなければならない。いや、本人と親の責任が第一義で、学校・地域が続くのではないだろうか。

 生徒を呼び出し事情を聞いて注意をした後、その自治会長が当該生徒の地元自治会の会長であることを知り、唖然とした。なぜ親に言わないで学校にねじ込むのであろうか。

 「もう地域に教育力は期待できないな」半分諦めのムードが職員室に広がった。

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地理という教科の難しさ

私は日本史の採用である。出身は経済学部である。したがって、日本史はもちろん得意であるが、現代社会、政治経済そしてなんとか世界史も大学時代の積み上げかある程度あるので教えることができる。しかし、地理はダメである。大学の教養地理の先生は歴史地理学の先生で、自然地理も人文地理も高校で扱うようなことはいっさい勉強してこなかったのである。

ところが、現赴任校には地理の専門家がいないのである。毎年誰が地理を持つかで教科会議がもめるのがいやで、引き受けて3年目。涙ぐましい努力の日々であった。

そうした中、地理学(高校地理だけ?)のいいかげんさにうんざりすることがある。一応進学校なので、時々生徒が質問をよこすが、そんなときにそうしたいいかげんさに突き当たるのである。今回はアメリカのグレートプレーンズとプレーリーについてであった。生徒曰く「グレートプレーンズとプレーリーの境目はどのへんですか?」そんなことは地図帳にはハッキリしていない。しかも帝国書院の地図帳では、縮尺が変われば位置も微妙に変わっているように見える。資料集には「西経100°の当たり」と書いてあるものがあったが、地図帳とは矛盾している。「おかしい。」そう感じた私は徹底調査をすることにしたのである。

まず、カナダ出身のALTに聞いてみると、「カナダにはグレートプレーンズはない」という。プレーリーは長草平原で、ロッキー山麓のマニトバ州をはじめとする3州が含まれるという(プレーリー3州という言葉まである)。帝国の地図帳ではそこはグレートプレーンズである。ALTは「アメリカではプレーリーのことをグレートプレーンズと言うのではないか?」とのたまうが、アメリカにはプレーリードッグがいる。プレーリーもあるはずである。

インターネット情報もいい加減である。どれもこれも相互に矛盾がある。追いつめられた私は帝国書院に電話してみる以外に方法が無くなった。「調べてみます」と誠意ある対応。最終的な答えは、「グレートプレーンズは中央平原(=構造平野)と隣接するアメリカの地形名。カナダでは使わない。ロッキー山麓を流れる川が形成する複数の沖積平野の総称です。プレーリーは植生・土壌名なので、グレートプレーンズにも中央平原にもかかります。しかし、いつの間にかプレーリーも地域名として使われるようになった」とのこと。ああスッキリした。おっとでは帝国の地図帳でグレートプレーンズの「グ」の字がカナダにかかっているのは何故?問い合わせると「間違いです。次版から訂正します。ありがとうございました。」とのこと。

このことだけではない。地理の学習をしていると相互に矛盾した情報に出会うことが多い。たとえばブラジルのカンポとセラードの関係も資料によって違う。帝国書院の地図ではカンポは一文字づつ□で囲んであるが、セラードは囲んでいない。どう違うのかと調べてみたら、セラードは正式には「カンポ・セラード」で疎林(サバナ)の一種(気候はAw~Cw)。カンポはどうやら「カンポ・リンポ」のことで、セラード南部に接する草原(気候はBS)のことらしい。帝国の地図の表記ではカンポの中にセラードがあるように見えるが、それならばリンポを同じ字体で表記するべきである。それにしても、ほとんどの参考書ではカンポといえば「サバナの一種」としてある。これはどう解釈すればよいのだろうか。

他にもマンガンの生産国順位も違う。東アフリカ大地溝帯が「広がる境界」なのかどうかも本によって違う。中国の「チンリン-ホワイ川ライン」の年降水量は750㎜~1000㎜までいろいろである。もういい加減にして欲しいのである。

 しかし、こういう矛盾に出会うと「このやろう何とか真実を解明してやるぞ」とやる気が出るのもたしかなのである。学問的欲求が刺激されるのである。

 問題は授業までに結論が出るのかどうか。そんな勝負を日々している毎日である。

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単位未履修への複雑な思い

 今、マスコミをにぎわせている単位未履修問題。私の勤務校は、いわゆる進学校ではあるが学習指導要領内での指導を行っており、問題はなかった。

 しかし、一方で複雑な思いがあるのもたしかである。

 というのは、ひとつには学習指導要領通りにやれば教科書が終わらないのが現実なのである。たとえば「現代社会」は、新課程から4単位から2単位に減ったが、一部を選択にしただけで内容はさほど変わっていない。入試は全範囲から出題されるので結局授業だけでは入試対応ができないことになる。他の教科も3年生での教科は、1月のセンター入試までに終わらなければならない。できれば演習でもできればいいなと思っているが、なかなか超スピードの授業でも1月のセンターまでには終わるのが精一杯なのである。

 そこで、理系は「現代社会」と「地理」にしぼり、「世界史A」は必修だけれども中身は1年の「現代社会」と3年の「地理」の完成のために振り分けてやりましょうということになったり、受験に関係のない「情報」や「芸術」「家庭」などを削ろうということになる。また理科では「理科総合AB」などは困難校の為に用意されたようなところがあるので、進学校には必要ないのである。そこで「物化生地」の学習を先取りしようということになるのである。現場の苦労も工夫も私にはよくわかる。本音を言うとうちもやりたいところ。しかし、まじめにやっているところからするとずるをされると少しカチンと来たりもする。本当に複雑な気持ちなのである。

 もう一つは、「受験のためだけでなく人生の為の知識と力をつける学校に」という学校の本来の姿を取り戻すためには、土曜日の半日授業はやはり必要ではないか、ということである。「ゆとり教育」の削られた時間にはあまりにも余裕がないのが実態である。学校行事はどんどん削られる傾向にある。遠足がなくなり、キャンプがなくなり、修学旅行もなくそうという動きがある。また、これがいわゆる「読替」の原因にもなっているのである。

 そもそも、地域や家庭の教育力が落ちてきているのに土曜に家庭や地域に戻すというのも無理がある。結局親は子供に金を与えて遊ばしたり、習い事に行かせたりしているのだ。子供が「自分は邪魔なんだ」と疎外感を感じたり、教育に格差が生じる一因となっているという指摘さえある。

 しかし、それをすると教師はしんどくなるのである。土曜日は午前に授業して午後はクラブ。日曜日は練習や試合の引率と、休みは確実になくなるのである。ここの部分のケアなしにはこのことは声を大にして主張できない。そこがまた、気分を複雑なものにさせるのである。

 それにしても学習指導要領に「国歌・国旗」をうたったときには、入学式や卒業式をさんざんにチェックしていた県教委が、実はカリキュラムはチェックしていなかったなどとはよく言ったものである。現在のカリキュラム編成に携わった人も委員会には多い。「知ってくせに。また現場の責任にして~」というのが、現場の実感である。

 さらに言えば現場から採用されないカリキュラムを作った文部科学省の責任はどうなるのか。「特色ある学校作り」「競争原理を導入して」などと言う割に指導要領の徹底をする。おかしいではないか。矛盾したことを現場に投げかけておいて、現場が工夫すると「知らなかった」と開き直る。

 マスコミのコメンテーターも「塾に負けない授業をしろよ!」といってたやつが「指導要領を守れよ!」なんて言っている。

 あーバカバカし。やってられないのである。

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グーグルアース日本版(地理)総集編1

 ここまで3回にわたって「地理編」を掲載してきましたが、ここでいったん総集編。あくまで第一弾です。つぎは、「世界史編」に取り組みます。

☆大地形

広がる境界     東アフリカ大地溝帯          0°36'31.77"S 36°14'20.66"E

ずれる境界     サン=アンドレアス断層   38° 2'46.31"N 122°46'3.67"W

ホットスポット  マウナロア山          19°27'44.10"N 155°36'4.67"W

安定陸塊      エアーズロック         25°20'47.40"S 131° 2'5.50"E

赤道標識      エクアドル・キト郊外       0° 0'0.00"N  78°27'21.46"W

☆小地形

カルデラ      阿蘇山(上空25㎞)        32°53'26.86"N 132°53'26.86"N

円弧状三角州    ナイル川デルタ       30°33'49.02"N 31°13'4.77"E

カプス状三角州   ティベレ川デルタ      41°44'58.67"N 12°14'29.09"E

鳥趾状三角州    ミシシッピー川デルタ   29° 6'23.25"N 89°16'0.56"W

三角江       テムズ川三角江       51°31'43.20"N  0°35'15.47"E

リアス式海岸    リアスバハス海岸     42°27'27.14"N 8°56'43.40"W

フィヨルド     ソグネフィヨルド        61°12'39.83"N 5°47'50.89"E

河岸段丘      群馬県片品川        36°39'1.26"N 139° 5'48.38"E 

海食崖       フランス ノルマンディ地方 49°21'5.52"N   0°46'30.75"W

山岳氷河      パタゴニア          49°49'18.63"S  73°14'46.26"W

陸繋島       北海道 函館         41°45'24.75"N 140°42'42.65"E

潟湖        北海道 サロマ湖       44° 8'16.28"N 143°48'3.22"E

環礁        マーシャル諸島        11°36'12.60"N 165°24'29.41"E

堡礁(ボラボラ島) 仏領ポリネシア       16°30'18.67"S 151°44'18.12"W

☆集落・都市

環濠集落     奈良県 稗田           34°38'26.30"N 135°47'42.76"E

輪中集落     三重県 桑名市       35° 3'26.29"N 136°43'17.52"E

寺内町      大阪府八尾市久宝寺町   34°37'38.64"N 135°35'16.02"E      

城下町      三重県伊賀市上野     34°45'57.78"N  136° 7'42.12"E

宿場町      滋賀県大津市        35° 0'23.33"N  135°52'0.69"E

新田集落     埼玉県 所沢市      35°49'50.47"N 139°28'38.60"E

散村集落     富山県 砺波市       36°33'59.43"N 136°55'53.59"E

円村集落     ドイツ ネルトリンゲン  48°51'3.01"N  10°29'23.41"E

星形城塞都市   オランダ ナールデン  52°17'45.95"N   5° 9'45.86"E

政治都市     ブラジル ブラジリア    15°47'1.70"S   47°54'10.76"W

             ナイジェリア アブジャ     9° 2'57.46"N   7°29'42.11"E                                             

☆農業関係

棚田       バリ島              8°27'38.80"S 115°10'46.88"E

アブラヤシ畑   マレーシア サラワク州  3°46'56.24"N 114° 0'16.37"E

等高線耕作    アメリカ西部        44°20'57.55"N  92°36'23.41"W

センターピボット サウジアラビア      28°40'49.15"N  36°19'48.50"E

        アメリカ グレートプレーンズ   40°23'27.17"N  99°28'39.08"W

混合農業地域   ポーランド        54°15'4.54"N   18°53'37.17"E

塩害       中央アジア         40°17'52.13"N  62°20'21.70"E

カナート     イラン            35°42'37.38"N  50°43'20.38"E

 ☆鉱工業・交易関係

ジュロン工業地帯 シンガポール      1°19'33.61"N 103°41'59.32"E

アラビア横断パイプライン            31°40'37.86"N  38°41'31.44"E

アスワンハイダム エジプト         23°58'43.23"N  32°52'39.69"E

アコソンボダム  ガーナ            6°18'6.49"N   0° 3'35.87"E

バナマ運河    パナマ              9° 3'30.73"N 79°39'23.83"W

スエズ運河    エジプト             30°37'54.93"N 32°19'13.89"E

 ☆領土・紛争

沖ノ鳥島     日本                20°25'23.22"N 136° 4'26.19"E

岩のドーム    エルサレム       31°46'41.57"N 35°14'6.14"E

 ☆宗教

カーバ神殿    サウジアラビア     21°25'20.22"N 39°49'33.93"E

ポタラ宮殿    チベット(ラサ)      29°39'27.70"N 91° 7'2.32"E

バチカン宮殿    バチカン市国     41°54'8.52"N  12°27'9.26"E

ゴールデンテンプル  インド       31°37'12.02"N  74°52'36.27"E

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韓国修学旅行で土下座って本当?

 前回、「朝鮮学校の生徒をいじめるバカ」という文章を書いたら、はじめてのコメントを頂戴した。自分の文章が他人に見られているという緊張感を持つことができ、ありがたかった。
 その中で、「日本人の高校生が修学旅行で行った韓国で元従軍慰安婦に土下座させられてます」と、そんなことを教えていただいた。私はそんなことは聞いたことがないので「何かの間違いでは?」と問い返したところ、以下のアドレスを教えていただいて、「これを見て日本人としてどう思われますか?」と問われたのである。http://www.geocities.jp/savejapan2000/korea/k373.html
 そのときの私のブログ本文と趣旨が変わるので、今回、項を改めて私の思うところを申し上げたいと思う。

○産経新聞(韓国日報)の記事

 まず「私がマスコミを批判する理由」にも書いたように、私は情報を鵜呑みにしないようにしている。そこでこの記事にも検討を加えてみた。
 ネット上で調べてみたら、あるわあるわ。いっぱいだ。今まで知らなかったことが不思議なくらい。しかし元ネタとなっているものはそう多くはない。まずは産経新聞から。

韓国紙報道 ソウル記念公園に生徒200人 【ソウル5日=黒田勝弘】
「卒業式の「日の丸・君が代」問題を苦に校長が自殺した広島県立世羅高校が毎年、生徒を修学旅行で韓国に送り、ソウル市内にある独立運動記念公園で謝罪文を朗読するなど“謝罪行事”をしていたことが明らかになった。五日付の韓国日報が社会面トップ記事で伝えたもので、記事には、生徒たちが市民の前でひざを折り、頭を垂れている写真が添えられ、案内を担当した年配の韓国人通訳の「生徒たちのまじめな表情に感動した」という感想も紹介されている。

韓国日報は「“キミガヨ”で悩みの校長の教え子たち」「5年前からタップコル公園で“謝罪の参拝”」という見出しで、昨年十月十六日の様子を詳しく報じている。
それによると、「世羅高校の男女生徒約二百人は昨年十月十六日午後四時、タップコル公園の三・一(独立)運動記念塔前でひざを折って座り、日帝侵略と植民地蛮行を謝罪する文章を朗読した。一部生徒はハングル(韓国の固有文字)を学び、謝罪とともに両国の和解を訴えるプラカードを日本で作って持ってきた」という。さらに「公園での謝罪儀礼は犠牲者に対する黙とうと班長のあいさつ、謝罪文朗読、日本から持ってきた平和を望む折りづる献呈、公園内の史跡訪問などとなっていた」としている。
タップコル公園はソウルの中心街にあり、これまではパゴダ公園といわれた。日本統治時代初期の一九一九(大正八)年三月一日、大規模な抗日独立運動のスタートになったところで、記念塔などの施設があり、市民の憩いの場になっている。
世羅高校修学旅行団を案内した劉載晃氏(七九)は記事の中で「これまで五年間、“謝罪修学旅行”を許可してきた校長先生が、日帝軍国主義の象徴である日章旗掲揚や君が代斉唱に反対する教師たちと教育委員会の間で悩んだ末に自殺を選んだのだろう」と語っている。
また「謝罪修学旅行を送り出してきた石川(敏浩)校長は、教育委員会の指示を拒否することも、自身の良心に反する行動も難しいという葛藤(かっとう)を味わったことだろう」という記者の見方が書かれている。
近年、日本の高校生の韓国への修学旅行は増え、年間数万人にのぼる。旅行先は古都の慶州などの史跡のほか、独立記念館など歴史がらみのところが多い
(産経新聞)1999年(平成11年)3月6日

この産経の記事には、従軍慰安婦云々はいっさい書かれていない。写真を見ても、50年以上昔に被害に遭われたというからにはかなりご高齢のはずの元慰安婦とおぼしき人は写っていない。どちらかと言えば男性が目立っているくらいだ。また、「ひざを折り、頭を垂れている」とあるが土下座という表現はない。写真も座ってはいるが土下座には見えない。資料とおぼしき紙を見ている生徒、後ろを向いている生徒もいる。つまりこの記事はあくまで「独立運動記念公園で謝罪文を朗読するなど“謝罪行事”をしていた」ということを報じようとしたもので、元従軍慰安婦に土下座したことを報道したものではないのである。しかし、この写真が一人歩きし、広島県の世羅高校の生徒が「元従軍慰安婦の前で土下座させられた写真」として巷間に流布しているのだ。人によっては「どう見ても土下座している」とまでいうのだ。なぜそうなってしまったのだろうか。

○2chの投稿-これは世羅高校ではない!

 さらに調べると、ある女子生徒の投稿が存在するという。「体育館で元従軍慰安婦の方の体験を聞いたあと、司会が「土下座して謝ろう」といったので何人かで抵抗したら教師から怒鳴られた。結局土下座はしなかったが謝罪はした」とのこと。「2ch」で2004年(平成16年)2月20日未明の書き込みらしい。
 この書き込み、なぜか繰り返しネット上に登場する。2006年9月にもあたかも初出のように複数のサイトに登場した。だが、本当の初出は先にも書いたように2004年2月20日、2chである。http://ex2.2ch.net/test/read.cgi/korea/1068277882/格納情報を見る方法が分かる人は見て下さい。
 ところで世羅高校の修学旅行は、学校のホームページの「PTA新聞」と「学校新聞」から分かる。2004年2月は2003年度で世羅高校の修学旅行は東京である(ちなみに2004年度は台湾)。さらに言えば、先の産経記事の写真は屋外だがこのメールの舞台は「体育館のようなところ」である。つまりこのメールは世羅高校でのことではないのだ。しかし、ネット上のいたるところで1998年10月の世羅高校のこととして流布してしまっているのだ。

○なぜか2つがくっついて

そうつまり、以上の2つがくっついて一つの話になったらしいのである。

◎このサイトが、一番忠実に2chのメールを再現しています。2chの格納情報を見られない人はこちらをどうぞ。
http://chosonnews.txt-nifty.com/han/2004/09/post_17.html (2004年9月30日の文章)

◎この人はメールの記事を紹介。なのになぜか末尾に産経記事の写真を貼付。
http://bbs2.mbsp.jp/ch.php?ID=cyosenfuck&c_num=366314 (日付不明) 

◎この人なんか完全に勘違いして一つの話にしている。
http://www.ztv.ne.jp/web/ms-kudoh/Angles_2005(2)/angles_131(School%20travel%20in%20Korea).html (2005年7月30日の文章)

◎この人なんか、韓国日報記事を自分が読んだことにして、本文にない「土下座」を意図的に挿入。いいかげんだね。
http://plaza.rakuten.co.jp/nwaiwgp/diary/200501300000/ 2005年1月30日の文章)

これ以外が元になって「世羅高校の生徒が元従軍慰安婦の前で土下座をさせられた」という話はでてこない。そこでまず一つの結論。「世羅高校の生徒は元従軍慰安婦の前で土下座をさせられていない。」少なくともネットではそのような事実は確認できない。

○世羅高校生の声

 ついでにこれも参照。当時の世羅高校生の生の声が入っています。掲示板をどこまで信用するかは別問題としてありますが。(31と39と48は当時の生徒と名乗っています。)
http://chugoku.machi.to/bbs/read.pl?BBS=cyugoku&KEY=1112959576
リンク切れを恐れて、以下に引用しておきます。
○31の引用。
>わしらちょうどその有名な「土下座旅行の生徒」だったんじゃ。
>土下座だっつって騒いだのはおまえらアホの2ちゃんねらーと新聞だけじゃ、あほ。
>「たちっぱなしだと話長いししんどいからとりあえず着席してください」ってだけじゃ 
                           (中略)
>死んだ校長はたまに話したけどやさしかったしええひとだったで。
>韓国やらなんやらゆうておまえら騒ぎすぎなんじゃ どうでもええ
                           (後略)
○39の引用
>話は戻るが漏れは韓国ツアー第一号生徒だったが土下座した覚えはないぞ
 ここで話を終わってもいいのだが、いちおう2つのニュースソースを別々に検討してみよう。

○ネット上の産経新聞記事の検証

 まずは前半の、産経新聞が「韓国日報」から産経が抜粋したといわれる記事である。韓国を代表する三大新聞社は、朝鮮日報・中央日報・東亜日報。韓国日報はThe Korea Timesで、韓国を訪れる英語話者向けに発行されているものらしい。日本語版はない。この記事は時々「朝鮮日報」として引用されるが、それは明らかに間違いである。最初に断っておきたい。
 さて次に、この記事には明らかな虚偽が含まれている。それは「これまで五年間、“謝罪修学旅行”を許可してきた校長先生が、日帝軍国主義の象徴である日章旗掲揚や君が代斉唱に反対する教師たちと教育委員会の間で悩んだ末に自殺を選んだのだろう」との"韓国人のコメント"である。なぜならこの石川敏浩校長はその年の4月に赴任しているのである。黒田記者と産経新聞は「韓国日報」からの転載であるとしても間違いは正すべきだし、正すことができたはずである。このことだけで、この記事の信用性がグッと下がる。
 次に、この写真をもう一度よく見てみよう。資料らしきものを見ている生徒がいる。歓迎の横断幕?らしきものも見える。生徒と同じ色の制服らしきものを着た人が3人立っている。生徒の代表だろうか?生徒の代表が何か文章を読み上げている場面だとすれば、その点産経記事と話は合う。しかし、この「生徒」は生徒の側を向いている。謝罪文の読み上げなら前にいる韓国の方々の方を向いて行うべきである。ということは写真は「生徒代表が何か生徒向けの文章を読み上げている場面」ということになろうか。また、先にも書いたように、「ひざを折り、頭を垂れている」と本文にあるが、いわゆる「体育座り」やその場での「蹲踞」や、若者のよくするしゃがみ方でも「ひざを折」った座り方である。資料を見れば頭は下がる。左側に写っている男性が後ろ手で胸をはり、その前の生徒が資料を見るために頭を下げているから、先入観を持って見れば「土下座して謝罪した」という場面に見える人には見えるのだろう。そもそもわざわざ「ひざを折り」という不自然な表現を採用した意図を私は疑う。「ひざを折り」と表現することで「土下座したのでは」と読者がかってに勘違いする、そういう効果を狙ったのではないかと勘ぐりたくもなる。
 この記事が校長の自殺直後の3月5日に書かれたことも気になる。この修学旅行は約5ヶ月前の10月である。こんな微妙なタイミングでそんな約半年も前の出来事を取り上げたのである。なにか意図があったと考えないほうがおかしい。詳細は分からないが、少なくともこの記事は、石川校長を謝罪修学旅行を許可してきた韓国寄りの人物とし、韓国側からは「惜しい人を亡くしました」、日本の一部の人からは「生徒に土下座させるような校長の自殺に同情する必要はない」、というようなことを感じさせる効果を持っている。

 ルポライターの鎌田慧氏は、『家族が自殺に追い込まれるとき』のなかで、自殺までの経緯(教職員とは「君が代」未実施で了解済みだったが、教育委員会のプレッシャーと周辺校の状況がそれを許さなかったという苦悩の経緯)にふれ、この修学旅行を石川校長が自ら引率していたことに言及した上で、「石川校長が『日の丸・君が代』にたいして、強い抵抗感をもっていたのは容易に想像できる。」とし、さらにこの記事とこの記事を踏襲した「週刊文春」(三月十八日号)の記事を「死者に鞭うつ記事」であるとしている。

 ところがこの記事は中途半端に引用され、石川校長が現場の教員と対立したから自殺したとかってに思いこみ、世羅高校の教員を批判するのに使われる事がむしろ多い。それこそ石川校長をバカにした話なのである。

○実はこの産経記事には続きがあるのです。

以上がネット上の記事の検証だが、実は実際の産経記事には続きがある。

「韓国への修学旅行を引率した世羅高校の複数の教員は『韓国でどう報道されているかは分からないが、宣言文を読み上げる前に生徒たちが座った形で集会を開催。座ったままで黙とうして、頭を下げた生徒もいたと思う』と話している。
 広島県教委や世羅高校によると、修学旅行は昨年十月十五日から三泊四日の日程で、自殺した石川敏浩校長を団長に、二年生約二百人と、引率の教員十三人が参加した。
 韓国旅行は、それまでの北海道スキー旅行から、平和学習を目的に実施しており四回目だったという。
 「宣言文」は生徒たちが考えたもので『むかし、不幸な歴史があったけれども、これからは仲良くやっていきたい』との内容だったという。」

さらに同じ日の読売新聞にも報じられている。

「昨年の修学旅行を担当した世羅高校の教諭は「平和学習の一環であり、謝罪旅行ではない。三・一独立運動記念碑前では、座っただけで、ひざまずいてはいない。韓国の新聞で謝罪文としているのは宣言文で、生徒が考えた。垂れ幕には『平和をつくろう、私たちの手で』と書いてあり、謝罪の言葉はない」と話している。」

そう。教員の言葉を信じれば、土下座どころか謝罪行事ですらないのである!謝罪行事でなければ土下座などするわけがない。「韓国日報」はなぜかってに「謝罪文」「謝罪行事」としたのだろうか。まったく迷惑な話である。

○あえてゆずって言う

だいたい、あえてそういう事実(世羅高校がソウルの独立運動記念公園で行っていた行事が謝罪文を朗読するなどの“謝罪行事”であったという事実)があったということにしても、韓国側が謝罪を要求し無理矢理させたものではなく、学校側が自発的に行ってきたものだということだ。なぜこの記事を引用して「韓国人が謝罪させた。けしからん」という人がいるのか全く理解できない。その点確認。
あらゆる理由で、この件で韓国のあり方を批判するのはどう考えてもお門違いなのである。
ちなみにこの記事を間違いであるとした上で、「土下座させたというのは韓国側の捏造」として結局韓国を批判するのに用いる人もいるようである。本文に「土下座」という表現がないにも関わらずこんなことをいうのは、よっぽど韓国がお嫌いなのでしょう。もし言えるとしたら「なぜかってに”謝罪行事”と表現したのか」ということくらいであろう。それも韓国ではなく韓国日報を批判すべきである。

○直接関係ありませんが、ついでに。

ついでに、ネット上でよく言われる話について。

「世羅高校の教師は誰一人石川校長の葬式に行かなかった。けしからん!」というやつ。

事の発端は、広島県選出の代議士・亀井郁夫が行った次の質問です。

◆自殺校長宅での焼香 世羅高の教員はゼロ

国旗国歌、異常な現場を“告発” 自民・亀井氏
 「いまだに(自殺した)石川校長が職場をともにした(広島県立)世羅高校の先生が、線香を一本もあげていない」-。二日に行われた参院国旗国歌特別委員会における質疑で、広島県議時代から県教育界の正常化に取り組んできた亀井郁夫氏(自民)が、卒業式での国歌斉唱などの取り扱いを苦に今年二月に自殺した石川敏浩校長の自殺で浮き彫りになった広島の教育現場の異常さを“告発”した。
 これまで三回焼香に石川校長の自宅を訪れたという亀井氏は、世羅高校の教員が葬儀には参列したもののその後、焼香に訪れていないことを指摘して、「人間としてこんなことが許されるのか。一人くらい線香をあげる人がいてもいいと思うが、ゼロということに驚いた」と慨嘆。さらに、「数十人の世羅高校の先生が完全にマインドコントロールされているのか、あるいは何かが怖くて参ることができないのか。何が怖いか。解放同盟であり、教職員組合だろう」と述べ、反「日の丸・君が代」教育運動を展開する部落解放同盟広島県連合会、広島県高校教職員組合などに矛先を向けた。
 野中広務官房長官も、「石川校長を死に追いやるところまで追い込んだ先生方がどうして一人も校長の心情を分かってやろうとしなかったんだろうと思うと悲しく思う。この背景にあるものに問題を感じる」と亀井氏に同調。そのうえで、「石川校長の自殺を無にしないために勇気をもって対処したい」と
法案成立への思いを新たにしていた。
産経新聞 平成11年8月3日

亀井氏や野中氏の発言自体、国旗国歌法案を成立させるためにこの事件を利用するための発言で、どこまで信じていいのか分からない。それにしても葬式には参列したというのに「線香を一本もあげていない」と指摘する、というのはどういうことだろうか。葬式に参列すれば当然線香をあげているだろう。葬式とは別にみんなが自宅を次々に訪問するべきだというのだろうか。そんなことをすれば、肉親を亡くされたばかりのご家族がどれほどお疲れになられることか。それとも広島にはそういう風習があるのであろうか。

しかもこれがネットに乗ると、例えばhttp://rkrc5w2q.dyndns.org/cache/asia/kaba.2ch.net/asia/kako/998/998619025.htmlなどには、この記事の紹介(40番)の直後の42番の投稿にすらすでに「誰一人として、葬式に行かない教員達も異常としか思えない。」と葬式にさえ行かなかったことになっている。みんな葬式には参列したんだよ!かってに勘違いしてかってに怒っているんだ。実に滑稽です。

「教師たちが赴任したばかりの石川校長を土下座させて謝らせた」という話も散見されるが、ニュースソースは「アッサヒ新聞」という反朝日系サイトの信用できない投稿です。こんなあやふやなものを信じて論を立てるのはどうかしています。

○2ch投稿の検証

後半の女子高生の書き込みはどうであろうか。この書き込みは、2chの「【もうね】カンコク大嫌い【うんざり】」というスレの514、516、518、519番である。

まず本文に2004年2月20日未明の文章として「今日帰ってきました」とあることから、2月19日に帰ってきたことになっている。翌日20日は金曜日である。疲れて帰ってきて翌日登校しなければならないはずで、おそらく学年末考査も近いはずの高校生が、深夜(2:29~2:51)に長文の書き込みをしているのである。私はその時点で不自然さを感じる。15日の日曜出発の4泊5日の修学旅行なら代休で翌日は休みだとする考え方も確かにある。しかし疲れているはずの女子高校生が深夜2時半から22分間にわたって4回に分けて投稿しているのである。それだけでおかしいと感じないだろうか。
 また、2月という極寒の時期に韓国へ行くのも不自然だと思っていたら、韓国観光公社によると2005年度は3~4校あったらしい。この2003年度はSARSの影響により韓国への修学旅行が半減した年度であることから、もっと少なかったかもしれない。ちなみに平年では、ネット上に毎年スキー目的で行くところが2校。他に11月シンガポールの予定がSARSの影響で秋のシンガポールから2月韓国になった、毎年行き先を変えているその内の1回行った、等の話は発見できる。しかし2004年2月19日に日本に帰ってきた学校は見つからなかった。同じ2月でもほとんどが前半に終わっているのである。なぜなら2月中旬~3月までは、入試・学年末考査・卒業式と学校は大忙しなのである。

ついでながら、出入りの旅行業者に「土下座させられるなんてことがあるのか?」と聞いてみた。「私は聞いたことはない」「韓国は日本の修学旅行の受け入れに真剣だから、そんなことをすることはまず考えられない」「そんなところがあったら業者サイドで『あそこは行かない方がいい』という情報が回る。保護者から文句が出て業者選定してもらえないと困るから、業者はそういう情報に敏感ですよ」「スキー以外で2月に行くのは突発的なハプニングで他に予定されていた修学旅行ができなかった場合でしょうね。韓国の美しい季節からは春か秋ですから。」との至極常識的なお答えをいただいた。そうだよね、ふつう。はっきりいってそんなことをする学校があったらかなり変わっている。

以上の結果から私は、このメールはウソの可能性がかなり高いといいたい。教育現場を知っている人間から見れば、あまりにも不自然なのである。ちなみに、このメールの該当校を奈良県の智弁学園では?とするブログがあったが、智弁学園の2004年度の修学旅行は4月19日~23日と20日~24日の2団編成であり、明らかに異なる。
 ちなみにこのメールの内容を認めた上でもやはり最後は日本側の教師が「謝ろう!」と指示したことになっている。やはり韓国側の問題ではないのである。
 こんな話を取り上げて、「韓国に修学旅行に行ったら土下座させられる。けしからん。」などと騒ぐのは、「こんな話を待っていた」という人だけではないだろうか。

○まとめ

韓国への修学旅行をどのようなものにするか、ということは韓国とどのような関係を築くのかということと深く関係することは論を待たない。私は交流団で韓国に行ったことがある。完全に対等に握手し、笑顔を交わし、出迎えや見送りを受けた。本当に韓国が好きになった。全く通じない日本語と韓国語で、夜の東大門市場のはずれの屋台で楽しい酒を飲んだのもいい思い出である。日本に暮らす在日の友人も多くいる。中にはソウル大学へ入った人もいた。そんな私からすれば、こんな両国関係を分断するような情報が一人歩きする状況がどうしても理解できない。日本の中に存在するこのような風潮はなんとしても廃していきたいものである。
 韓国修学旅行をどのような修学旅行にするのか。本当の友好のために今後の思索課題としていきたい。

(付記)

ここで投げかけを。
「韓国に修学旅行に出かけて土下座してしているあるいはしたことのある学校は、果たして本当に存在するのでしょうか?」
私は、上記2ch情報以外にネット上も現実の上でもうわささえも聞いたことがありません。
ご存じの方、お知らせ下さい。

(追記) 世羅高校駅伝優勝おめでとうございます!2006.12.25
(追記2)
 約2年間にわたってこの問題に興味をお持ちの多数の皆さんに、ページを見て頂きましたが、いまだに「韓国で土下座させられた」という学校の証言者、あるいは知っている人は出てきません。よって過激に結論。
韓国の修学旅行で土下座させられた学校は存在しない!
事実が確認できれば、内容の修正にやぶさかではありません。お知らせ下さい。

「韓国修学旅行で土下座って本当?」その後をアップしました。2008.5.27

「韓国修学旅行で土下座って本当?」再びをアップしました。2009.10.19

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朝鮮学校の生徒をいじめるバカ

 朝鮮学校の生徒へのいやがらせが続いているらしい。北朝鮮の核実験のニュースから予測していたとおりである。そんなやつが日本人のなかにいるかもしれないと思うと情けない話である。こんなことでしかうさを晴らせない悲しい連中である。奴らは別段主義主張があるわけでもなく、朝鮮学校の生徒たちに何の罪もないことは百も承知で、これを機会に普段の自分のうっぷんを晴らすのである。

 朝鮮学校の皆さん!彼らは、勉強ができなかったり、進路に不安だったり、仕事で上司に叱られたり、家庭で奥さんの尻に敷かれたり、子供から相手にされなかったり、様々な鬱屈をかかえているのに自分の力では解決できないかわいそうななさけない連中なのです。そんなやつらの被害を受ける筋合いは皆さんにはありませんが、「かわいそうに」と哀れんでやって下さい。そして我慢などせずにすべて警察とマスコミに具体的に訴えて下さい。

 こんな手合いが同じ日本にいることが私はなさけない。こういう責任転嫁はどうして起こるのだろう。事件が起こると共犯者でもないのに犯人の家族までが社会から抹殺される。学校や会社で事件が起こると同じ学校の生徒や会社の職員まで同じに見られる。一部の教師が不祥事を起こすと全ての教師が変なやつに見られる。すべて同じではないだろうか。世の中の見方があまりにも単純すぎる。世の中はもっと複雑で深い。そんなことは少し主体的に生きてみようとすれば分かることだろう。受け身で無責任に生きるからそんなものの考え方になるのではないだろうか。そんな奴らを誰が育てたのか。教師と親である。私も責任者の一人。だから謝ります。申し訳ありません。

 朝鮮学校の皆さん!異国の地である日本で、自らの文化を守り受け継ぐために作られた学校で学ばれる皆さん!がんばって!バカな犯罪者に教えてやって下さい。文化は暴力よりも強いということを。暴力は分断の道具で、文化は交流の道具だということを。北朝鮮は残念ながら分断の力を強めようとしているように見えます。そんな今こそ皆さんの文化の力が大切だと私は思います。

 前任校で「3年間で一番印象に残った人権学習は何でしたか」とアンケートをとったら、朝鮮学校の生徒との交流で聴いた「サムルノリ」の演奏が一番でした。皆さんの文化には間違いなく人と人をつなぐ力があります。是非がんばって下さい。

文面訂正しました。

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酒気帯び運転に思う…二日酔いは犯罪か?

 酒気帯び運転による事故がクローズアップされている。福岡の考えられない悪質な事故以来、特に公務員による酒気帯び運転に対する風当たりがいっそう強くなったようだ。それにしても、酒気帯びや飲酒運転が言語道断であることは当たり前として、それを公務員の評判を悪くする方向に報道するマスコミの節操のなさは何なのだろう。他にも一般の方もいっぱい検挙されているのに。具他的な事例を報道されるのは公務員だけだ。

 しかし、今日報道された函館の中学校教諭の事件は納得がいかない。実際に事故がおこっており、当事者からアルコールが検出されているのだから検挙はやむを得ないと思うが、飲酒自体は昨晩のことである。つまり「二日酔い」である。以前にどこかの教頭先生が車の中で朝を待ち、運転したら検挙されたという事件があった。これも検挙自体はやむを得ないが、そんなに大きくニュースにするべきことだろうか。福岡の事件とは明らかに質が違う。

 二日酔い運転の検挙がそんなに大きな事件だというなら、夜に飲酒をした人は、朝起きたら呼気を調べなければ自動車に乗れないということにならないか。何なら調べてもいいが、呼気を調べる機械などどこに行けば買えるというのだろう。どこにも売っていないとすれば、夜に酒を飲んだら翌日朝に車に乗るなというに等しい。(以外と売れていることがその後判明。企業や役場が買っていくのかな?)

 今の日本は一つの批判対象があれば、それに似通ったものは、細かい検討なしにいっしょくたにすべて同質の物として批判される。オウムが犯罪を犯せば創価学会も幸福の科学も同じに見られる。子供の犯罪が続けば教室の中で子供がけんかしても報道される。行政の無駄使いに「私の仕事館」のような有意義な施設までが俎上にのる。マスコミがセンセーショナリズムに陥って、売れればいい、視聴率を稼げればいいになっていることが、国民を思考停止に陥らせるのである。今回の報道だって警察の発表をそのまま流したのだろう。どのようなニュースを流しどのようなニュースを流さないのか。その取捨選択に関して今のマスコミは官製報道機関に陥っているのではないのか!

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知られざる偉大な日本人シリーズ1(ダショー西岡)

 時々だが、知られざる偉大な日本人シリーズを書いていきたいと思います。日本人にもすごい人(人々)がいるものである。発見次第ご報告したいと思います。日本人の誇りを取り戻す為にも。

1.ダショー西岡(西岡京治)さん

 「こんなすごい人がいたのか」というのが実感である。西岡京治さんは、ブータンの農業指導に携わり、ブータンの食糧事情を変えた人物である。その功績を称えてブータン国王から外国人初の「ダショー(ナイト)」の爵位を授けられた。

 はじめ話は師匠である中尾佐助氏にあった。中尾氏は自身の娘婿でもある愛弟子の西岡さんを適任者として推薦した。二人は山岳植物の研究をしていたそうである。

 JICAからの任期は2年間だった。しかし、ブータンの食糧事情は2年での帰国を許さなかった。収穫率は低く、平均年齢は40代だった。彼は農民と話し合い、栽培する野菜や稲作の技術を押しつけではなく納得の上でブータンに根付かせようとした。まず、自分で実験農場を経営し、作って見せる。その野菜を市場に出し、圧倒的な品質を見せつける。その上で希望者に技術を伝える。橋を架ける際にも、膨大な費用を使って立派な橋を架けるのではなく、みんなで自分たちの橋を架けるのである。身の丈にあった支援に、結局28年間という歳月を使われた。そしてブータンでその命を閉じたのである。ブータンで行われた葬儀は国葬となり、多くの人々が参列したそうである。

 なによりすばらしいのは、今のブータン農業は西岡さんの弟子が支えているということである。後継者をつくったということである。彼は一流の教育者でもあったということであろう。

 

 

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いじめの認識

 県教委が自殺した児童の遺書を隠して、いじめを認めない事例が発覚した。明らかに公務員の防衛本能。県教委というのは何か事件が起こると「通達」を出して責任を現場に押しつける。そして、事が起こると隠したがる。いじめでないと思うなら遺書を隠しておく必要はない。隠した時点で県教委もいじめの可能性を考えたに違いない。

 何よりも悲しいのは、いじめの定義を暴力や罵詈雑言を伴うものと、ここの県教委が考えているらしいことである。無視やつぶやき、いやがらせによるいじめのほうがはるかに多いというのに、こんな理解を放置しておけば現場は混乱する。早く非を認めて欲しいものだ。

 私は、いじめはどこの学校のどこのクラスでも発生する可能性があると思う。人間は未熟だ。まして子供である。いじめが発生したクラスの担任が「信じていたのに」と落ち込んで学校に来なくなったという話を聞くが、何をかいわんである。自分が相手にしている対象の本質が分かっていない。人間はつねに弱いものである。人よりも上になりたい、とかあの人がうとましい、などの感情に支配される可能性は常に誰にでもある。しかし、そうした弱い自分を発見し、対決し、打伏せる強さを身につけるのが教育の目的の一つである。教師は「危ない生もの」を扱っているという緊張感を持たなくてはならないのである。

 しかし、人間は弱い存在であるという認識を持たなければならないのは教師だけではない。保護者も世間もマスコミも、そこを理解をしなければならない。いじめを放置したこと、いじめを隠したことは担任の責任にしてもいいが、いじめが起こったこと自体は担任の責任ではないのである。いじめが発生した時こそ、関係者が理解し合い団結して教育に当たるべきなのに、担任を攻めている場合ではない。そんなことですぐに誰かの責任にしようとするから、県教委も防衛的になるのではなかろうか。

 今回の件では、担任も相談に乗ったにもかかわらず、自殺を食い止めることはできなかった。「まさか自殺するとは思わなかった」というのが、担任の正直な思いであろう。認識の甘さを反省しなければならないのは当然であるが、おそらく相当に落ち込まれているであろう。しかし、これも本来、担任だけのことではない。すべてを学校や担任の責任にするのではなく、すべての人が人間は弱い存在であることを認識し、最悪の事態を想定しながらも、この子も必ず強くなれるとの確信を持ちながら、思いやりのある生き方をしなければ、さらなる悲劇は繰り返されると思えてならない。

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戦犯は誰に責任を負うのか(靖国の戦争責任)

 安倍新政権が発足した。小泉政権がぶちこわした中韓との関係がどうなるのかが、今注目されている。小泉前首相は靖国参拝を「心の問題」としてかたずけようとしたが、教師に日の丸・君が代を強制することは「国民として当たり前」としている。私は公務員なので、自分の信条とは別に国民の支持した政権に従う覚悟は持っているつもりだが、公務員のトップたる首相が国益を犯してまで自分の心にとらわれることには納得できない。彼の主張には公務員としての一貫性がないと思う。

 それはともかく、一度自分の靖国と戦犯に対する考えをまとめておこうと思う。先の大戦について日本がとるべき責任とは何であろうか。日本が侵略行為をして、それに対して誰かに責任をとるべきであるということに私は異論がない。しかし、それは欧米諸国に対する責任ではない。中国・韓国・東アジア・南太平洋等、日本が侵略した国と地域の人々に対してとるべき責任である。欧米諸国は日本よりも早くからアジア・アフリカ・北南米を侵略し虐殺してきた先達である。日本は強盗を働いたが、強盗から強盗呼ばわりされる筋合いはない。彼らに日本を罰する権利はないのである。誰に責任をとるべきか。そこのところが現代の日本では混同されているのではないか。

 つまり、勝者が敗者をさばいた、「平和に対する罪」という当時存在しなかった容疑を裁いた東京裁判には意味がない。インドのパール判事のいう通りである。東京裁判を否定する人はここで思考停止するが、あれだけの人々を日本本意に殺しておきながら、誰も責任をとらなくてもいいというのであろうか。欧米がやったのと同じ事をしたのだからいいというだろうか。それよりも気になることがある。東京裁判を否定する人から、「世界平和への情熱」を感じることができないのはなぜなのだろうか。ともかくあの裁判は侵略された側の視点からやり直す必要があるのと私は思うのだ。

 さらに私は、もう一つの責任があると思う。誰が国民をだまして無謀な戦争を引き起こし、泥沼につっこみ、死ななくてもいい国民を死地に赴かせたのかということである。このことは日本人が考え、日本人が責任を問わなければならない。アメリカなどという無法者国家に言われるものではない。つまり、当時の日本政府が日本国民に対してとるべき責任である。

 そうした視点から私は、東郷や近衛はやはり戦犯であると思う。そんなやつらを被害者ともいえる戦死者と同じ所に祀ったことが私には信じられない。本当に戦死者が神になっているのなら、きっと彼らはつまはじきにされているだろう。

 いや、さらに言いたい。靖国には責任はなかったのか。靖国が戦争遂行の精神的支柱となったことは間違いない。戦争遂行責任者が靖国を利用したのだとしても、靖国にも利用されたものとしての責任の取り方があるのではないのか。しかし、今は宗教法人となった靖国神社からそんな総括は聞いたこともない。だから靖国に平和の祈願のためにいくのだと小泉が言っても信じられないのである。

 安倍政権の誕生がいい機会だ。もう一度、あの戦争はどのように始まりどのように進んでいったのか、日本の当時の立場で総括しよう。侵略された被害者の側とも忌憚なく意見を交換しよう。

 君が代を「世界各国との友好を歌った歌」、日の丸を「平和国家日本の日が昇る」と解釈でき、外国がそれを認めてくれる日を望む。

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Google Earth日本版で地理ネタを拾う3

さらに探して見た。でもちょっと今回は不満足。

 ところで、アメリカのイリノイ州とテキサス州当たりが見えないのは、国家機密に属することがあるからだろうが、ずるい!北朝鮮の核施設まで写しているのだからフェアじゃない。

 あっそうか。これってアメリカの他国への無言の圧力か!俺も鈍いね。まあ、とりあえず面白いのでよしとしよう。

 ☆農業関係

 ○バリ島の棚田

  8°27'38.80"S 115°10'46.88"E

 ○マレーシア・サラワク州のアブラヤシプランテーション

  3°46'56.24"N 114° 0'16.37"E

 ○アメリカ西部の等高線耕作

   44°20'57.55"N  92°36'23.41"W

 ○乾燥地のセンターピボット灌漑農業(サウジアラビア)

   28°40'49.15"N  36°19'48.50"E

 ○ポーランドの混合農業地域

  54°15'4.54"N 18°53'37.17"E

 ○中央アジアの塩害

  40°17'52.13"N  62°20'21.70"E

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市民運動に思う(腹の立つ事)

 各地に市民運動がある。そのこと自体何ということもない。がんばって盛り上げなければならない運動もあるし、私も協力したことがある。忘れられないのは「カンボジアにラジオを送る」運動である。内戦直後のカンボジアの奥地にまで情報を速やかに届けるのにラジオが一番だということで、カンボジア暫定統治機構の明石靖さんが日本の家庭に眠っているラジオを送って欲しいと要請されたことに始まる運動だった。私も駅頭に立ったが、たちまちに100個を超えるラジオが集まったことを覚えている。有意義な協力ができた実感があり、うれしかったものである。

 しかし一口に市民運動といっても、一様ではない。時々変な市民運動を見かける。何のためにやっているのか、誰のためにやっているのかわからない運動が存在するのである。

 もっとも疑問に思ったのは、「豊郷小学校校舎存続運動」である。豊郷小学校の校舎は、私も見学したが、建築家ボリーズの作った威風堂々としたすばらしい校舎である。この校舎を壊して新校舎を建てる計画がでた時に、住民の反対運動が起こったのである。「私たちはすばらしい校舎で学んでよかった」「あの校舎で学ばせてあげたい」「町長が校舎をつぶすのはけしからん」というのである。しかし、本来どのような校舎で学ぶのかはどのような教育をするのかという問題と直結している。つまりどのような校舎を選ぶのかという問題は、学校の主役である教師と児童(その背景にいる保護者)の意見なしにはありえないのである。なのにこの問題では教師の声はいっさい聞こえてこなかった。校舎の耐震問題も対不審者の安全構造の問題も議論されなかった。保護者の声も聞けなかった。

 声を出しているのは過去の卒業生と歴史家や他県の見学者。「おまえらは脇役やろ!すっこめや!」教師の問題意識も児童の安全も議論されずに、「住民」を名乗る方々が主役を乗っ取っていたのだ。私はこれを「主役偽装」とよびたい。

 それにしても、マスコミはなぜあんなに「住民運動」という言葉に弱いのだろう。

 私は歴史屋の端くれなので「校舎を残せ」は理解できた。しかし教師なので「校舎を使え」は理解できなかった。だからおかしいと思ったのである。もっとも運動の責任者も元教師らしい。運動家であることにうつつを抜かして現実の教育を忘れたに違いない。

  結局まず町長とけんかをすることが目的で、戦場に学校を選んだということだろう。実は運動の責任者に、「我々が現代のボリーズになって今の技術の粋を尽くして最高の校舎を建てればいい」とメールしたら「それでは町長の思うつぼだ」と帰ってきた。つまり端からけんかが目的なのだ。児童はそのけんかの被害者である。校舎がきずつけられて泣いている児童の声が繰り返し報道されたが、校舎がきずついて泣いているのか、大人がののしり合っているから泣いているのか、分からなかった。運動している方々にそうした加害者意識はないだろう。「自分が主役」だと思いこんでいるから。

 カンボジアの国民を主役として、日本の市民が協力する。あんなに気持ちのいい取り組みはなかった。しかし、この運動は違う。なにか他の目的が透けて見えるのである。私はこれを「臭う」と表現している。

 他にもなにか「臭う」市民運動がある。主役は混同されていないか。私はこれが市民運動を見分ける一つの基準であると思っている。 

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Google Earth日本版で地理ネタを拾う2

引き続き、Google Earth 日本版を使って地理授業で使える風景を探してみた。第2弾です。

☆集落・都市

○環濠集落(奈良県稗田) 34°38'26.30"N 135°47'42.76"E

周辺には条里制地割りが残り塊村形態が見られます。

○輪中集落(三重県桑名市) 35° 3'26.29"N 136°43'17.52"E

○新田集落(埼玉県所沢市) 35°49'50.47"N 139°28'38.60"E

このあたり新田集落だらけです。路村形態の典型と短冊形地割が美しいです。

○散村集落 (富山県砺波市)  36°33'59.43"N 136°55'53.59"E

日本を代表する散村です。

○円村集落(ドイツ・ネルトリンゲン)  48°51'3.01"N  10°29'23.41"E

典型的な中世の囲壁都市です。

○星形城塞都市(オランダ・ナールデン)  52°17'45.95"N   5° 9'45.86"E

びっくりしました。とにかくヨーロッパは、都市が美しい。

○政治都市(ブラジル・ブラジリア)  15°47'1.70"S 47°54'10.76"W

      (ナイジェリア・アブジャ)  9° 2'57.46"N   7°29'42.11"E

日本人による設計です。あまり鮮明ではありません。

☆小地形

○河岸段丘(群馬県片品川)  36°39'1.26"N 139° 5'48.38"E 

見事です。

○海岸段丘(フランス・ノルマンディ地方) 49°21'5.52"N   0°46'30.75"W

海岸段丘は上空からはわかりにくいです。

○山岳氷河(パタゴニア)  49°49'18.63"S  73°14'46.26"W

氷河が途中で溶けて川になっています。

○陸繋島(北海道・函館)  41°45'24.75"N 140°42'42.65"E

○潟湖(北海道・サロマ湖) 44° 8'16.28"N 143°48'3.22"E

 以上の経緯度をジャンプ・タブの一番上の空欄にペーストし、右にある虫眼鏡をクリックすれば、恐ろしい早さで地球が回りズームインします。写真を貼ろうかとも思いましたが、ご自分でやられた方が絶対に面白いです。

 他に面白い場所や使い方を知っておられる方、是非お教え下さい。

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剣道再開!

 前回にも書いた通り、子供の剣道のつきあいから、最近少しづつ剣道をやる羽目になってしまった。

 この年になると高校時代と間合いが違う。イメージが体に伝わらない。無理をするとガタがくる。そんなもどかしさを感じながら基本打を中心に再開した次第です。

 ここまでにも再開するきっかけはあった。しかし踏ん切れなかったのは、一つは暇がない。今でもないけれども少し時間はましになったのだ。二つには体力に自信がない。やった翌日にも仕事があるわけで、それを考えるとできないなと思ってしまう。三つには機会がない。実際には機会は全くないわけではないが、ちょっと敷居が高いかなと思ってしまうのである。

 敷居が高い第一の原因は、上下の序列であると思う。普段全くやっていない者が上の方に稽古をお願いすることは、なんだか恐れ多い事であるかのように感じてしまうのである。ある程度稽古をした上であるならお願いもできるだろうが。ボールがあればバスケットやバレーのまねごとはできるが、棒があったからといっても素振りはできても剣道のまねごとはできないのである。再開に心構えを必要する所以ではなかろうか。

 潜在的剣道愛好家が竹刀を握れば剣道は別の次元に世界を広げられる。これは今剣道を再開した私の持論である。

 「今。君たちのなかには卒業と共に剣道をしなくなる者もいるかもしれない。でもそれは剣道を休んでいるということだと思いなさい。なぜなら剣道はいくつになってもできるのだから。」私の恩師の言葉である(なぜか今日思い出した)。

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進学校と困難校と

 私はこれまでの教員生活の中で、いわゆる困難校の勤務が長かった。家庭に問題を抱えている生徒、精神面で不安定な生徒、問題行動を繰り返す生徒など様々な生徒と関わってきたが、近年生徒が学校の中で自己実現しようとしないという傾向性を感じてきた。携帯電話のせいだけではあるまい。とにかくアルバイトをしたがる。クラブも勉強も二の次である。学校行事も自分たちで作ろうとはしない。「楽しませてくれよ」という姿勢だから「面白くない」という理由だけで、クラス取り組みにも参加しようとしない。そんな生徒が増えていることを感じていた。

 ところが数年前からいわゆる進学校に赴任し驚いた。始業式の静かさ、授業の集中度など違いはたくさんあるが、なんといっても学校の中で楽しむすべを彼らは知っているのである。クラブの取り組みの真剣さだけでなく、学園祭の盛り上がり、修学旅行のバスの中の盛り上がも完全に困難校の上である。「こいつら得なやつらやな」といつも思う。同じ学費を払って楽しみ方が違うのだから。

 しかしそれでもいくつかの点で進学校に不満がある。その一つは、生徒の傲慢さである。自分は勉強ができると思っているから、教師をなめてかかっている生徒がいるのだ。質問も謙虚ではなく、けんかを売っているのかと思うような言い方をする。「おまえ口の訊き方に注意せい!」と叱ることたびたび。

 2つ目には叱られなれていないのである。優秀だったのだろう。叱られていない。叱るとすぐにすねる。反省する前に恨む。自分の前に「不満足な状況=ストレス」が立ちはだかることになれていないのである。学校行事で起こった誰の責任でもないハプニングにクラス全員で「謝って下さい」と迫ってきたことがあった。何を言いたいのかしばらく理解するのに時間がかかった。彼らはハプニングを自分たちで消化できず、教師に責任転嫁することで解消しようとしていたのだ。最近、有名大学の学生が、母親や塾の生徒や友人を殺す事件が報道されているが、なんだか分からないでもない。誰かのせいにする。ようは精神的に弱いのだ。

 困難校の方が、生徒との人間関係は結びやすかった。叱ってこづいて追いかけて、深く関われば関わるだけ何でも相談に乗れた。それもまた進学校にはない楽しさであった。

 来年、転勤希望をどうしようか悩んでいる。

 もう一度原点の困難校へ戻るべきか。今のままでもう少し勝負するべきか。

 どちらが前向きなのかな。

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グーグルアース日本版を試してみた。

「グーグルアース日本版(地理)総集編1」ここが最新の総集です。

http://yojinn.cocolog-nifty.com/blog/2006/10/post_f2b1.html

    Google Earth日本版をインストールして見た。まあこれが面白い。場所(経緯度)を指定したらそこを目指して地球が回り、急速でズームイン。「これは社会の授業に使える」と思い試しにいろいろ探してみました。今は地理を担当しているので今回は地理の地形編

大地形

       広がる境界   東アフリカ大地溝帯      0°36'31.77"S 36°14'20.66"E

       ずれる境界   サン=アンドレアス断層    38° 2'46.31"N 122°46'3.67"W

       ホットスポット 天皇海山群          41° 0'46.30"N 169°36'1.56"E

       安定陸塊    エアーズロック        25°20'47.40"S 131° 2'5.50"E

      

 小地形

       円弧状三角州  ナイル川デルタ       30°33'49.02"N 31°13'4.77"E

       カプス状三角州 ティベレ川デルタ      41°44'58.67"N 12°14'29.09"E

       鳥趾状三角州  ミシシッピー川デルタ    29° 6'23.25"N 89°16'0.56"W

       三角江     テムズ川三角江       51°31'43.20"N  0°35'15.47"E

       リアス式海岸  リアスバハス海岸      42°27'27.14"N 8°56'43.40"W

       フィヨルド   ソグネフィヨルド      61°12'39.83"N 5°47'50.89"E

以上の経緯度をそのまま「検索」の「ジャンプ」タブの空欄にペーストして、その右の虫眼鏡をクリックして下さい。

ちょっと探しただけでこれだけ見つかりました。他に知っている方おられましたら、お教え下さい。

こちらもどうぞ

「Google Earthで地理ネタを拾う2」

http://yojinn.cocolog-nifty.com/blog/2006/09/post_0781.html 

「Google Earthで地理ネタを拾う3」

http://yojinn.cocolog-nifty.com/blog/2006/09/google_earth3_c635.html

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児童手当の拡大とバラマキ批判

 今年から児童手当の支給対象が拡充される。今までの小学校3年生までから6年生までになるという(ちなみに9月30日までに手続きをすれば4月にさかのぼって支給されるらしい)。

 少子化が叫ばれて久しい。国も様々な対策を立ててはいるが結果はまだまだ出ていない。欧米の少子化先進国の対策に学ぶとともに、唯一出生率をあげた福井県の他県との違いを研究し対策にあてていただきたいものである。

 さて、児童手当等の支給が論じられるときいつも気になるのは「バラマキ」批判である。選挙になると必ず「その政策はバラマキだ!」などと使われる。野党とマスコミが好む言葉であるが、そもそも「バラマキ」とは何なのだろうか。その定義は実にハッキリしないが「あれはバラマキだよ」といわれると、妙に心に刺さる言葉ではある。恐らくは「一部の人だけが得をし日本国全体の利益にならない税金の使い方」というような意味かと思われる。

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 その定義に従った場合、少子化対策はどうであろうか。少子化対策自体が一家庭の問題ではなく国の課題であることは言うまでもない。少子化を食い止めるために児童手当を支給することが少しでも子育て家庭を応援し負担を軽減することになるということもいうまでもない。私には児童手当政策が「バラマキ」批判を受ける理由がまったくわからない。政敵をいじめるためにあえていっているだけなのではないのか。

 「児童手当を拡大しても出生率は上がっていないではないか。それならやっぱりバラマキだ。」という声もあろう。それは金額が足らないことが第一の理由。「バラマキ」批判が国民に届き、政策の効果が現れにくくなっていることが第二の理由だと思う。もっと手厚い金額を支給しなければ効果は現れないと私も思う。しかし、現在の制度が存在すること自体、国として少子化対策に取り組もうとする最低限の意思表示であると思う。「バラマキだ」という批判は児童手当という政策そのものに対する批判。「金額をあげろ」という批判は児童手当の拡大を求める批判である。根本から違う。

 特に第三子を持つ家庭に対するケアをもっともっと手厚くする必要があると思う。そこに手を入れれば出生率はあがる。さらに、欲しくても生めない家庭の現状の改善ももちろん必要であろう。つまりは不妊治療に健康保険を使えるようにする、働きながら子供を育てられるようにする(託児所付き職場の徹底・育児休暇時の収入の確保など)が必要であろう。もっといえば、生まない人へのケア(子育て不安へのケア・晩婚化への対応など)も大切であろう。

 批判だけの批判はやめていただきたいのである。そんなことをしても何も前進しない。前回の衆議院選挙で民主党は、与党の少子化対策中でも児童手当を「バラマキ」批判しておきながら、自らのマニフェストには児童手当の拡充をうたった。そういうところが信用できない第一の理由なのである。

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太田総理へ

 久しぶりにテレビを見ていたら、「太田総理」とかいうのをやっていた。公約(マニフェスト)を掲げて議論する。まあいえば、太田氏の言葉の多彩さをアピールするのが売りの番組だ。「朝ナマ」もそうだが、テレビカメラの前では矢継ぎ早に自分の意見を言う方が勝つ。相手に意見を言わせない。それは議論ではなく意見表明である。「熱血教師を撲滅すべし」というようなマニフェストでは、太田は「熱血教師は暑苦しい」「一つの価値観を押しつけるな」「俺は学校から学ぶものは何もなかった。教師は授業だけでいい。」などと言っていたが、自分の小さな経験の中に世の中のすべてを押し込めようとする暴論だ。自分があれだけ熱血して自分の意見を主張している姿と明らかに矛盾している。「漫才士は他人の価値観を変えられる仕事だ。政治家なんかより上だ」なんていっているが、すべての人の価値観を変えることなどできはしまい。教師も同じだ。自分が生徒の人生に価値あるかかわりをどれだけできるか日々勝負しているが、彼の出会った教師は、残念ながら失敗したということだろう。しかしながら、そのことが即「熱血教師はいらぬ」ということにはならない。(熱血教師の定義って何だろう?)

 その上でしかし、「太田総理」の発言には傾聴するものがあった。というのは、今日地理の授業で「朝鮮半島」を範囲としたのだ。その際私は、「韓国併合条約」についてこういった。「国際法上問題はない、という人もいるけれども、日本の強制だったのではないのか。手続きと実際とどちらをとるのかという問題だ。同じ事が日本国憲法にも言える。アメリカから押しつけられた、という現実?とクリアーしている手続きとの問題だ。手続き重視なら、韓国併合と日本国憲法をどちらも認めるべきだ。」と。その上で、「私が本当に大切だと思うのは国民が歓迎したのかどうかの現実だ。」と述べた。「太田総理」はそれを見事に言った。「日本国憲法はアメリカの押しつけだっていうけど、当時の日本人は喜んで向かえたっていう面もあるんだよ。」その通りである。

 最近の日本の言論には原点がない。首尾一貫性がない言論が多すぎる。自分の持っていきたい方向に持っていくために、そのつど便利な情報だけを引いてくる。この文章ももちろん私にとって便利な部分だけを持ってきているわけで、そのそしりを逃れられないが、視点を人間に持つことだけは一貫しているつもりである。

 「太田総理」!いいもんもってるやんけ!その力の使い方をしっかり考えや!

 教師としてのアドバイスである。

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剣道の発展を図るには

 小中高と剣道をやってきた。今はほとんどやっていないが、もっとも身近な競技は何かと問われれば剣道である。

 私の小学生当時、少年剣道にはあふれるほどの練習生がいた。小学校の体育館で道場を経営しておられたが、練習曜日を2つに分けてなおかつ特別練習生の稽古日を別にもうけなければ全員の練習が満足にできないほど多かった。

 なぜか息子が剣道を始めた。血は争えないらしい。久しぶりで面を着けて相手をしてやった。気合いを入れるのが恥ずかしいようななつかしい状態。それとともに「これや!この感覚や!」と興奮せざるを得なかった。とともに、脳が指令する通りに動かない筋肉にイライラ。かくして翌日と翌々日は筋肉痛に悩まされたのであった。

 一般的に発展には質と量の両面がある。質は私には分からない。量の拡大には少年剣道の人口を増やすことと同時に、潜在的剣道愛好家にもう一度竹刀を握らせることである。あの時あふれるほどいた剣道少年の存在はその可能性を感じさせる。剣道は一般的な競技なのだ。

 剣道は柔道よりもはるかに多くの競技人口を抱えている。潜在的人口にいたってはなおさらである。なぜ競技人口が少ない柔道がテレビで突出するのか。ひとえにオリンピックkの存在である。全日本剣道連盟の方針としてオリンピックには参加しないらしい。それはそれでいいと思う。しかし潜在的剣道愛好家の存在に気がつけば、もっと剣道のテレビ放映はあっていいし視聴率も稼げると思う。キムタクをはじめとして(もっと多いが)芸能人の剣道経験者も自信を持って発言する。そうすれば剣道が一般化するのである。全日本剣道連盟も「剣の道」にこだわるあまりに、愛好家の存在を感じられていないのではないか。

 剣道復興の兆しはあると聞く。テレビ放映がもっと多くなることを望む。

 

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高専生事件に思う

 高専生殺害の事件は、容疑者少年の自殺というなんともやりきれない結末となった。ご遺族のご心痛を慮るとなんともいえない気持ちでいっぱいになる。原因が分からない事がさらに苦しさを増すが、友人でもあった二人の間に何があったのかは、二人のご遺族と周囲の友人にしか想像できないことであろう。拙速な想像はするべきでない。

 しかし、この事件の報道は混乱した。「真相はやぶの中」などと容疑者少年の山中での自殺を揶揄するかのようなタイトルをつけた朝の番組があったが、まったく論外である。そういうバカな番組は置いておいて、容疑者少年が19歳であったことから、写真と実名を公開するべきかどうかで議論が分かれた。とにかくおもしろけりゃいい確信犯の自称「文芸誌」である週刊新潮が公開することは容易に想像できたが、読売・テレ朝など大手メディアもこれにならった。

 私には、以前から疑問があった。それは少年法以前の問題として、「加害者・容疑者の写真・名前を公開することで、社会にどのようなプラス効果があるのか」ということである。辛坊次郎氏が今朝、とうとうと公開する理由を言っていたが、それは少年法との関わりである。メディアが加害者・容疑者の写真と名前を公開する理由には彼は言及していない。

多くの人は「そういうものだから」とか「反社会的な事をしたのだから社会的制裁を受けて当たり前」というのではないだろうか。

 しかし、「そういうもの」という考え方は思考停止だ。「制裁を受けて当たり前」という意見には賛同しかねる。というのはハンムラビ法典の時代の「目には目を、歯には歯を」にもどったわけではあるまいし、現代は近代の法体系のなかにある。日本国の憲法では、社会的な制裁は刑事訴訟法に基づいて裁判所が決定することになっている。そういうシステムを守ることが、えん罪を防ぎ加害者の更正を計ることになるという確信の元に現代が成り立っている。

 加害者に社会的制裁を加える資格をマスコミに与えたのは誰なのか。誰もいない。マスコミがそう決めて社会がそう認知しただけ。すくなくとも日本国憲法にはない。はっきり言ってマスコミの傲慢である。

 マスコミが権力を自ら行使するというなら、行使に伴う社会的責任を負わなければならない。誤報に対して、虚報に対して、いきすぎに対して、どのように処置するのか。その基準さえ「報道の自由」の名のもとに定めようとしない。

 これほどの明らかな無責任を露呈していながら、意にも介さずマスコミは事件をアレンジし視聴率に狂奔する。

 「責任を伴わない権利はない。」これは権利教育の基本である。学校での教育にどれだけ今のマスコミの報道姿勢が邪魔か。何とかして欲しいのである。

 本来の使命を自覚せずしてマスコミの未来はない。タブーをもうけず議論したいのである。

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実は、ミュージカル・ファンなのです

 授業で「レ・ミゼラブル」を扱おうと思い、ビデオ(レ・ミゼラブル10周年記念コンサート)を使うことにした。久しぶりで再生して感動が蘇った。この作品を見る前正直「あの哲学的文学をミュージカルにして成功するわけがない」と思っていた。ジャン=ギャバン主演の映画でも今一歩だったからだ。しかし違った。嫁さんに連れられて見た舞台は、感動と驚きの連続であった。むしろ原作を読んだが故の感動があった。思わず大枚はたいて(9500円)帰りにビデオを買ったのである。

 そもそも高校2年生の夏に、「サウンド・オブ・ミュージック」を映画館で見るまでは、ミュージカルに対する私の偏見はひどかった。歌って踊ってお気楽なものだろう、と思っていた。レビューに近い感覚だったのである。しかし、友人に誘われて半ばいやいや入った映画館で冒頭のアルプスの風景が写った瞬間、完全に画面の中に入り込んでしまい、休憩を含めて約3時間はあっという間に過ぎ去ってしまったのである。その日から、私はジュリー・アンドリュースファンになり、ミュージカルファンになり、映画ファンになったのである。「百聞は一見に如かず」を地でいく話であった。その後も、「サウンド・オブ・ミュージック」の歌を英語で覚えたり、「マイフェアレディ」の台本を覚えたりしたものである(マイフェアレディのロンドンキャスト版のLPは今も大切に持っている)。さらに名作映画にも没頭し、そこから外国文学の読書にもつながった。

 それからはむさぼるようにミュージカルを見た。お金のない当時、映画が中心であったが、東京の出始めたばかりのタウン誌で、場末の映画館や自主上映で上映している所を見つけては通ったものである。

 また、「雨に唄えば」「パリのアメリカ人」「バンドワゴン」「五つの銅貨」「回転木馬」「オクラホマ」「南太平洋」「王様と私」「ウエストサイド物語」「マイフェアレディ」「ファニーガール」「オリバー!」「キャバレー」「エビータ」などはビデオも購入した。舞台も「マイフェアレディ」「屋根の上のバイオリン弾き」「ラ・マンチャの男」「レ・ミゼラブル」「キャッツ」「アニー」などをみにいった。

 ミュージカルというのは、現実の世の中や原作から何かを省略することで生じた矛盾を、歌と踊りをいれることで不自然でないものに再構築したものだ。「レ・ミゼラブル」も原作に忠実に映画を作ることは難しいが、ストーリーを思い切って省略し、原作では軽い扱いのエポニーヌをクローズアップするなどの付け加えを行い、感情を歌にのせることでストーリーを再構築することに成功したのだ。やはり、歌や音楽は軽いテーマから重いテーマまで見る人に納得させる力を持っているのだと思う。

 生徒に見せた「レ・ミゼラブル」は抜粋ではあるが感銘を与えたようだ。英語や音楽・文学など他の世界への興味関心へとつなげて人生を彩りある物にするきっかけとして欲しいものだ。

 本当の感動の少ない現代。本物にふれる時間を大切にしなければと思う。

 

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小学校事件に思う

 小学校で授業中にけんかになり、ナイフで脇腹を刺したという事件が起こった。事件自体に話題性はあるが、そんなに繰り返し報道する事かといいたい。計画性はないし、直後に二人で保健室に向かっているし、加害児童は涙を流して謝っているという。単なる「いきすぎた」けんかである。ここで浮かび上がる事実はせいぜい、「少子化の中でけんかをしなれていないがゆえに限度を知らない子供の現実」くらいではないか。

 今朝、「朝ズバッ」を見たらこの事件がトップで報じられていた。そしていつものように「なぜ担任は気づかなかったのか不思議でならない」などと大げさに決めつけていた。私にはみのもんたが「不思議でならない」ほど学校現場を知っているとは思えない。不思議でならないのはほとんど取材らしいことをしないでスタッフのプランに乗っかって公共の電波を使って不確定な事実を断言する彼の心理構造だ。私ならできない。役員を決めるホームルームのガヤガヤした中で起こった出来事だ。二人して保健室に向かっていくときに担任は気づいている。ナイフを取り出した時点で気づけというのだろうか。まったくナンセンスである。現実を知らない。それに彼に言われなくても担任の先生は十分に責任を感じている。そんなばかげた報道に、またバカなコメンテーターが「犯罪の低年齢化の典型」などとコメントし事を荒立てる。「あいつ最悪やな。もっとまともなやつかと思ってたけど最近おかしいで。」と同僚が言っていた。保護者とおぼしき人が「学校の対応が遅い。学校よりマスコミからのほうが情報が早いなんてどうかしてる」とマイクに向かって言っていたが、学校からの情報を待てないあなたと、学校を無視するマスコミがどうかしているのである。

 だいたい「朝ズバッ」はスタッフも出演者も実に浅い。取材不足が各所に露呈している。「私のしごと館」のような貴重な施設を「無駄使い」呼ばわりし、滋賀県にもこないで滋賀県知事選にコメントする。地元にいれば「何をかいわんや」である。コメンテーターは自分の専門外の事でもコメントしなければならないから大変だと思うけど、自信がないのに自信があるようにコメントするのはやめてもらいたい。

 本当は一番心配なのは、この二人の子供の関係とクラスが今後どうなるかではないのか。マスコミはそんなことは考えないでセンセーショナルなことだけ報道する。

 「何の為」の報道か。それがなくなってしまった。そのことが再確認できた今回の事件だった。

 

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修学旅行って何?

 修学旅行の季節がやってきた。全国的には10月実施のところが多いようだが、本校は9月実施でまもなく出発する。

 多くの修学旅行を引率してきた経験から、修学旅行に複雑な思いをいたすことがある。私の中の思いは「費用面」「運営面」「目的」にまとめられるようだ。

 ①費用面

 修学旅行が受注型企画旅行でありパッケージツアーよりも高額になることは、日本旅行業協会の説明である程度理解できる。教員としての疑問は、教育委員会による限度金額の設定である。全国修学旅行研究協会の調査によると、平成16年度の段階で18の都県が実施金額に上限を設けている。その金額は国内旅行だけを見ても千差万別。愛知県の65,000円から宮崎県・千葉県の100,000円まで大きな開きがある(その後、滋賀が金額を上げ福島・宮崎が上限金額を廃止する中で、なぜか熊本は8万円から7万9千円に下げた)。宮崎が地理的位置からも高額になることは理解できる。しかし、同じ九州の福岡は77,000円、長崎は78,000円なのである。ふつうに考えれば「高い宮崎はけしからん」だろうが、そこが少し違う。77,000円で行けるところはせいぜい近畿地方や四国。しかし実際にはうっかりすると北海道に行っている。つまり限度金額が安すぎるのである。県民から「修学旅行が高すぎる」という声があがると県議会で質問がくる。教育委員会は「委員会としてはこの金額で指導しています」と答えたいのだろう。かくして責任は「ウソの報告(実際には教育委員会は知っている)」をした現場の学校にまくられるのである。実際、私は高校時代に滋賀で72,000円の修学旅行だったが、信州3泊4日だった。この金額で北海道・沖縄などに行けるはずがないのである。教育現場の責任は常に現場の教師がとることになっているのである。それなら限度金額などもうけて欲しくないのだ。

 ②運営面(業者とのこと)

 修学旅行の行き先は教師が決めたり生徒からアンケートを採って決めたり、生徒の修学旅行委員会に考えさせたりいろいろである。大まかな目的と目的地が決まったら入札を行い業者を決定する。

 私が分からないのはまずここである。入札で明らかにやる気のない業者がいるのである。こちらが出した条件をクリアーしていない案を持ってくるのだ。ある学校の時には毎年業者が違った時もあった。ついでにいうと、3年連続で契約をゲットした優秀な担当者が「栄転した」ときいていたのに実はやめていたということもあった。なんだかあやしいのである。

 また、修学旅行の下見を前年に行うのだが、ここにも問題があった。業者やホテルが当たり前のように教師に接待するのである。正直私もかつてはされるがままに受けていたことがあった。しかしよく考えると接待費は生徒から集めた修学旅行費から出ているのであるから、接待は生徒にするべきなのだ。ある先生と修学旅行担当になったときにそのことを話し合い、「いっさい接待を受けない」ことを約束しあい、そのことを業者に伝えたところ「上と相談させて下さい」とのこと、数日後に「わかりました」ということだったので、「その分生徒に還元してくれ」といったら「難しいですが何か考えます」となったことがあった。かつては修学旅行当日も毎晩接待が続いたものである。しかし、バブル崩壊とともに業者側から消極的になり、今は私の周りには接待はほとんど見られなくなった。他校・他県ではどうだろうか。

 ついでに言うと、下見を学年担任団全員で夏休みなどに行う学校がどうやら存在する。実費で行っているのであろうから大変なことである。

 ③目的

 修学旅行の目的とはいったい何であろうか。「友人との人間関係を強固にする」「集団行動を学ぶ」「学校内では学べないことを現場で直に感じ学ぶ」などいろいろある。しかし、人間関係を強固にすることではクラブやクラスの活動に及ばないし、集団行動を学ぶことは遠足でもできる。「学校外で学ぶ」ことももちろん大切であるが、一昔前ならいざ知らず今時国内も国外も行こうと思えばすぐに行ける。学ぼうとする意欲があればだれでも学べる。以前に北海道道東の修学旅行を企画し、北方領土・知床と釧路湿原の大自然・阿寒湖畔でのアイヌ民族学習を入れ込んだ企画をしたことがあった。あの時にはそれなりの成果をあげたように思っていたが、卒業した生徒に聞くと「楽しかった」だけ。果たして意味があったのかなと思うのである。海外ならもっとスリリングで有意義な体験ができるのかもしれない。しかし、最大の収穫はやっぱり「思い出を作る」ことではないか。そう思うと、わざわざ遠くまで行かなくても修学旅行の目的は達成できるのではないかと思えてくるのである。

 そこで最初の話にもどる。修学旅行は別に近場でもいい。業者も入れず、自分たちではじめから終わりまで計画して折衝する。県教育委員会の限度金額なんか関係なくそういう安上がりで意味のある修学旅行はできないものであろうか。そんなことを最近考えているのだ。

 でもそんなことしたら教師がたいへんか。自分の首を自分で絞めるとはまさにこのこと。難しいものだとつくづく思う。

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近江の東海道

 ふるさと近江は「道の国」である。古代の東山道で最も畿内に近いだけでなく、江戸時代の東海道・中仙道・北陸道がすべて通る「東国への入り口」である。琵琶湖があることもあってまさに交通の要衝であり、美濃と同じくここを征すると「天下を征する」といわれた。

 モータリゼーションの波が押し寄せると「国民通過県」などと揶揄された時期もあったが、高齢社会に突入すると時間の確保できる御年寄りを中心に、かっての街道を歩いて古き日本を味わおうとする方々が増えた。時代に乗り遅れていたがゆえに風情が残ったのである。NHK-BS2の「街道てくてく旅」で、サッカーの岩本輝雄選手(復帰万歳!私は大ファンです!)が東海道、谷川真理さん(加賀路)や岩崎恭子さん(四国)などが旧街道を歩いているが、見ていてスローライフというか余裕を感じられて楽しい。こんどはスケートの勅使河原選手が中仙道を歩くらしい。なかなか楽しみなのである。

 私は水口(現・甲賀市水口町)に住んでいた。水口が宿場町であることが私の「道」への関心を決定的にしたことはまちがいない。

 近江鉄道の「水口石橋」駅を降りるとそこはもう街道筋。三筋の紡錘型の宿場町が展開されている。二〇年前にはまだ「コバタ」という看板があり、長いこと何を売っていたのかわからなかった(もちろんタバコ)。すでにシャッター街になりつつあったが、古い旅館が残っておりそれなりの風情があった。しかし、名物のはずの干瓢は八百屋に売っているだけで土産になっておらず、水口高校グランドの水口城跡は当時堀と石垣が未整備に鎮座し、野洲川の渡しにある街道第一の大きさの常夜灯も、みんな前に書いたように「ほったらかし」だった。今はどうなっているのだろうか。水口城は模擬櫓があると聞いているが、多少の整備をしても整備後の「ほったらかし」状態が続き、それなりに風情のある姿になっていると思う。

 この「ほったらかし」状態は様々な場所にあり、重要文化財の社寺が街道筋にひょっこりとあるのがいいのである。かつては琵琶湖水運の一大拠点だった「矢橋の帰帆」跡には当時の船着き場の石場が見事にのこっているが、近所の人が洗濯物を干しいていたりした事もある。全く観光客を呼ぼうと思っていないのだ。重要文化財でなくても、神社でいえば「式内社」がゴロゴロそこらにある。これが近江なのである。

 近江の旧東海道はよく残っている。国道1号線の工事の際に拡幅されている場所は少なく、当時の道幅に近いものが残っていることがうれしい。時々明治時代の付け替えなどが災いして江戸期の跡を通っていない旅人がいたが(土山と草津に勘違いしやすい箇所がある)、比較的「広重ポイント」もわかりやすい(「石部」が栗東市を描いたものであることには驚くが)。

 どの道が旧東海道なのかを正しく表記した本がなく、いい加減だったことから、「よし俺の手で作ってやろう」と思っていた。いまでは相当正しいものが出版されているので、ちょっとくやしかったりするのである。

 近江は「道の国」。道は人と物と、文化が行き来するところ。そんな当時のにぎわいを想像しながら「道」に立つのが好きなのである。

 近江のシリーズはまた続けていきたい。 

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高校教師のぼやき3

 いよいよ始まった新学期。ちょっとはりきり気分で登校し、久しぶりで全校生徒に出会いました。新鮮な気分でがんばっていきます。

 さて、今日朝のテレビ朝日の番組で「教師の夏休み」について話をしていたらしいと、他のプログから知った。なんで始業の今日、夏休みの話をするのかさっぱりわからんが、どうせ中身は想像できる。

 「何で教師だけ夏休みあんねん」とか「わしらも夏休みほしいわ」とか「その分給料けずれや」などであろう(ちがったらごめん。そうとう僻み根性が身に付いているので)。私は夏休みに関しては違う次元からの考えがあるが、こと「給料けずれや」に関しては私だけでなく全国の公立学校の教員が世間の無知を問わざるを得ないのである。

 ①教師には残業手当がありません。仕事を家にもって帰っても手当はでません。

 ②クラブ指導で休日出勤しても、振り替えはありません。特別勤務手当が半日で1000円強もらえるだけです。

 ③クラブの練習試合に連れて行っても県から手当も旅費もでません。宿泊をともなっても県から手当はでません。宿泊費もでません。それではあんまりなので学校単位で保護者・OBで後援会を作ってケアしていただいているので、学校によってもらえる金額が違います。

 ④仕事に必要なコンピューターは、個人持ちです。学校には教員分のコンピューターはそろっていません。

 ⑤家庭訪問にかかる出張経費もでません。後援会でなにがしかのケアをしていただいています。

 ⑥クラブ指導に必要なジャージ、予習・教材研究に必要な書籍・参考書などは、必要経費扱いされていません。すべて自前です。

 ⑦すぐに思いつかない矛盾満載。

 教師は身銭を切って働いている。このことを世間の人にははっきりと知ってもらいたい!知りもしないで教師は優遇されているとか言うな!知った上で言いたいことがあるなら言って来い!

 教師の不祥事が大きな事から小さなことまですべて報道されるのは、教員のイメージダウンが目的だ。財務省は教員の給与を減らしたいのだ。はじめは「一部の悪い教師がバカをやっている」と思っていた人までが、報道が続くと「そんなにひどいなら全体の問題だ」「給料減らしてもしょうがない」となるのがねらいだ。生徒のテストや成績をなくした担任が攻撃される。問題を深めて見つめれば、成績を自分のパソコンで処理せざるを得ない状況、テストを持って帰らざるを得ない状況に気がつくはずだがいっさい報道されないのがその証拠だ。マスコミが無能なのかコントロールされているのかどちらかであろう。この四月、滋賀県の守山市立守山女子高校が立命館に経営移管されたが、移管反対の風潮を押し切るために古いすでに解決済みの不祥事?(不祥事かどうかさえ疑わしい事例だった)が突然新聞に発表されたりした。マスコミ諸氏よ、君たちはうまく使われているんだぜ。もっとも本当に救いがたい不祥事もある。なさけない限りである。

 財務省の標的は教師と同和行政。これは今の報道の傾向でまるわかりでしょう。

 そのように考えると、なんで今日みたいな日に夏休みの話をしていたのかも何となく見えてくる。目的が教員のイメージダウンなら別に時期を逸してはいないのだ。

 まじめな教師ほどやる気がなくなってくる、そんな時代。別に金が欲しいのではない。教育という一大事業に携わる者を正当に評価して欲しいだけ。しんどい思いをしても、バカにされるならしない方がまし、と思う教師もでてくるのは自然だ。

 あ~ぁ、またぼやいてしまった。自己嫌悪。でもだれかが言わなければ。ちなみに私はブログだけでなく、県にも知事にも同じような内容のメールを打っています。実名入りで。返事はいっさいありません。

 

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ついに来た!夏休み最終日

 ついにこの日が来てしまった。教師の夏休みがいそがしくなったとかいっても、夏休みに接するのはクラブや補習に参加するまじめな生徒と教師だけ(ときどき問題を起こした生徒の対応があるけど)。ほとんど定時で帰宅できた。明日からはそうはいかない。覚悟の日々が始まるのである。

 とはいうものの、明日から始まるということに幸せを感じるべきなのかもしれない。多くの学校は、授業時間確保の名の下にすでに前倒しで始まっている。前にも書いたが暑くって集中できないから夏休みなのである。始業を前倒しするなんてどうかしている。夏休みをなんだと思っているのだろうか。だいたい授業時間を減らしたのは文部科学省である。「ゆとり教育」は目先の学力よりも考える力を優先することが目的だったのに、考える力がついたかどうかという総括もなしに「学力が落ちた」というマスコミのキャンペーンのなかでなしくずしになった。つくづく覚悟のつづかない国民性である。(小泉改革も同じ。改革には痛みを伴う。痛みを感じても改革をしなければという覚悟で支援したはずだったのに、「痛いやないけ」とマスコミがいうと飛びつくのである)

 だいたい日本の学校・親は世話を焼きすぎるのだ。だから自分で切り開く力がつかない。実際に「こいつは力があるな」と思う生徒は、自分で勉強する力をもっている生徒である。進学校に進学し進学塾に通ってみても、学校頼み、塾頼み、何かに頼っている=何かのせいにしている生徒は思ったより伸びないのである(塾の講師が自分の卒業生だったりするとより驚きである。自分の限られた受験体験しか語れない学生に、多様な進学・就職指導ができるのだろうか)。浪人生の中にも予備校頼みの浪人生が増えているときいた。苦労しないから力がつかない。有名大学学生が塾生徒・友人・母親を殺害したという事件は、報道で聞く限り動機があまりにも幼稚である。力はないのにプライドだけはどこまでも高い。今の学生の姿である。

 夏休みをもとにもどせば、力がつくというものではもちろんない。なんだか、明日からのプレッシャーと相まって最近使っていない頭で考えると、こんな話になってしまったということである。

 あーあ、始まるか!

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ワイドショーは探偵か!?

 以前から、マスコミのあり方に疑問があった。今日は刑事事件について書いてみたい。 凶悪犯罪が増加していると言われるが、その責任はマスコミなかんずくワイドショーにあると思えてならないのだ。

 彼らは自分たちが「夜討ち朝駆け」で担当刑事から得た限られた情報をこれみよがしに垂れ流す。「~ということが本日未明までに分かりました」という表現があるが、本日未明に担当刑事から教えてもらったという意味なのだ。それが本当に確実な情報であるかどうかはこの際どうでもよい。他社に先駆けて報道することにのみ価値があるのである。その上で地元住民に何回も取材してうわさをひろうのも地域のうわさをつかむのと同時に、警察の捜査を追いかけて、今警察が誰を狙っているのかを知ろうとするのである。かくして警察は何の発表もしていないのに放送は始まる。

 画面ではコメンテーターが一応事件の残虐性に憤った上で不確実な情報をもとに推理を始める。おどろおどろしい音楽をならして「疑惑の四時間」「白髪の男」などと小説のように章立て。推理のねたが足りなくなれば、こんどは猟奇劇に早変わり。これでもかこれでもかとばかりに、遺体の様子がどうであったかということを、事細かに説明する。ワイドショーはそういう、推理ショー、残虐劇になっているではないか!こわいもの見たさ、人ごとの悲劇に怒って正義を達成したような気分になりたい視聴者の希望を満足し、結果として残虐嗜好・幼児趣味の連中を満足させ、犯罪を増発させているのではないか。

 だいたいあの犯人逮捕の時の、護送車をヘリで追う手法は何がしたいのだろう。完全にショーである。

 こうしたショー演出に偏った取材手法が多くのえん罪を生んできた歴史をいったいどう思っているのだろうか。「ワイドショーなんだからショーでいい。真実の追求よりもショー的な要素が優先さ」とでもいうのだろうか。週刊新潮の社長が「うちは文芸誌だから必ずしも真実を掲載しなくてもいい」とほざいたが、それと同じ次元か。しかし公の電波を使ってウソ・未確定事実・推論を確定的な手法で垂れ流し続ける、その影響力は大きい。

 松本サリン事件、ロス疑惑はマスコミが先導したえん罪事件として有名である。犯罪報道の必要性は、原因を追及し再発を防止することが本来の使命であるはずだ。さらに犯人に関する情報提供や犯人に社会的制裁を加えることもあるかもしれない。しかし、被害者の遺族を傷つけ周辺住民をも巻き込んで視聴率を稼ぐことは目的でなかったはずだ。

 もう、マスコミは限界だ。自分ではコントロールできないのではないか。

 さて、私、実はえん罪事件に興味があって、いくらか調べている内にいろんなことがわかってきました。いずれどこかで、書かしていただきます。

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高校教師、暑さに思う

 「わしらの学校時代はクーラーなんかなかった。学校にクーラーなんか贅沢や」とお年寄りがのたまわく。古代エジプトの文字に「今の若い者は」と書いてあったというくらいだから、とかく年寄りは若い者を評価しない傾向があるらしい。たしかに昔の人の方がご立派であったのかもしれないが、「学校の暑さ」という点だけはちょっとゆずれない。

 というのも昔の校舎は木造である。木と土でできた建物は湿気を吸って思いの外すずしいのである。私はこの夏から築35年の木造ボロ屋に住んでいるが、寝るときに除湿で使うのと来客の時は別であるが、基本的にクーラーはいらない。ましてや昔の地面は土だった。今はアスファルトが主流で照り返しも並ではない。現代の鉄筋コンクリート校舎は「暑い」のではなく「熱い」のである。はっきりいう。今の教室は昔より格段に暑いのである。教室にクーラーを!

 ましてやホームルームというあんな狭い部屋に、エネルギー放出状態の若い連中を40数人集め、教室の天井近くにどんどたまっていく熱気に首をつっこんでしゃべるまくる。これが教師の仕事なのである。なんと暑い仕事なのだろうか!

 ましてや温暖化の昨今である。本当に今の生徒はよく耐えていると思う。

 ついでに、もう一つ。机のことである。今使われているスチール机。あれの規格は明らかに昔のサイズでしょう。コクヨさん、ちょっと考えてよ!身長180㎝を超える生徒が座る机とイスがない!ラグビー部のごっついやつが座ると机の下は「足だらけ」。最近、教科書や資料集はビジュアル化にともなって大型化しているのに、机の面積は同じまま。

 この現実を知り合いの議員さんに訴えた。「しっかり訴えます」との返答に頼もしく思ったが、数日後にこんな答えが。「机を大きくするとクラスの定員が変わります。定員が変わると教員定数を変えなければいけません。予算のない中無理ですね。」日本は体裁だけで教育を考えている国だとつくづく思った。

 本当に、生徒の事を考えてくれ!頼むわ!環境整備だけは最低限やってくれ!

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高校教師のぼやき2

 今日もクラブ指導。午前中で帰ってまいりました。

 高校教員は、主に教科指導をしたくて教員になった人と主にクラブ指導をしたくて教員になった人に大別されると思う。もっとも「両方だ」とおっしゃる方、「何となく」とおっしゃる方もおられようが。しかし現実はどのような希望で教員になろうが全員が何かのクラブの顧問になる。

 どのクラブになるかは校内人事委員会が決めたり教頭が決めたり学校によって様々だ。熱心な専門家が顧問になればそれでいい。その手の美談には事欠かないし、その場合先生の自己実現も兼ねているのだから。問題は、競技の専門家がいない場合どうするのかである。技術指導のできない知らない世界に首をつっこみ、生徒・保護者に振り回される形で土日なく出勤する。放課後も練習が終わるまで帰れない。しかも事故が起こったら顧問の責任。他校の同競技の顧問とも人間関係がない。どうしていいか分からないのである。それでも若い内は無鉄砲だし生徒といっしょにやってみたりして解消できる。実際、たまたま顧問になったことがきっかけで知らない世界の第一人者になってしまった方も知っている。しかし、生徒の時代から運動オンチで教科指導中心で教員を志した方の場合そうはいかない。特に年齢を重ねると挑戦の意欲はいよいよ減退する。家庭の側にも覚悟がない。突然、土日にお父さんお母さんがいなくなるのである。

 これだけ心圧と戦って時間を使っても、残業手当もなし。休日のクラブ指導には半日以上でたった千数百円ぽっちの特別勤務手当。より緊張感を伴う練習試合の引率には旅費さえ支給されない(各校の学校後援会等が独自でバックアップ)。必要なジャージ、競技に必要な道具は自分持ち。勝てなければ保護者から「あの先生ではダメだわ」との冷たい言葉。

 絶対に間違っている!教師の善意に寄りかかって維持されているクラブ活動とはいったい何なのか!

 もう本当にクラブ制度は限界に来ていると思う。新しい教員の採用がなくなってよけいに今、パンクしそうになっている。

 おい財務省!教員の給料減らすこと考える前に、教員の仕事を正当に評価せんか!

 文部科学省も当てになるのかならんのか。

 まっ、生徒が目の前にいるんやし、とりあえずがんばろ。これが教師のため息。

 

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高校教師のぼやき

 先日、久しぶりの同窓会。卒業して16年目の34歳の連中に囲まれて、若かりしころの激闘に思いをよせることしきり。しんどかったけど何とか全員卒業できたことだけが成果だったというクラスだった。

 その子らが親になり子供を学校に入れると、自分の事は棚にあげていっぱしの学校批判・担任批判をしている。当時のことを知っている自分からすれば「あれだけ教師の世話になったくせに何をいうか」というところ。どうやら今の自分を肯定するあまりに自分の来し方すべてを肯定する傾向が人間にはあるらしい。まあそれはいい。そうやって生きていく方がかしこいのだから。

 しかし、学校の方針と家庭の方針が違う場合、家庭がゆずらないでどうするのか。すべての家庭に学校が合わせられるはずがない。自分の考え方と異なる世間と折り合いをつけていくことを卒業までに身につけなければならないのに、絶好のチャンスを親が「抗議」という形でつぶしていく。世間と合わせられない子供が閉じこもるのは当たり前。教師と学校の悪口を言っている家庭の延長で、学級崩壊が起こるのは当たり前。

 今ほど教師が生きにくい時代はない。教育のプロが「先生は高校生の子供を持ったことがないから分からないんです」と批判される時代。「お母さんはこの子だけでしょ。僕は何百人もみてきましたよ」と返したこともなつかしい。しかし、その一言が言えない教師も多い。

 教育の復権は教師の復権から。そこには教員の自覚の向上が欠かせない。

 教員の不祥事についてはいつかどこかで。

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