祖父の記③
1934(昭和9・康徳元)年。2年前に建国していた満州国で溥儀が皇帝に即位して満州帝国となった。「五族共和」の「王道楽土」を理想とするこの国から日本に、木工と印刷業技術者の招聘があったのはこの年のことであった。この報に接した武司は、10月、小菅刑務所を退職し、同僚であった増田武史とともに渡満することを決意した。12月に始まった正式な招聘刑務官事業に先立って3家族が渡満したが、二人に加えて名古屋刑務所の印刷技術員であった北川又も渡満した。同じ広島出身の後輩を武司は大切にした。武司は新京<現・長春>刑務所に奉職した(のち奉天<現・瀋陽>第一監獄に転勤)。当初発令された職名は「看守長」であった。
当時、満州国の警察制度は日本の指導下にあり、武男は新京監獄において満州ではじめての日本人作業科長となった。増田もハルピン監獄の作業科長についた。満州の監獄は、取調段階からの過剰拘禁(一坪に数人など)など、収容者は過酷な環境下に置かれていた。ある程度施設が改善されていた1942(康徳9・昭和17)年当時でさえ、「収容者の年間死亡人員は、全施設の平均収容人員に匹敵」しており「裁判でいい渡された有期刑が矯正の段階で生命刑に転化する」(ともに『追想録 動乱下の満州矯正』)状態であった。暴動も多かったようである。1937(康徳5・昭和12)年に満州を訪れた正木亮は「その工場の狭くて就業人員の多いこと、獄内の不潔なこと、わたくしはこの國にこそ監獄改良の大きなメスを入れる必要のあることを痛感したものである」と感想をのべている。監獄の改善に必要な経費もままならず、1937(康徳4・昭和12)年からは「監獄特別会計制度」が実施された。収容者の作業による収益によって監獄の経費を賄うこととなったのである。武司ら作業科の責任はいや増して重くなっていった。
そうしたなか、なにがあったのか。増田武史が自害した。囚人の更生を目的としていたはずの作業が、いつのまにか監獄の運営費を稼ぐことが目的となり、しかも彼らの命を奪う原因となる。真面目な増田には耐えられなかったのではないかと思われる。
1937(康徳5・昭和12)年は、蘆溝橋事件を端緒とする日中戦争が始まりあわただしい空気が満州を包み始める時期である。雑誌「作業」にはこの年4月の武司科長を中心とする新京監獄の作業会議の様子を掲載している。ここには北川又氏や石川静夫氏ら、のちに「追想録」に武司のことを書き残して下さった方々も参加されている。この年6月、三男邦士が誕生。同年武司は奉天第一監獄に転勤。一家は奉天に移った。8月には満州視察に来た正木亮と錦州で出会っている?(「志願囚」)。
しかし予期せぬ事が起こった。武司は結核に罹患し休職を余儀なくされてしまったのである。さらに結核は妻さちにも伝染。さちは4人目の子を身ごもっており、療養を考慮して1939(昭和14)年夏に一家で日本へ帰国。同年8月長女育美を生んだ。
武司一家が暮らしたのは郷里の広島県佐伯郡五日市町(現広島市佐伯区五日市)であった。しかし、1941(昭和16)年1月1日、さちが死去。長男・和司を下谷区在住、さちの長兄・辰三郎に、次男康史を荒川区のさちの妹に預ける一方、自身は奉天第一監獄に一時復職。家族が離れて暮らす不自由な生活が始まったが、このような変則的な生活は長くは続かなかった。武司は満州の刑務官を正式に退職した。
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