芦浦道を行く

芦浦(あしうら)道という道があったらしい」と聞いて一度たどってみたいと思っていた。

これまでも、司馬遼太郎の『街道を行く』に影響されて、近江の街道をたどってきた。東海道、中山道、朝鮮人街道、西近江路、北陸道、北国脇往還、御代参街道などなど。最近は志那街道や矢橋道などの脇街道の経路をたどってみたりしている。

http://chizuz.com/map/map35271.html 志那街道

http://chizuz.com/map/map35454.html 矢橋道

芦浦道は、マイナーな道である。東海道、中山道などの大道ではないが、湖辺を南北に通る道は他になく、地元の庶民が行き交う道であったらしい。現在は「浜街道」に役割をゆずっている。

芦浦道は、大津市大江で東海道と分岐して、いきなり一部が東レ瀬田工場によって消えているが、その後大萱、新浜、矢橋、御倉、木川、上笠、下笠、穴村を通って芦浦観音寺で有名な芦浦へと抜ける。芦浦からは志那街道を北東に中山道を目指すことも、そのまま北上することもできたようである。

たどってみて分かったこと。とにかく道が細い。道幅はほとんどが2m弱(一間)といったところ。軽自動車でもしんどいだろう。一部は田の畦道と化している。地元の方と話したりもしたが、これが古い道だとは分かっていても、「芦浦道」という道であることは知られていない。忘れられつつある道なのである。

しかし、細い道なのに小学生の通学路だったりする。他に大きな道が出来て車はそっちへ行ってしまいかえって安全なのだろう。志那街道でも同じ現象がある。おそらく伝統的にそうなっているのだろう。

他の街道にはない特徴は、昭和50年代の道標が2つある。この道を消えさせてはならない、という関係者の努力が感じられて感激させられるものがある。他にも道ばたの古く小さな道標、明治初期のものと思われる水準点(主要道路に設置される)が見られ、趣が深い。

周辺に重要文化財が少ないことも、近江の他の街道と異なる特徴である。近江には重要文化財がゴロゴロあって多くが旧道に面している。しかし芦浦道には、矢橋に石津寺本堂と鞭崎神社表門、終点の芦浦に芦浦観音寺があるだけである。文化財にはどうも乏しい。やはり「日常の道」だったのではないかと想像する。

興味のある方は、たどってみて下さい。自転車が最適です。

http://chizuz.com/map/map51194.html 芦浦道

この次は、「山田道」を探してみます。

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御代参街道のルート

滋賀県・近江国の御代参街道(土山~小幡)のルートを載せてみました。滋賀県教育委員会の中近世古道調査報告5「御代参街道・杣街道」を参考にしました。歩かれる方の参考になれば幸いです。

http://chizuz.com/map/map36205.html

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知らなかった。こんなすごい人がいたなんて。

今日の産経新聞ネットに次のような記事があった。

【ベルリン=黒沢潤】第二次大戦中、ナチス・ドイツの支配下にあったポーランドのワルシャワ・ゲットーから、ユダヤ人の子供たち約2500人を救ったポーランド人女性、イレーナ・センドラーさんが12日、死去した。98歳。

 センドラーさんは1940年秋から、社会奉仕家の立場を利用して同ゲットー内に入り、幼児たちをスーツケースに入れたり、スカートの中に隠すなどして逃すことに成功。ナチス占領下でユダヤ人を助けることには、銃殺などの重罪に処せられる危険があったが、2年以上も命がけの活動を続け、子供たちを孤児院や病院、教会などに匿った。

 43年春、ゲシュタポ(国家秘密警察)に逮捕され、強制収容所で拷問を受けるが、「活動内容を明かすぐらいなら迷わず死を選ぶ」(生前の伝記)と、かたくなに沈黙を守り通した。その後、仲間がナチス高官を買収し、辛くも死を免れたが、拷問のため足や腕を骨折し、無意識状態のまま近くの森の中に捨てられた。

 英雄的な行動は、幼児たちを救ったことにとどまらない。“生き別れ”を余儀なくされた幼児と親が戦後、再開できるようにと、幼児1人1人の名前などを紙に書き、リンゴの木の下に埋めたことがその例だ。戦後は社会奉仕家として活動を再開、65年にはイスラエルから表彰を受けた。

 同ゲットーで43年、ナチスへの絶望的な蜂起を仕掛けたユダヤ人生存者、マレク・エデルマン氏は12日、地元テレビに対し、「他者のため、弱者のために立ち上がった人は当時、まれだった。偉大な人物を失った」と、その死を嘆いた。

 センドラーさんは昨年のノーベル平和賞候補にも挙がるなど、その勇気ある行動は世界で称賛されたが、死の間際のインタビューにで、「私が『英雄』と呼ばれることには抵抗がある。実はその逆だ。私はほんの一握りの子供しか救えなかったことに、今も良心の呵責(かしゃく)を感じ続けているのです」と語っていた。

偉大だ。あまりにも偉大だ。

最後の私はほんの一握りの子供しか救えなかったことに、今も良心の呵責(かしゃく)を感じ続けているのです」との言葉は、映画「シンドラーのリスト」のラストシーンでオスカー・シンドラーが言う言葉を思い出させる。何故もっと救えなかったのか!もっと救えた筈だ!あと一人でも二人でも・・・」。日本の杉原千畝もベルリンへ向かう列車が発車するとき、ユダヤの人々にこういった「許してください、みなさん。私には、もうこれ以上、書くことはできません…。みなさんのご無事を祈っています。」あの極限状態で人を救った方々はみんな「もっと自分にはできたはずだ」と思っている。

イスラエルは「諸国民の中の正義の人」賞という賞を作り、ホロコーストからユダヤ人を守った人を表彰しているが、2006年1月現在で21,311人おられるという。スウェーデンの外交官であったラウル・ワレンバーグは10万人ものユダヤ人を救った。さきにも触れた日本の外交官であった杉原千畝は本国の命令に背き、6000人のユダヤ人を救った。そのような社会的立場のある人もいたが、これらの英雄のほとんどが名もない庶民だ。あのベルリン市内でユダヤ人をかくまい続けたドイツ人もたくさんいるというから驚きだ。少女時代のオードリー・ヘップバーンもオランダでナチスへの抵抗運動の資金稼ぎのために踊り、かくまわれていたユダヤ人に食べ物を運ぶなど協力していたという。

日本ではどうだろうか。軍国主義政権に反抗し続けた庶民はどれだけいたのか。知識人はどれだけいたのか。私は、創価教育学会の牧口常三郎戸田城聖両先生と、横浜ホーリネス教会の菅野鋭牧師、少数の共産主義者、政治家では尾崎行雄しか知らない。

歴史上にはすごい人がいる。こうした人々の精神を忘れてはならない。日本にはこうしたすごい人たちをバカにする傾向がある。ホロコーストはなかった、だなんて命がけで戦った人たちの前で言えるのだろうか。命がけで戦って命を落とした人もいたはずだ。何もできていない我々にできることは、客観的に評価することではなく、ただ尊敬しその一分でも実践できるように心を強くすることだけだ。

日本は嫉妬社会。この風潮に巻き込まれまい。

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しられざる偉大な日本人シリーズ3 ミツコ・クーデンホーフ・カレルギー

クーデンホーフ・ミツコ(1874年~1941年)は、「ヨーロッパ統合の父」リヒャルト・クーデンホーフ・カレルギーの実母である。日本名を青山光子(戸籍名はミツ)といい実家は骨董屋を営む商家であった。青山家は徳川家の重臣の家柄で、東京都港区青山の地名はこの家があったことに由来するという。

18歳の冬、光子は事件に遭遇する。家の前でオーストリア大使館の代理公使ハインリヒ・クーデンホーフ・カレルギーが落馬したのである。献身的に介抱する光子。二人は恋におち、周囲の反対を押し切って結婚した。この結婚は「日本初の正式な国際結婚」であるといわれる。翌年に長男ハンス、翌々年に次男のリヒャルト(日本名は栄次郎)が生まれた。夫ハインリヒは、民間の女性との結婚を親に反対され相手が自殺するという悲劇を経験しており、「私の妻をヨーロッパ人と同じに扱わないものには決闘を申し込む」と宣言して光子を周囲の偏見から守ったという。合計7人の子宝に恵まれる。幸せな結婚生活であったようだ。

1896年に夫とともにオーストリアへと渡ったミツコを待っていたのは、夫の早すぎる死であった。夫の遺言で彼女は名門貴族の当主に。夫の親類からは大反対にあったがすべての裁判で勝利したという。

クーデンホーフ家当主のミツコは気丈であった。社交界にもデビューした。日露戦争で日本びいきだったヨーロッパ社会で一時だが花形の存在となり「黒髪の貴婦人」と呼ばれた。しかしその人気も第一次世界大戦では逆となった。日本がオーストリアの敵国となったからである。しかし、ミツコは赤十字社を通じて食料供出に奔走。また前線を慰問するなど必死で働いた。

その間にも子どもの教育には手を抜かなかった。家庭教師は必ず自分で面接し、人種差別的な思想を持っているものは絶対に採用しなかったという。その教育は厳しく、オーストリアの貴族として恥ずかしくないように、との願いが込められたもののようであった。しかし、子どもは父の血を継いだのであろうか、兄は第一次大戦からユダヤ人女性を連れて帰還。弟のリヒャルトは14歳年上の女優イタ゜・ローランと結婚した。このときリヒャルトは母から勘当されている。

そのリヒャルトが「パン=ヨーロッパ」主義を掲げて論壇にデビューしたのが1923年。息子が誰も考えなかったヨーロッパ統合から世界統合へ、という道筋を世界に向かってぶちあげたのである。その後の息子の活躍をミツコは遠くから喜び見つめていたという。

1925年に脳溢血となったミツコは体も不自由で寂しい晩年であったようだ。ナチスの影が忍び寄る第2次世界大戦前夜、カレルギー家当主のハンスもナチスの迫害から逃亡し、リヒャルトも亡命。その他の子どもも、3女のオルガを除いては家を去った。1941年にミツコはオルガに看取られて静かに息を引き取った。

晩年のリヒャルト・クーデンホーフ・カレルギーは

「若くして夫を失ったあと、七人のこどもを立派に育ててくれたのですが、母は、こどもの教育については、夫である私どもの父の精神を、そのまま受け継いでおりました。つまり、日本人としてではなく、ヨーロッパ人として、キリスト教徒としてでした。息子たちよりも、娘たちに対して、より厳格でした。私は、こうした母がいなかったとしたら、決してパン・ヨーロッパ運動をはじめることはなかっただろうと考えています。」(「文明・西と東」)

と母の影響について述べている。

ミツコ自身は自分自身は「必死で生きただけ」だというかも知れない。決して幸せな人生ではなかったかも知れない。しかし、彼女の行った教育が育てたものは、現在のEUにもつながり世界を変えるものであった。

その偉大な人生を讃えたい。

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しられざる偉大な日本人シリーズ2 ウズベキスタンの抑留日本兵たち

西岡京治さんから、久しぶりの第二弾である。

中央アジア・もとソ連のウズベキスタン。ここにも各地に満州から抑留された日本兵捕虜収容所があった。ウズベキスタン全土だけで約1000人が故国の土を踏むことなく亡くなったという。

この国の首都タシケント(地理の学習では内陸の地中海性気候(Cs)として有名)には次のような碑文がある。

[日本人抑留者記念碑文]
1945年から1946年にかけて、極東からウズベキスタンに強制移住された日本国民25,119余名の内、9,760余名が過酷な条件のもとで、数年にわたりタシケントの都市建設に貢献した。望郷の念むなしく79余名がこの地に眠る。この厳粛な歴史を後世にとどめ、永遠の平和と友好を念じ建立する。主な労働場所:ナヴォイ劇場、電線工場、運河建設、住宅建築、道路建設など。<2002年5月25日 日本人墓地整備と抑留者記念碑建設代表発起人会>

狂人スターリンが日本人を異国の地の強制労働に駆り立てた。シベリアの奥地よりは過ごしやすいはずのこの地でも約80名の方が亡くなっている。そして、その彼らが建設した建築物こそ『ナヴァイ国立劇場』である。

強制労働という忌まわしい記憶の産物であるこの劇場は、しかし思いもよらぬ効果をもたらした。建設の際のまじめな労働への取り組みの姿があった。そしてなんといっても完成後の1966年の大地震でタシケント市内の多くの建造物が倒壊した時、この劇場はビクともせず、「日本の建築技術は素晴らしい」という評価が定着したというのである。これらの事情からウズベキスタンの親日感情は中央アジアの中でも飛び抜けているらしい。

当時総指揮に当たったのは永田行夫さん。25歳で隊長となり本来の航空隊技術をこえる仕事をやってのけたという。

(以下参照)http://homepage2.nifty.com/silkroad-uzbek/works/2001/04_yuuzuru_nagata.html

羽田首相時代の2000年。事情を知る羽田首相とウズベキスタンの大統領との間で日本を代表するオペラ「夕鶴」の公開の話がすすんだ。翌2001年8月末、約束通りに「夕鶴」は講演された。現地の小学生は日本語を学びコーラスに参加したという。作曲者である團伊玖磨さんも指揮をする意欲を示しておられたが、残念ながら同年5月に逝去された。この時の公演は團伊玖磨さんの追悼公演ともなったのである。永田さんを含む当時の抑留者の代表も参加されたらしい。

戦中の日本の暴挙は批判されてしかるべきである。しかしだからといってスターリンの暴挙がゆるされるわけではあるまい。しかしそうした武力という強制力によって抑留された人々が、技術や文化の力によって日本への信頼を勝ち取ったのである。ソフトパワー(感化力・教育力など)がハードパワー(有無を言わさぬ強制力=武力・政治力など)に打ち勝ったすばらしい事例である。

日本の今後行く道がここに示されていると強く感じる。文化立国日本の建設を目指さなければならない。

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知られざる偉大な日本人シリーズ1(ダショー西岡)

 時々だが、知られざる偉大な日本人シリーズを書いていきたいと思います。日本人にもすごい人(人々)がいるものである。発見次第ご報告したいと思います。日本人の誇りを取り戻す為にも。

1.ダショー西岡(西岡京治)さん

 「こんなすごい人がいたのか」というのが実感である。西岡京治さんは、ブータンの農業指導に携わり、ブータンの食糧事情を変えた人物である。その功績を称えてブータン国王から外国人初の「ダショー(ナイト)」の爵位を授けられた。

 はじめ話は師匠である中尾佐助氏にあった。中尾氏は自身の娘婿でもある愛弟子の西岡さんを適任者として推薦した。二人は山岳植物の研究をしていたそうである。

 JICAからの任期は2年間だった。しかし、ブータンの食糧事情は2年での帰国を許さなかった。収穫率は低く、平均年齢は40代だった。彼は農民と話し合い、栽培する野菜や稲作の技術を押しつけではなく納得の上でブータンに根付かせようとした。まず、自分で実験農場を経営し、作って見せる。その野菜を市場に出し、圧倒的な品質を見せつける。その上で希望者に技術を伝える。橋を架ける際にも、膨大な費用を使って立派な橋を架けるのではなく、みんなで自分たちの橋を架けるのである。身の丈にあった支援に、結局28年間という歳月を使われた。そしてブータンでその命を閉じたのである。ブータンで行われた葬儀は国葬となり、多くの人々が参列したそうである。

 なによりすばらしいのは、今のブータン農業は西岡さんの弟子が支えているということである。後継者をつくったということである。彼は一流の教育者でもあったということであろう。

 

 

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戦犯は誰に責任を負うのか(靖国の戦争責任)

 安倍新政権が発足した。小泉政権がぶちこわした中韓との関係がどうなるのかが、今注目されている。小泉前首相は靖国参拝を「心の問題」としてかたずけようとしたが、教師に日の丸・君が代を強制することは「国民として当たり前」としている。私は公務員なので、自分の信条とは別に国民の支持した政権に従う覚悟は持っているつもりだが、公務員のトップたる首相が国益を犯してまで自分の心にとらわれることには納得できない。彼の主張には公務員としての一貫性がないと思う。

 それはともかく、一度自分の靖国と戦犯に対する考えをまとめておこうと思う。先の大戦について日本がとるべき責任とは何であろうか。日本が侵略行為をして、それに対して誰かに責任をとるべきであるということに私は異論がない。しかし、それは欧米諸国に対する責任ではない。中国・韓国・東アジア・南太平洋等、日本が侵略した国と地域の人々に対してとるべき責任である。欧米諸国は日本よりも早くからアジア・アフリカ・北南米を侵略し虐殺してきた先達である。日本は強盗を働いたが、強盗から強盗呼ばわりされる筋合いはない。彼らに日本を罰する権利はないのである。誰に責任をとるべきか。そこのところが現代の日本では混同されているのではないか。

 つまり、勝者が敗者をさばいた、「平和に対する罪」という当時存在しなかった容疑を裁いた東京裁判には意味がない。インドのパール判事のいう通りである。東京裁判を否定する人はここで思考停止するが、あれだけの人々を日本本意に殺しておきながら、誰も責任をとらなくてもいいというのであろうか。欧米がやったのと同じ事をしたのだからいいというだろうか。それよりも気になることがある。東京裁判を否定する人から、「世界平和への情熱」を感じることができないのはなぜなのだろうか。ともかくあの裁判は侵略された側の視点からやり直す必要があるのと私は思うのだ。

 さらに私は、もう一つの責任があると思う。誰が国民をだまして無謀な戦争を引き起こし、泥沼につっこみ、死ななくてもいい国民を死地に赴かせたのかということである。このことは日本人が考え、日本人が責任を問わなければならない。アメリカなどという無法者国家に言われるものではない。つまり、当時の日本政府が日本国民に対してとるべき責任である。

 そうした視点から私は、東郷や近衛はやはり戦犯であると思う。そんなやつらを被害者ともいえる戦死者と同じ所に祀ったことが私には信じられない。本当に戦死者が神になっているのなら、きっと彼らはつまはじきにされているだろう。

 いや、さらに言いたい。靖国には責任はなかったのか。靖国が戦争遂行の精神的支柱となったことは間違いない。戦争遂行責任者が靖国を利用したのだとしても、靖国にも利用されたものとしての責任の取り方があるのではないのか。しかし、今は宗教法人となった靖国神社からそんな総括は聞いたこともない。だから靖国に平和の祈願のためにいくのだと小泉が言っても信じられないのである。

 安倍政権の誕生がいい機会だ。もう一度、あの戦争はどのように始まりどのように進んでいったのか、日本の当時の立場で総括しよう。侵略された被害者の側とも忌憚なく意見を交換しよう。

 君が代を「世界各国との友好を歌った歌」、日の丸を「平和国家日本の日が昇る」と解釈でき、外国がそれを認めてくれる日を望む。

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太田総理へ

 久しぶりにテレビを見ていたら、「太田総理」とかいうのをやっていた。公約(マニフェスト)を掲げて議論する。まあいえば、太田氏の言葉の多彩さをアピールするのが売りの番組だ。「朝ナマ」もそうだが、テレビカメラの前では矢継ぎ早に自分の意見を言う方が勝つ。相手に意見を言わせない。それは議論ではなく意見表明である。「熱血教師を撲滅すべし」というようなマニフェストでは、太田は「熱血教師は暑苦しい」「一つの価値観を押しつけるな」「俺は学校から学ぶものは何もなかった。教師は授業だけでいい。」などと言っていたが、自分の小さな経験の中に世の中のすべてを押し込めようとする暴論だ。自分があれだけ熱血して自分の意見を主張している姿と明らかに矛盾している。「漫才士は他人の価値観を変えられる仕事だ。政治家なんかより上だ」なんていっているが、すべての人の価値観を変えることなどできはしまい。教師も同じだ。自分が生徒の人生に価値あるかかわりをどれだけできるか日々勝負しているが、彼の出会った教師は、残念ながら失敗したということだろう。しかしながら、そのことが即「熱血教師はいらぬ」ということにはならない。(熱血教師の定義って何だろう?)

 その上でしかし、「太田総理」の発言には傾聴するものがあった。というのは、今日地理の授業で「朝鮮半島」を範囲としたのだ。その際私は、「韓国併合条約」についてこういった。「国際法上問題はない、という人もいるけれども、日本の強制だったのではないのか。手続きと実際とどちらをとるのかという問題だ。同じ事が日本国憲法にも言える。アメリカから押しつけられた、という現実?とクリアーしている手続きとの問題だ。手続き重視なら、韓国併合と日本国憲法をどちらも認めるべきだ。」と。その上で、「私が本当に大切だと思うのは国民が歓迎したのかどうかの現実だ。」と述べた。「太田総理」はそれを見事に言った。「日本国憲法はアメリカの押しつけだっていうけど、当時の日本人は喜んで向かえたっていう面もあるんだよ。」その通りである。

 最近の日本の言論には原点がない。首尾一貫性がない言論が多すぎる。自分の持っていきたい方向に持っていくために、そのつど便利な情報だけを引いてくる。この文章ももちろん私にとって便利な部分だけを持ってきているわけで、そのそしりを逃れられないが、視点を人間に持つことだけは一貫しているつもりである。

 「太田総理」!いいもんもってるやんけ!その力の使い方をしっかり考えや!

 教師としてのアドバイスである。

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近江の東海道

 ふるさと近江は「道の国」である。古代の東山道で最も畿内に近いだけでなく、江戸時代の東海道・中仙道・北陸道がすべて通る「東国への入り口」である。琵琶湖があることもあってまさに交通の要衝であり、美濃と同じくここを征すると「天下を征する」といわれた。

 モータリゼーションの波が押し寄せると「国民通過県」などと揶揄された時期もあったが、高齢社会に突入すると時間の確保できる御年寄りを中心に、かっての街道を歩いて古き日本を味わおうとする方々が増えた。時代に乗り遅れていたがゆえに風情が残ったのである。NHK-BS2の「街道てくてく旅」で、サッカーの岩本輝雄選手(復帰万歳!私は大ファンです!)が東海道、谷川真理さん(加賀路)や岩崎恭子さん(四国)などが旧街道を歩いているが、見ていてスローライフというか余裕を感じられて楽しい。こんどはスケートの勅使河原選手が中仙道を歩くらしい。なかなか楽しみなのである。

 私は水口(現・甲賀市水口町)に住んでいた。水口が宿場町であることが私の「道」への関心を決定的にしたことはまちがいない。

 近江鉄道の「水口石橋」駅を降りるとそこはもう街道筋。三筋の紡錘型の宿場町が展開されている。二〇年前にはまだ「コバタ」という看板があり、長いこと何を売っていたのかわからなかった(もちろんタバコ)。すでにシャッター街になりつつあったが、古い旅館が残っておりそれなりの風情があった。しかし、名物のはずの干瓢は八百屋に売っているだけで土産になっておらず、水口高校グランドの水口城跡は当時堀と石垣が未整備に鎮座し、野洲川の渡しにある街道第一の大きさの常夜灯も、みんな前に書いたように「ほったらかし」だった。今はどうなっているのだろうか。水口城は模擬櫓があると聞いているが、多少の整備をしても整備後の「ほったらかし」状態が続き、それなりに風情のある姿になっていると思う。

 この「ほったらかし」状態は様々な場所にあり、重要文化財の社寺が街道筋にひょっこりとあるのがいいのである。かつては琵琶湖水運の一大拠点だった「矢橋の帰帆」跡には当時の船着き場の石場が見事にのこっているが、近所の人が洗濯物を干しいていたりした事もある。全く観光客を呼ぼうと思っていないのだ。重要文化財でなくても、神社でいえば「式内社」がゴロゴロそこらにある。これが近江なのである。

 近江の旧東海道はよく残っている。国道1号線の工事の際に拡幅されている場所は少なく、当時の道幅に近いものが残っていることがうれしい。時々明治時代の付け替えなどが災いして江戸期の跡を通っていない旅人がいたが(土山と草津に勘違いしやすい箇所がある)、比較的「広重ポイント」もわかりやすい(「石部」が栗東市を描いたものであることには驚くが)。

 どの道が旧東海道なのかを正しく表記した本がなく、いい加減だったことから、「よし俺の手で作ってやろう」と思っていた。いまでは相当正しいものが出版されているので、ちょっとくやしかったりするのである。

 近江は「道の国」。道は人と物と、文化が行き来するところ。そんな当時のにぎわいを想像しながら「道」に立つのが好きなのである。

 近江のシリーズはまた続けていきたい。 

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ふるさと近江

 わがふるさと・近江(滋賀)について書いてみたい。

 「行く春を 近江の人と 惜しみけり」と芭蕉は詠んだ。この句を紹介して司馬遼太郎さんが、「近江は他の地域とは違うんです」と講演で言われたことが思い出される。だから「街道を往く」は近江から始めたんです、と。「近江」という言葉にあわあわとのぼりゆく情感を感じるんです、と。

 私の思う近江の特徴は、「ほったらかし」の文化である。日本の中に息づいていた様々なものが「ほったらかし」で存在している。生きている。そこらへんにある神社や寺に重要文化財がひょいっとある。日常歩いている道が東海道や中山道や朝鮮人街道だったりする。最近でこそ整備されつつあるが、安土城趾は見事な石垣があるのにまさに「ほったらかし」だった。大溝城趾なんか今でも見たらびっくりするくらい「ほったらかし」。国宝の寺社でも常楽寺・長寿寺なんか観光客もいないふつうの村の寺。苗村神社もふつうの村社。「ほったらかし」てある。近江八幡の水郷なんかすごいと思うけども全く注目されないのはなぜか。

 しかし、それがいい。へんに手を加えていないのが近江の良さ。しかも醒ヶ井の地蔵川や新旭のかばたのように、昔から使われている自然を利用した施設が今も生活の中に息づいている。なんだか昔から現在までがいっしょに存在しているのが、近江というところではないかと思う。

 観光開発を言う人もいる。しかし、ここまで琵琶湖と彦根城関連以外の観光開発はことごとく失敗してきた。いろいろな原因はあるだろうと思うが、一番の原因は対象が観光資源というよりは、むしろいまだ生活資源であることではないだろうか。

 「ほったらかし」で十分。それがわがふるさと近江の良さであると思う。知っている人だけが知ればいい。知りたい人にだけ教えてあげるのである。

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