祖父の記③

 1934(昭和9・康徳元)年。2年前に建国していた満州国で溥儀が皇帝に即位して満州帝国となった。「五族共和」の「王道楽土」を理想とするこの国から日本に、木工と印刷業技術者の招聘があったのはこの年のことであった。この報に接した武司は、10月、小菅刑務所を退職し、同僚であった増田武史とともに渡満することを決意した。12月に始まった正式な招聘刑務官事業に先立って3家族が渡満したが、二人に加えて名古屋刑務所の印刷技術員であった北川又も渡満した。同じ広島出身の後輩を武司は大切にした。武司は新京<現・長春>刑務所に奉職した(のち奉天<現・瀋陽>第一監獄に転勤)。当初発令された職名は「看守長」であった。
 当時、満州国の警察制度は日本の指導下にあり、武男は新京監獄において満州ではじめての日本人作業科長となった。増田もハルピン監獄の作業科長についた。満州の監獄は、取調段階からの過剰拘禁(一坪に数人など)など、収容者は過酷な環境下に置かれていた。ある程度施設が改善されていた1942(康徳9・昭和17)年当時でさえ、「収容者の年間死亡人員は、全施設の平均収容人員に匹敵」しており「裁判でいい渡された有期刑が矯正の段階で生命刑に転化する」(ともに『追想録 動乱下の満州矯正』)状態であった。暴動も多かったようである。1937(康徳5・昭和12)年に満州を訪れた正木亮は「その工場の狭くて就業人員の多いこと、獄内の不潔なこと、わたくしはこの國にこそ監獄改良の大きなメスを入れる必要のあることを痛感したものである」と感想をのべている。監獄の改善に必要な経費もままならず、1937(康徳4・昭和12)年からは「監獄特別会計制度」が実施された。収容者の作業による収益によって監獄の経費を賄うこととなったのである。武司ら作業科の責任はいや増して重くなっていった。
 そうしたなか、なにがあったのか。増田武史が自害した。囚人の更生を目的としていたはずの作業が、いつのまにか監獄の運営費を稼ぐことが目的となり、しかも彼らの命を奪う原因となる。真面目な増田には耐えられなかったのではないかと思われる。
 1937(康徳5・昭和12)年は、蘆溝橋事件を端緒とする日中戦争が始まりあわただしい空気が満州を包み始める時期である。雑誌「作業」にはこの年4月の武司科長を中心とする新京監獄の作業会議の様子を掲載している。ここには北川又氏や石川静夫氏ら、のちに「追想録」に武司のことを書き残して下さった方々も参加されている。この年6月、三男邦士が誕生。同年武司は奉天第一監獄に転勤。一家は奉天に移った。8月には満州視察に来た正木亮と錦州で出会っている?(「志願囚」)。
 しかし予期せぬ事が起こった。武司は結核に罹患し休職を余儀なくされてしまったのである。さらに結核は妻さちにも伝染。さちは4人目の子を身ごもっており、療養を考慮して1939(昭和14)年夏に一家で日本へ帰国。同年8月長女育美を生んだ。
 武司一家が暮らしたのは郷里の広島県佐伯郡五日市町(現広島市佐伯区五日市)であった。しかし、1941(昭和16)年1月1日、さちが死去。長男・和司を下谷区在住、さちの長兄・辰三郎に、次男康史を荒川区のさちの妹に預ける一方、自身は奉天第一監獄に一時復職。家族が離れて暮らす不自由な生活が始まったが、このような変則的な生活は長くは続かなかった。武司は満州の刑務官を正式に退職した。

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祖父の記②

1916(大正3)年、地元大柿町大原の大古(おおふる)尋常高等小学校の尋常科を出た武司は、併置されていた高等科に進学。1919(大正6)年には、親元を離れて佐伯郡立工業徒弟学校(現・広島県立廿日市高等学校)に進学した。廿日市は西中国山地からの林産物の集積地として発展した町で木工の伝統があり、武司はここで指物を学んだ。指物とは、釘などの接合道具を使わずに、木と 木を組み合わせて家具・建具・調度品などを作る技術である。進学先選びには家業との関連もあったであろう。1921(大正10)年3月徒弟学校を卒業した武男は、一時、呉海軍工廠に就業。当時柿浦から海軍工廠まで渡船があり、大柿村から1000人以上が働きに行っており、武司もその一人であったと思われる。

しかし、ほどなくして東京へ上京した。何が武司を東京へ駆り立てたのであろうか。
灘尾弘吉は22才。まだ内務省には入省していなかったであろう。しかし、武司の星雲の志を刺激するのに一役買ったであろうことは想像できる。
もう一人、いつどのように出会ったのかは不明であるが、同郷の佐伯郡玖波村出身に正木亮(あきら)がいる。当時は司法省行刑局勤務で、この年司法省監獄局に入っている。上京した武司は家具屋に就職し、都会での生活が始まった。

1923(大正12)年9月1日、職場近くの食堂でカレーライスを食事中、激しい揺れが襲った。関東大震災である。武司はテーブルの下にもぐりこみ、ことなきを得た。

翌年、徴兵によって九州福岡の大刀洗飛行場で軍務についた。後に東洋一の航空基地となる大刀洗飛行場も完成して5年。航空第4大隊が置かれているだけであったが、飛行機の重要性に着目していた軍部によって翌1925(大正14)年には航空第4連隊に昇格するなど発展途上であった。武司はここで整備兵として2年間をすごし、兵長で退役した。第一次世界大戦終了後の、国際協調路線が引かれていた時代であり、大きな危機を感じることなく兵役を終えたものと考えられる。

東京に帰った武司は、1929(昭和4)年、小菅刑務所に作業技師(指物工担当)として奉職した。トルストイなどの影響を受け監獄の環境改善に取り組んだ正木亮と知己となった。正木は受刑者と起居を共にして待遇改善策を提案するなど現場からの監獄学を打ち立て、戦後は死刑廃止論の弁護士として有名となった人物である。武司は受刑者を改心させ、手に職をつけさせて社会復帰の道を歩ませることに没頭した。
1932(昭和7)年には正木家出入りの大工の棟梁・中澤英助の娘である下谷区万年町のさちと結婚。さちは、1926(大正15)年、上野高等女学校(現・上野学園)を卒業した才媛であった。二人は東京で、和司(昭和8年)、康史(昭和9年)の2男をもうけた。

1934(昭和9)年、岸野秋一という同郷人が小菅刑務所に奉職。のちに、たいへんに世話になるこの人物は、気の合う、そして頼りがいのある先輩であった。

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祖父の記①

広島県の瀬戸内海に能美島という島がある。江田島と地続きになっているといえばおおよその位置が分かる方もおられるかと思うが、その名を聞いたことのない方の方も多いのではないだろうか。能美島は佐伯郡、江田島は安芸郡と郡も違ったが、その間は浅瀬となっており干潮時には飛び石を飛ぶように行き来ができた。「飛渡瀬(ひとのせ)」という集落名はそれをあらわしているという。浅瀬が埋め立てられたのは昭和はじめのことである。

島は全土が農業地帯で、米と麦以外に菜種・実綿・煙草・砂糖などの商品作物が収益をあげていた。明治期に蜜柑が導入され一時特産物となった。5月頃には蜜柑の花が咲き薫ったことであろう。
 漁業は近海の漁場を他の地域にとられ、さほど盛んとは言えなかったが、漁師には遠く韓国沿岸にイワシ漁に出かけて利益をあげるものがいたという。
 そんな島に大きな変化が訪れたのは明治中頃のこと。1888(明治21)年東京築地にあった海軍兵学校が江田島に移転。対岸の呉鎮守府とあわせて海軍の重要拠点として位置づけられることとなり、1894(明治28)年の日清戦争の際には広島に大本営が設置され、能美島も呉要塞地帯に組み入れられたのである。1896(明治29)年には能美島に朝日紡績能美工場(のち大阪合同紡績。現在東洋紡に吸収)が設立。さらに1903(明治36)年には呉海軍工廠が完成するなど、静かな農漁村は急速に近代化の波にさらされていった。各地から働く場所を求める移住者が相次いだ。

 武司は、明治37(1904)年12月29日、文次郎・スワの長男として、その能美島、佐伯郡大柿村大原に生まれた。父・文次郎は建具屋を営んでいたが、武司の祖父、文七郎の代に広島城下の段原村から移住してきたいわば新住民であった。
 大柿村は東能美島の中~南部(現在は江田島市)。大原(おおばら)、柿浦、大君(おおきみ)、小古江(おぶれ)の4カ村が明治22年に合併してできた村で、村名は二大集落であった大原と柿浦からとったという。大原は、世界で初めて全身麻酔による乳ガン手術に成功した華岡青州の門人・山野井元恵の出身地である。また同時代人としては、のちに文部大臣や衆議院議長となる灘尾弘吉(なだおひろきち)がでている。武男の5才年上の弘吉の家は町の名士で、弘吉は「神童」と呼ばれるほど優秀で有名であった。武司は灘尾家までよく遊びにいったという。また、被差別部落の解放に生涯をささげた山本政夫は隣村の柿浦で1898年の生まれである。灘尾と山本は同郷の友人として肝胆相照らす仲であった。
 急速に世界へ門戸を開いた故郷。ここにはさまざまな情報が飛び交い、日本や世界というより大きな世界を意識する素地があったのではないかと思われる。過去の偉人、そしてのちに東京で活躍する郷土の先輩と語らいながら、武司はどのような夢をいだいたのであろうか。

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「韓国修学旅行で土下座って本当?」第四回

韓国修学旅行で土下座って本当?」を書いて8年がたった。
産経新聞が世羅高校の修学旅行を「謝罪行事」と報じたものが、いつの間にか2chの「女子高生」を名乗る怪しい投稿と結びついて「土下座させられた」ということになってしまった経緯と、それらを取り巻く情報を吟味した上で、

「韓国修学旅行で土下座などしていない」と結論づけた。これ以後、多くの情報をいただき、2回の関連記事を書いた。

今回は4回目である。最近「土下座させられている写真」と称するものが出回っているから、これを書くことにしたのだが、しかし、今までで一番骨がない。

土下座写真ではないことが5分で調べられた。

そもそもの記事はこれである。

「まとめ安倍速報」

http://blog.livedoor.jp/abechan_matome/archives/40559824.html

検証には以下の二つの記事を参照すれば十分であろう。

http://kuyou.exblog.jp/628286/

http://14819219.at.webry.info/201011/article_22.html

検証記事もある。私の「韓国修学旅行で土下座って本当?」も紹介していただいている。

http://ameblo.jp/calorstars/entry-11921232415.html

これ以上何もいう必要もないだろう。

こんな簡単に検証できるデマを拡散する人に、朝日新聞を批判する資格などあるはずがない。

ばかばかしい。

(後記)


「まとめ安倍速報」

http://blog.livedoor.jp/abechan_matome/archives/40559824.html

のブログ主にトラックバッグを送っても掲載されないので、yossy名でコメント欄に上記事実を書きました。そうしたら反論らしきものを得意げに書いてきましたので、さらに反証したところ、ブログ主さんはその反証をカットし、私のコメントを拒否する設定にされたようです。

過ちを認めたのと同じこと。
この程度のプレッシャーで尻尾を巻いて逃げるのなら主義主張のはっきりしたブログなどやらなければいいのに。あーかっこわる。

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靖国への疑問

今年も終戦(敗戦)の日が過ぎ去った。毎年この日に、戦没者の無念に思いを馳せ、「二度と戦争を起こしてはならない」と決意・確認することは、この国にとって本当に大切なことであると思う。

さて靖国である。

はじめに、
中国・韓国などの外国が日本の国内の宗教事情に首を突っ込んでくることには私は否定的である。「うるさい」「他国のことに口を挟むな」と言っておく。「政府が宗教を優遇したり弾圧したりしない」という政教分離原則は、国によって形は違うが近代民主国家が獲得した原理である。他国の宗教事情について口を突っ込むのは政教分離原則に反する可能性がある。政府レベルで抗議されても日本国政府が靖国という宗教法人のあり方を変えることは政教分離原則にしたがえばできるはずもない。靖国のあり方は宗教レベルの議論でしか変えられないものなのである。閣僚であれ政治家であれ、個人の信条で参拝することを強制的に止めさせることなどできるはずがない。それを政府レベルで「するな」というのは、近代民主国家の否定である。もちろん、公人として公費を支出しての「公式参拝」は違憲であるが、それも外国から指摘される筋合いのものではない。

ただし、中国・韓国が言うのは問題ない。議論もしたらいい。しかし、ことは靖国神社という日本の宗教法人の問題である。靖国問題は本来、靖国などというばかげた宗教団体を信じて参拝する愚かな政治指導者の「個人的な資質」の問題である。ところがこいつらは、中国・韓国などから批判があるたびに「内政干渉だ」と「政治問題」にすりかえようとする。日本の中で日本人が「靖国をどう評価するか」という議論を進めることが優先されるべきで、外からやいやい言われると、冷静でなくなる人がでてきて「内政干渉」だと勘違いする人もでてくる。自重してもらいたいものだ。

さて、ここからは「宗教法人 靖国神社」に対する私の思いである。

私は前安倍政権が誕生したときに「靖国神社に戦争責任がある」という趣旨の記事を書いた。その思いは今も変わっていない。
「日本人なら靖国に詣って当たり前」と言う政治家がいる。大きなお世話である。

1.私には靖国神社に英霊が眠っているとは思えない。
そこにはどのような哲学・死生観があるのだろうか。どういう理屈でそうなるのだろうか。
戦没者を祀るために作った神社だから戦没者が眠っているのは当たり前、とは私には思えない。いかなる信用があってそんなことが信じられるのだろうか。
公が作った作り物の神社になど魂が帰ってくるはずがない。日本の伝統でもなんでもない。日本各地に自然に成立した伝統的な神社を、国家権力によって統合再編成して(潰すものは潰して)ヒエラルヒーに押し込んむことで、むしろ日本の伝統を壊したのが国家神道ではなかったのか。その象徴が靖国神社ではないのか。靖国を認めることは、長年培われてきた日本の文化を国家主導で再編し、国民精神を集めようとした明治新政府の行為を認めることになる。
レイテ島で亡くなった私の祖父はそんな出来合いの靖国になどいない。もし、魂というものがあるのなら、遺骨が埋まっている現地に留まっているか、帰りたくって仕方がなかった祖母と母の元に帰ってきたかであろう。

2.靖国は戦争遂行装置である。
「靖国で会おう」この言葉が、どれだけ多くの若者が無策無謀な作戦を受け入れる動機になったのか。靖国はいわば戦争遂行装置だったのである。この国の軍隊ほど兵隊の命を軽く扱った軍隊は近代には存在しないのではないだろうか。「死して虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓の一節に象徴されている。「捕虜にならずに死ね」「死んだら靖国で神になる」この思想がいったいどれだけの生きることのできる命を散らすことになったのか。先の大戦の日本人兵士の半分以上が餓死であったことと考え合わせれば、私は怒りを禁じえないのである。
ちなみに、アメリカのアーリントン墓地などと靖国はまったく違う。アーリントン墓地に眠る兵士たちは母国を守る「神」などではない。アメリカの兵士は「アーリントン墓地で会おう」などと言って玉砕しない。
靖国は無策無能な戦争指導者が無謀な作戦における死を納得させる手段。兵士を玉砕させる言い訳。悲劇を美談に摩り替えるフィルター。つまり戦争の道具。

3.靖国参拝は日本人として当たり前などとのたまう政治家らがいるが、自分の宗教的信念を国民に押し付けていることが分かっているのだろうか。
靖国を否定する人を「日本人じゃない」「売国奴」とまで悪し様に批判する連中がいるが、いったい何様だと思っているのだろうか。議論はいい。信教の自由には布教の自由も含まれているのだから。靖国神社の信者を増やす為に論陣を張るのは信者ならば当然であろう。しかし靖国を嫌いな人、評価できない人に対して、日本人じゃないとまで悪し様にいう政治家の存在はいかがなものか。靖国を強力にすすめる人たちの言動に他の宗教団体にはない独善性・強迫性を感じるのは私だけであろうか。
4.現憲法下に存在する宗教法人靖国神社は自らの戦争責任をどう総括するのだろうか。
国民みなが祈りを捧げたのに一国を敗戦の憂き目に遭わせた宗教的責任。靖国は無力な宗教だということを証明しているのではないか。
○敗戦が決定的だったのにも関わらず、無能・無策な戦争指導者が、無謀な精神論だけで立案した計画で多くの若者の命を散らせた。「靖国で会おう」という誰でも知っている言葉が示すように、そうした無策無謀な作戦の実行に靖国は利用された。その責任を認めるのかどうか。
国内で無策無謀な作戦を立案した張本人たち(その象徴がA級戦犯。彼ら一人一人に対する評価はいろいろあるが、少なくとも戦没者ではない)を合祀した責任。靖国は戦場でなくなった方々を祀るために作られたのではないのか。なぜ、彼らを特別に合祀したのか。そのために、天皇陛下と多くの国民が参拝できなくなった。その責任はどのように誰に取るのか。

4.戦没者名簿を厚生省から得ていた過去のシステムは政教分離違反だったのではないのか。そのことの総括を靖国は行ったのか。

これは、先の大戦を日本人としてどのように総括するか、ということとも関連する問題ではあるが、私の思いの中心はむしろ靖国の宗教としての価値について、である。靖国には参拝に値する宗教的価値などない、と私は思っているのである。

戦争でなくなった方々を国として悼む場所として靖国がふさわしいとは私にはまったく思えない。

ちなみに私は私の宗教的信念に従って、戦没者を毎年供養している。そこに国家が介在する余地などない。なぜ靖国を信仰する人は、政治家に参拝して欲しいのだろうか。政治家が参拝することを目的としている宗教法人は他にないのではないか。靖国という宗教は国家に依存し自立できない弱い国民性を表してもいる。

やはり私には靖国など必要ない。
追記:次の「アゴラ」掲載の主張は、私の考えにほぼ一致している。感性の似通った人と出会うことは、本当にうれしいことだ。

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芦浦道を行く

芦浦(あしうら)道という道があったらしい」と聞いて一度たどってみたいと思っていた。

これまでも、司馬遼太郎の『街道を行く』に影響されて、近江の街道をたどってきた。東海道、中山道、朝鮮人街道、西近江路、北陸道、北国脇往還、御代参街道などなど。最近は志那街道や矢橋道などの脇街道の経路をたどってみたりしている。

http://chizuz.com/map/map35271.html 志那街道

http://chizuz.com/map/map35454.html 矢橋道

芦浦道は、マイナーな道である。東海道、中山道などの大道ではないが、湖辺を南北に通る道は他になく、地元の庶民が行き交う道であったらしい。現在は「浜街道」に役割をゆずっている。

芦浦道は、大津市大江で東海道と分岐して、いきなり一部が東レ瀬田工場によって消えているが、その後大萱、新浜、矢橋、御倉、木川、上笠、下笠、穴村を通って芦浦観音寺で有名な芦浦へと抜ける。芦浦からは志那街道を北東に中山道を目指すことも、そのまま北上することもできたようである。

たどってみて分かったこと。とにかく道が細い。道幅はほとんどが2m弱(一間)といったところ。軽自動車でもしんどいだろう。一部は田の畦道と化している。地元の方と話したりもしたが、これが古い道だとは分かっていても、「芦浦道」という道であることは知られていない。忘れられつつある道なのである。

しかし、細い道なのに小学生の通学路だったりする。他に大きな道が出来て車はそっちへ行ってしまいかえって安全なのだろう。志那街道でも同じ現象がある。おそらく伝統的にそうなっているのだろう。

他の街道にはない特徴は、昭和50年代の道標が2つある。この道を消えさせてはならない、という関係者の努力が感じられて感激させられるものがある。他にも道ばたの古く小さな道標、明治初期のものと思われる水準点(主要道路に設置される)が見られ、趣が深い。

周辺に重要文化財が少ないことも、近江の他の街道と異なる特徴である。近江には重要文化財がゴロゴロあって多くが旧道に面している。しかし芦浦道には、矢橋に石津寺本堂と鞭崎神社表門、終点の芦浦に芦浦観音寺があるだけである。文化財にはどうも乏しい。やはり「日常の道」だったのではないかと想像する。

興味のある方は、たどってみて下さい。自転車が最適です。

http://chizuz.com/map/map51194.html 芦浦道

この次は、「山田道」を探してみます。

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御代参街道のルート

滋賀県・近江国の御代参街道(土山~小幡)のルートを載せてみました。滋賀県教育委員会の中近世古道調査報告5「御代参街道・杣街道」を参考にしました。歩かれる方の参考になれば幸いです。

http://chizuz.com/map/map36205.html

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知らなかった。こんなすごい人がいたなんて。

今日の産経新聞ネットに次のような記事があった。

【ベルリン=黒沢潤】第二次大戦中、ナチス・ドイツの支配下にあったポーランドのワルシャワ・ゲットーから、ユダヤ人の子供たち約2500人を救ったポーランド人女性、イレーナ・センドラーさんが12日、死去した。98歳。

 センドラーさんは1940年秋から、社会奉仕家の立場を利用して同ゲットー内に入り、幼児たちをスーツケースに入れたり、スカートの中に隠すなどして逃すことに成功。ナチス占領下でユダヤ人を助けることには、銃殺などの重罪に処せられる危険があったが、2年以上も命がけの活動を続け、子供たちを孤児院や病院、教会などに匿った。

 43年春、ゲシュタポ(国家秘密警察)に逮捕され、強制収容所で拷問を受けるが、「活動内容を明かすぐらいなら迷わず死を選ぶ」(生前の伝記)と、かたくなに沈黙を守り通した。その後、仲間がナチス高官を買収し、辛くも死を免れたが、拷問のため足や腕を骨折し、無意識状態のまま近くの森の中に捨てられた。

 英雄的な行動は、幼児たちを救ったことにとどまらない。“生き別れ”を余儀なくされた幼児と親が戦後、再開できるようにと、幼児1人1人の名前などを紙に書き、リンゴの木の下に埋めたことがその例だ。戦後は社会奉仕家として活動を再開、65年にはイスラエルから表彰を受けた。

 同ゲットーで43年、ナチスへの絶望的な蜂起を仕掛けたユダヤ人生存者、マレク・エデルマン氏は12日、地元テレビに対し、「他者のため、弱者のために立ち上がった人は当時、まれだった。偉大な人物を失った」と、その死を嘆いた。

 センドラーさんは昨年のノーベル平和賞候補にも挙がるなど、その勇気ある行動は世界で称賛されたが、死の間際のインタビューにで、「私が『英雄』と呼ばれることには抵抗がある。実はその逆だ。私はほんの一握りの子供しか救えなかったことに、今も良心の呵責(かしゃく)を感じ続けているのです」と語っていた。

偉大だ。あまりにも偉大だ。

最後の私はほんの一握りの子供しか救えなかったことに、今も良心の呵責(かしゃく)を感じ続けているのです」との言葉は、映画「シンドラーのリスト」のラストシーンでオスカー・シンドラーが言う言葉を思い出させる。何故もっと救えなかったのか!もっと救えた筈だ!あと一人でも二人でも・・・」。日本の杉原千畝もベルリンへ向かう列車が発車するとき、ユダヤの人々にこういった「許してください、みなさん。私には、もうこれ以上、書くことはできません…。みなさんのご無事を祈っています。」あの極限状態で人を救った方々はみんな「もっと自分にはできたはずだ」と思っている。

イスラエルは「諸国民の中の正義の人」賞という賞を作り、ホロコーストからユダヤ人を守った人を表彰しているが、2006年1月現在で21,311人おられるという。スウェーデンの外交官であったラウル・ワレンバーグは10万人ものユダヤ人を救った。さきにも触れた日本の外交官であった杉原千畝は本国の命令に背き、6000人のユダヤ人を救った。そのような社会的立場のある人もいたが、これらの英雄のほとんどが名もない庶民だ。あのベルリン市内でユダヤ人をかくまい続けたドイツ人もたくさんいるというから驚きだ。少女時代のオードリー・ヘップバーンもオランダでナチスへの抵抗運動の資金稼ぎのために踊り、かくまわれていたユダヤ人に食べ物を運ぶなど協力していたという。

日本ではどうだろうか。軍国主義政権に反抗し続けた庶民はどれだけいたのか。知識人はどれだけいたのか。私は、創価教育学会の牧口常三郎戸田城聖両先生と、横浜ホーリネス教会の菅野鋭牧師、少数の共産主義者、政治家では尾崎行雄しか知らない。

歴史上にはすごい人がいる。こうした人々の精神を忘れてはならない。日本にはこうしたすごい人たちをバカにする傾向がある。ホロコーストはなかった、だなんて命がけで戦った人たちの前で言えるのだろうか。命がけで戦って命を落とした人もいたはずだ。何もできていない我々にできることは、客観的に評価することではなく、ただ尊敬しその一分でも実践できるように心を強くすることだけだ。

日本は嫉妬社会。この風潮に巻き込まれまい。

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しられざる偉大な日本人シリーズ3 ミツコ・クーデンホーフ・カレルギー

クーデンホーフ・ミツコ(1874年~1941年)は、「ヨーロッパ統合の父」リヒャルト・クーデンホーフ・カレルギーの実母である。日本名を青山光子(戸籍名はミツ)といい実家は骨董屋を営む商家であった。青山家は徳川家の重臣の家柄で、東京都港区青山の地名はこの家があったことに由来するという。

18歳の冬、光子は事件に遭遇する。家の前でオーストリア大使館の代理公使ハインリヒ・クーデンホーフ・カレルギーが落馬したのである。献身的に介抱する光子。二人は恋におち、周囲の反対を押し切って結婚した。この結婚は「日本初の正式な国際結婚」であるといわれる。翌年に長男ハンス、翌々年に次男のリヒャルト(日本名は栄次郎)が生まれた。夫ハインリヒは、民間の女性との結婚を親に反対され相手が自殺するという悲劇を経験しており、「私の妻をヨーロッパ人と同じに扱わないものには決闘を申し込む」と宣言して光子を周囲の偏見から守ったという。合計7人の子宝に恵まれる。幸せな結婚生活であったようだ。

1896年に夫とともにオーストリアへと渡ったミツコを待っていたのは、夫の早すぎる死であった。夫の遺言で彼女は名門貴族の当主に。夫の親類からは大反対にあったがすべての裁判で勝利したという。

クーデンホーフ家当主のミツコは気丈であった。社交界にもデビューした。日露戦争で日本びいきだったヨーロッパ社会で一時だが花形の存在となり「黒髪の貴婦人」と呼ばれた。しかしその人気も第一次世界大戦では逆となった。日本がオーストリアの敵国となったからである。しかし、ミツコは赤十字社を通じて食料供出に奔走。また前線を慰問するなど必死で働いた。

その間にも子どもの教育には手を抜かなかった。家庭教師は必ず自分で面接し、人種差別的な思想を持っているものは絶対に採用しなかったという。その教育は厳しく、オーストリアの貴族として恥ずかしくないように、との願いが込められたもののようであった。しかし、子どもは父の血を継いだのであろうか、兄は第一次大戦からユダヤ人女性を連れて帰還。弟のリヒャルトは14歳年上の女優イタ゜・ローランと結婚した。このときリヒャルトは母から勘当されている。

そのリヒャルトが「パン=ヨーロッパ」主義を掲げて論壇にデビューしたのが1923年。息子が誰も考えなかったヨーロッパ統合から世界統合へ、という道筋を世界に向かってぶちあげたのである。その後の息子の活躍をミツコは遠くから喜び見つめていたという。

1925年に脳溢血となったミツコは体も不自由で寂しい晩年であったようだ。ナチスの影が忍び寄る第2次世界大戦前夜、カレルギー家当主のハンスもナチスの迫害から逃亡し、リヒャルトも亡命。その他の子どもも、3女のオルガを除いては家を去った。1941年にミツコはオルガに看取られて静かに息を引き取った。

晩年のリヒャルト・クーデンホーフ・カレルギーは

「若くして夫を失ったあと、七人のこどもを立派に育ててくれたのですが、母は、こどもの教育については、夫である私どもの父の精神を、そのまま受け継いでおりました。つまり、日本人としてではなく、ヨーロッパ人として、キリスト教徒としてでした。息子たちよりも、娘たちに対して、より厳格でした。私は、こうした母がいなかったとしたら、決してパン・ヨーロッパ運動をはじめることはなかっただろうと考えています。」(「文明・西と東」)

と母の影響について述べている。

ミツコ自身は自分自身は「必死で生きただけ」だというかも知れない。決して幸せな人生ではなかったかも知れない。しかし、彼女の行った教育が育てたものは、現在のEUにもつながり世界を変えるものであった。

その偉大な人生を讃えたい。

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しられざる偉大な日本人シリーズ2 ウズベキスタンの抑留日本兵たち

西岡京治さんから、久しぶりの第二弾である。

中央アジア・もとソ連のウズベキスタン。ここにも各地に満州から抑留された日本兵捕虜収容所があった。ウズベキスタン全土だけで約1000人が故国の土を踏むことなく亡くなったという。

この国の首都タシケント(地理の学習では内陸の地中海性気候(Cs)として有名)には次のような碑文がある。

[日本人抑留者記念碑文]
1945年から1946年にかけて、極東からウズベキスタンに強制移住された日本国民25,119余名の内、9,760余名が過酷な条件のもとで、数年にわたりタシケントの都市建設に貢献した。望郷の念むなしく79余名がこの地に眠る。この厳粛な歴史を後世にとどめ、永遠の平和と友好を念じ建立する。主な労働場所:ナヴォイ劇場、電線工場、運河建設、住宅建築、道路建設など。<2002年5月25日 日本人墓地整備と抑留者記念碑建設代表発起人会>

狂人スターリンが日本人を異国の地の強制労働に駆り立てた。シベリアの奥地よりは過ごしやすいはずのこの地でも約80名の方が亡くなっている。そして、その彼らが建設した建築物こそ『ナヴァイ国立劇場』である。

強制労働という忌まわしい記憶の産物であるこの劇場は、しかし思いもよらぬ効果をもたらした。建設の際のまじめな労働への取り組みの姿があった。そしてなんといっても完成後の1966年の大地震でタシケント市内の多くの建造物が倒壊した時、この劇場はビクともせず、「日本の建築技術は素晴らしい」という評価が定着したというのである。これらの事情からウズベキスタンの親日感情は中央アジアの中でも飛び抜けているらしい。

当時総指揮に当たったのは永田行夫さん。25歳で隊長となり本来の航空隊技術をこえる仕事をやってのけたという。

(以下参照)http://homepage2.nifty.com/silkroad-uzbek/works/2001/04_yuuzuru_nagata.html

羽田首相時代の2000年。事情を知る羽田首相とウズベキスタンの大統領との間で日本を代表するオペラ「夕鶴」の公開の話がすすんだ。翌2001年8月末、約束通りに「夕鶴」は講演された。現地の小学生は日本語を学びコーラスに参加したという。作曲者である團伊玖磨さんも指揮をする意欲を示しておられたが、残念ながら同年5月に逝去された。この時の公演は團伊玖磨さんの追悼公演ともなったのである。永田さんを含む当時の抑留者の代表も参加されたらしい。

戦中の日本の暴挙は批判されてしかるべきである。しかしだからといってスターリンの暴挙がゆるされるわけではあるまい。しかしそうした武力という強制力によって抑留された人々が、技術や文化の力によって日本への信頼を勝ち取ったのである。ソフトパワー(感化力・教育力など)がハードパワー(有無を言わさぬ強制力=武力・政治力など)に打ち勝ったすばらしい事例である。

日本の今後行く道がここに示されていると強く感じる。文化立国日本の建設を目指さなければならない。

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