別件の有罪視報道

結婚詐欺で逮捕された女性が、連続殺人の犯人ではないかと報道されている。今日は鳥取県でもよく似た事件があると報道されている。これはおかしい!

私は報道を見つめ続けてきた人間として、次のように考える。

①報道されているように連続殺人があったのなら、なぜ殺人容疑で逮捕しないのか。

②それはおそらく怪しいという状況はあるものの、物的証拠がないからであろう。物的証拠があれば必ず逮捕しているはずである。

③逮捕もされていないのに報道機関が詳細な捜査情報を得ているのは、捜査官が積極的にリークしているからであろう。

④捜査官が積極的に情報をリークして「あいつが犯人に違いない」という世論を喚起する背景には、裁判員制度の存在があるのではないか。公判を維持しにくいことが想像できる事案について、公判前に犯人であるという印象を世間に持たせることに成功すれば、検察に有利に裁判はすすむであろう。

マスコミが裁判員制度をつぶすようなことに使われなければいいが。

マスコミ諸君よ!何回同じ事を繰り返せば学習するのかね!今回の報道は、松本サリン事件の時とよく似ているぜ!「怪しい」だけで1人の人間を極悪犯人に仕立て上げていいものかね!なんで、証拠がそろって逮捕されるのを待てないのかね!逮捕されたって犯人だと決まったわけではないのに、逮捕もされていない事案で犯人にされることがいいと思っているのか!君たちは警察に使われているだけだ!いったいマスコミの使命はどこへ行ってしまったのか!そんなにネタに困っているのなら、鳩山事務所の政治資金規正法違反や事務所費問題をもっととりあげたらどうだ!それとも権力が怖いか!

目の前で起こっているのは、冤罪の最大の原因である「別件逮捕」だ。そのことを私たちは忘れてはならない。

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千葉・殺人連れ去り事件に見るマスコミ

千葉県で、男のストーカーが相手女性の母親を殺し相手を連れ去り沖縄で発見されるという事件が起こった。この事件の報道の仕方を見て思うこと。

☆「○○容疑者が、今、那覇空港に入りました!」「この車が○○容疑者を乗せた車だと思われます。あっ!今、頭から服をかぶった○○容疑者が~に入りました!」こんな実況中継に何の意味があるのだろうか。

☆連れ去り被害者の顔写真を何度も何度も報道する。被害者の顔写真は捜査の手段として公開されていたとはいうものの、身柄が確保された後に電波に載せる必要はあるまい。被害者と加害者が、出会い系サイトで知り合ったという報道とあいまって、被害者バッシングが大きくなる可能性があると思わないのだろうか。

☆この事件はそんなに何回も報道する意味のある事件なのだろうか。誤解を恐れずにいう。殺人事件や誘拐事件は何回も起こっている。事件に国民に対する大きな教訓や問題提起が潜んでいるなら報道すればよい。しかし。今回の事件になにがあるというのだろう。こんな事件を繰り返し報道しているヒマがあるなら、未解決の殺人事件や誘拐連れ去り事件を報道するべきだ!

衆議院選挙が決まって、与党バッシングがしにくくなったけれども、トップニュースは毎日必要。残虐な謎に満ちた事件なら視聴率を稼げるといった所だろうか。

マスコミの情けなさを、またしても痛感する。

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都議選のマスコミ報道

都議会議員選挙が終わって、さらに深まった思い。それは、「やっぱりマスコミは面白ければいいんだな」ということである。本質的なことがまったく触れられていない。
今回の都議会議員選挙結果とは何か。
一つは、連立与党が過半数を割ったこと。このことはマスコミも報道した。
しかし、相変わらず連立与党が民主党を上回った、という事実は報道されていない。自民党1458108.233票、公明党743427.674票で連立与党の合計2201535.907票に対し、民主党2298494..617票と票では上回ったものの、自民38人公明23人、連立与党の合計61人の当選者に対して、民主は54人しか当選していないのである。共産党(8人)以外の諸派・無所属の4人を足しても58人と、及ばない。つまり民主党が政権を取ったとは言えない中途半端な勝利なのである。
民主は今まで通り反対はできる。共産はいつも反対だから。しかし、何かを実現するためには自民・公明の少なくともどちらかの理解を得なければならない。そのことは自・公も同じである。つまり、自・公・民には今まで以上の話し合いの姿勢が、民主党には今までなくてもよかった責任ある対応が求められるのである。
今までは民主が反対しても賛成しても結果は変わらなかったので、ポーズだけ、人気取りのための反対があり得たが、今後は、民主が反対することでその政策は実現できなくなるのだ。その結果責任は民主党も負わなければならなくなったのだ。そういう意味では、よい政治になるのではないかと私は期待したい。
二つには、自民と共産と社民が大敗したこと。マスコミは自民の敗北しか伝えない。公明は全勝。したがって「自公連立大敗」ではない。連立政権の大敗の流れを公明党が断ち切った。
注目するべきは、共産党と社民党の惨敗である。共産党の当選者数は13人から8人と激減した。それだけでなく、4人が供託金没収となった。この大切な選挙に、いったい何を考えているのだろう(供託金没収は、無所属をのぞけば共産党と幸福実現党だけである)。『蟹工船』ブームで党員が増えたと喜んでいた共産党だが、実働部隊の増加にはつながらなかったということだろう。社民党は前回に引き続き当選者ゼロ。その共産党と社民党に、「国民の心は、自公連立政権から離れた」などという資格があるだろうか。このこの2党に都民の心はない。この2党はどれだけ負けても党首の責任は問われない。だから厚顔無恥なことをシレッと言えるのである。マイクを向けること自体、意味がない。
今回私が最も理解できなかったのは、都議選の総括番組に、候補を立てることさえ出来なかった国民新党や日本新党の代表者が出演していたことである。彼らは都議選に関係ない。マスコミの受け狙い、「与党大敗」という悪宣伝のための演出である。「都議選が衆議院に直結する」という民主党が醸成した雰囲気にマスコミが乗っかっている証拠である。本来は東京都の選挙であって、国政とは関係ないはずである。(そもそも政治討論番組に出演する人数は、衆議院の議席で勝る与党は自・公で2人のみ。野党の代表は各党1人で数人となって、いつも袋だたきの構図になっているのが、私にはヤラセに見えて仕方がない
あーあ、またもマスコミ批判。いやになるね。でも鼻についてしかたがないので書いてしまいました。

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「自民に不満」が「民主に不安」を上回る

最近、非自民連立政権誕生の時のことを思い出す。

あのとき、「とにかく自民はダメ」「自民は時代遅れ」というイメージが先行し、自民党が大敗し、勢いにまかせて、選挙前に公約にしたわけでもない非自民連立政権が誕生した。「時代は変わった」そういう雰囲気が広がった。私もそう思った一人だった。

しかし誕生した非自民政権は、国政経験がない総理の下で、現実的になれない社会党を抱き込んで、ウラでは小沢が操っていることが丸見えで、ほとんど何もできないまま、野党に落ちた自民党の必死の憲法術数の手にかかって瓦解した。

今の世間に当時と同じような空気を感じるのは私だけであろうか。

民主党は完全にイメージが先行している。私は現在の政界を混乱させているのは他でもない自民党の内部紛争だと思っている。民主党が評価されているわけではない。だいたい民主党の政権公約は信用していいのだろうか?私は疑問である。

一つ例をあげよう。

子ども手当である。中学生以下の子ども一人につき、月額26000円といっていたのが当面13000円になるそうだ。財源は、配偶者控除の廃止と扶養者控除の見直し。つまり専業主婦のおられる世帯には厳しく共稼ぎ世帯にはうれしい政策。子どものいない世帯に厳しく中学生のおられる世帯にうれしい政策。お年寄りを抱えている3世代世帯に厳しい政策。そういうことが分かって民主党を応援している人がどれだけいるだろうか。

世帯に直して考えてみよう。10%の累進課税率で計算すると、世帯にとって、

配偶者控除(国税38万円、住民税33万円の所得控除)。つまり、7万1千円。

扶養控除(扶養家族一人当たり国税38万円・住民税33万円。16歳~23歳までの扶養親族は国税63万円・住民税45万円。70歳以上の扶養親族は同居の場合国税58万円・住民税45万円、別居の場合は国税48万円・住民税38万円)。つまり「見直し」という言葉が「廃止」なら、

小中学生以下1人につき7万1千円

高校・大学生1人につき10万8千円

同居の70歳以上のお年寄り1人につき10万3千円

別居の70歳以上のお年寄り1人につき9万6千円

が増税になる。

さらに当然の事ながら、小学生以下の第1子と第2子に年額6万円、第3子に年額12万円児童手当も貰えなくなる。

我が家の場合、配偶者控除(71,000円)、扶養控除(213,000円)の増税と児童手当(240,000円)が貰えなくなるので、52万4000円の負担増と引き替えに、子ども手当を貰うことになる。

こども手当は、13,000円×3人×12ヶ月=46万8000円であるから、実質5万6千円の負担増なのである。子どもが3人いる私の家でさえもそうなのだ。

各ご家庭で計算されてはいかがだろうか。ちなみに子どもと同居せず、専業主婦の奥さんがおられ、70歳以上のお年寄り夫妻と同居しておられるご家庭は27万7千円の負担増となる。

つまりこの政策は、児童手当が少ないから子ども手当として増やすのではなく、中学生の子どもさんがおられるご家庭を応援するために、それ以外のご家庭の負担増をはかるものなのだ。

そう言う風に正直に言わないところに、民主党の不誠実さがある。年金案も高速道路無料化も、肝心な財源になると「ムダをなくす」。どういうムダをどのようになくすのか聞くと、「野党だから詳しい資料がなく今は答えられない。」ならばどうして「ムダをはぶく」と言えるのか。「与党になったらやっぱり無理だったということが分かりました」というのではないか。実に誠意が感じられない!国民にはそういう不安があるのである。

しかし、その不安も自民党への不満の前には消し飛んでしまう。今まさに具体性のないイメージの台風が吹き荒れている。それが非自民政権誕生前夜と似ているのである。

「民主党が政権をとったら、手のひらを返したようにマスコミは民主党批判を始める!」

私の予言である。

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無責任な「ええかっこしい」

前回、石田英司について書いたが、いいたりないので続きである。もっとも今回は彼に限ったことではない。

ニュースや野党が政府の政策を評価する時の批判方法については一定のパターンがあるのである。

○ETC搭載車の高速道路1000円乗り放題など、第一次的に恩恵をうける人が限られている場合

  「不公平な政策だ!」

○定額給付金や児童手当拡充などのように、第一次的に恩恵を受ける人が広く多い場合

  「バラマキだ!」児童手当拡充の場合は、不公平だ!もあり得る)

○大企業が活性化する政策

  「大企業優遇だ!」

○今回のように中小企業がつぶれないように手を入れると

  まずは「無視」その上で「大企業に手を入れないと結局は中小はよくならない」とのたまう

○選挙前に国民受けする政策を打ち出すと

  「結局は選挙狙いなんでしょ!」 ピーコっぽく)

  これは本当に怖い言葉。国民から思考力とやる気を奪う悪魔の言葉。)

○第一次的な国民への恩恵が見えにくく、効果に時間がかかる政策には

  「国民の声が聞こえていない」「結局は国会の先生方なんかに私たちのことなんかわかるわけないじゃないの」ピーコっぽく)

○公共事業を推進しようとすると(その事業が本当に必要かどうかという微妙な判断には悩まずとりあえず切って捨てて)

  「とにかく無駄遣いだ!」「政治家・官僚と土建屋が裏でつながっている!」

○とりあえず公務員と国会議員の

  「給料を減らせ!」「定員を削減しろ!」

○国債発行を増額すると、政策評価はそっちのけで

  「将来の子孫に負担を残す」

○緊縮財政を引くと

  「国として果たすべき責任は、ちゃんと果たしてもらわないと」

○福祉国家政策には

  「護送船団方式だ」「こんなんじゃ頑張った人が報われない」

○新自由主義的な政策には

  「セーフティーネットは政府の責任」「格差社会だ!」

他にもいろいろある。相互にコメントが矛盾しても彼らには関係ない。その場限りの発言に終始する。時期が違えば忘れられると思っているらしい。古館なんかしょっちゅう過去の発言と矛盾している。

民主党なんか、「児童手当の拡充」にバラマキ批判で反対して「子ども手当」を主張したり、「定額給付金」を否定して「給付付税額控除」を主張している。名前を変えただけだ。与党の年金システムは社保庁の怠慢もあって悲惨なものとなったが、社保庁の職員が「働きすぎないよう」に組合活動してきたのを支えてきたのは民主党。それを隠して批判だけする。民主党の主張する新しい年金システムは相当な増税抜きではとても実現できないが、与党が消費税アップをいうとすぐに否定。国会は議論の場ではなく、悪口とパフォーマンスの場となっている。

とにかく、どういう政策を打ち出しても、それに対する「悪口」はちゃんと用意されているのである。

パターン化されたセリフを言っていれば「ええかっこしい」できるのだから、うらやましい。こういう、口ばっかりで何も行動しない無責任なやつのことを世間では「あいつは評論家だ」という。「評論家」という言葉が「無責任」の代名詞となっているのも悲しい現実だが、今、一億総評論家時代が来ているように思う。

テレビや野党が、みょうに冷めて評論ばかりして責任感ある発言をしようとしない。国民にもこの雰囲気が伝播している。

日本の危機である。

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石田英司よ、いいかげんにしろ!

昨日、関西系毎日放送の昼の情報番組「ちちんぷいぷい」を見た。その中で石田英司という、報道畑であることだけが売りで特に何の専門性も感じられない、最近ニュースバラエティによくある解説者兼出演者が、おかしなことを自信満々に言っていた。

『定額給付金は国が借金してしたものだから、借金を返す子どもがもらうべきだ』という指摘をどこからか取り上げて、「当たっている。すばらしい指摘だ」というのである。

バカバカしい。二重の意味で間違っている。

まず、定額給付金の財源は特別会計の剰余金いわゆる「埋蔵金」。つまりこれまでの世代が払いすぎたもの。これを減税で国民に返そうといたのだが、それでは納税者しか恩恵を受けないので定額給付にしたのである。さらに、支給対象は「世帯」。子どもなわけがない。子育ての大変な「世帯」に手厚く支給するという考え方だ。石田はあきらかに前提を間違っている。

こういう報道が、間違った知識を国民に植え付け、「これを受け取ったらかわりに消費税アップやで」「子どもに支給するのはおかしい」なんていうお門違いの批判につながる。いや、石田自身がそういいかねない。

私は仕事柄そんなに「ちちんぷいぷい」をしょっちゅう見ているわけではないが、どうやら石田には「分かりやすい」という定評があるらしい。それは認めてもよい。しかし反面、大衆迎合的で、「とりあえずお上を批判していれば格好いい」というような、ちょっとできる中高生みたいな解説が目立つように思う。確かにそういうタイプの話は、国民の憂さ晴らしにはなる。しかし、彼の発言からマスコミ人として世の中を良くしていく責任感を感じられない。今の不景気の時、「このお金、みんなでパアッと使いましょう!」と消費を喚起するのがせめてもの責任感ではないのか。

今回かれは、国民生活に直結して多くの人が喜ぶことのできる機会にさえも水をさそうとしている。

いいかげんにしてもらいたい。

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週刊誌の終焉

週刊現代に「あしたのジョー」が再連載された。

これを聞いて「週刊現代も終わったな」と思ったのは私だけだろうか。

そもそも記事でなく、中年サラリーマンの懐古趣味頼みとは情けない。

しかも記事自体の信用性が低い。先日は大相撲の八百長疑惑を報じて、名誉毀損裁判で1500万円という賠償を命じられた。その前には若ノ鵬にウソの八百長告発をさせている。他にも信用できない記事がいっぱいある。

2008年上半期に、前年同期から25%減の264,389部の販売部数となったことが報じられたのが昨年11月。最高150万部を発行していたというから、その凋落ぶりは激しい。

週刊現代だけではない。週刊新潮の記事が信用できないことは、統括責任者であった斎藤十一がうちは文芸をあつかう出版社。真実でなくてもいい。」などと公言していたというからも明らか。ゲテ者趣味、高潔な人間も一皮剥けば金と酒と女、といった人間をバカにした取材軽視の編集方針は以前から批判されてきた。それでも反省はしない。このほどは朝日新聞阪神支局襲撃事件の真犯人であるという男性の独白記事を掲載したが、当の被害者である朝日新聞社への取材を怠り矛盾を指摘されている。これなどは自殺行為といえる。販売部数も下降気味だ。

真のジャーナリズムが育たないと、国が滅びる。「報道の権利」が国民の「知る権利」と密接な関係があることは明らかだ。マスコミは「売る」ためでなく「国民に真実を伝える」ために報道の権利を国民から付託されている、と考えるべきなのだ。しかし、ここまでの週刊誌は違った。センセーショナルに不確定なことや時にはウソを掻き立ててきた。国民が見放すのは当たり前だ。そもそも週に一回きちんとした取材をして週刊誌を発行することなど出版社に可能なのであろうか。

新聞社系の週刊誌の変化も私は気になっている。サンデー毎日はなぜ出版社系のような体裁に変えたのだろうか。同じ轍を踏まないよう、祈らざるを得ない。

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授業料未納者に卒業証書授与するの?

今日(2009年2月27日)、島根県の県立8高校が、「授業料を滞納している生徒には卒業証書を渡さない」と各家庭に通告していたことが報道された。

最初は、「それだけ景気が悪くなった」という報道かと思っていたら、「卒業証書を渡さないなんてけしからん」という報道らしい信じられない!

確かめたわけではないが、全国ほぼすべての高校の学則は、授業料滞納者は卒業させないことになっていると思う。私の過去3校の赴任高はすべてそうだった。私の中ではそんなことは当たり前である。

経済的にしんどい家庭には授業料減免の制度もある。奨学金もある。たいていの学校は、家計の困難な生徒はアルバイトも手続きをすれば認められる。そうした条件の中でどうして授業料の支払いができないのかわからない。

なによりも、それを「弱者の立場」を装って甘やかそうとする報道の姿勢がゆるせない。現在の制度でもどうしても払えない事情がある人がいるなら、その人をフォローする制度がないことを批判し、問題提起すればよい。あれこれ理由にもならない理由をあげて給食費すら払わない保護者がいる時代である。

卒業証書を授与しないことを批判するのはおかしい!

この報道が、ますます無責任で自分勝手な人たちをのさばらせる結果にならないか、本当に心配である。

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ニュースは解説しろ!

最近ずっと感じてきたこと。ニュースが解説しない。

ニュースの使命は、視聴者に現在起こっている出来事を解説すること。事件であれば、その原因とその影響とその教訓などを視聴者に解説して、視聴者の生活が少しでも安全でよりよいものになるようにすることではないのか。

コメンテーターの感想なんか求めていない解説者を呼んでこい!いったいいつから素人がコメンテーターになったのだろう。「とんでもないですね」なんて時間の無駄。殺人事件の時に犯人が許せないのは当たり前である。しかし、犯人の側にも何か酌量するべき事情があるかも知れない。そのことに思いがいかないくらいバッシングのオンパレード。物事を単純化して正義の味方をきどるのはやめてもらいたい。今、マスコミが冤罪を作っている。

政治的な出来事の時に事態はさらに深刻になる。今は「お上」を批判すれば受ける時代。不景気が国民の不満を呼び起こし、「国のために自分に何ができるか」よりも「国が何をしてくれないか」ばかりを気にしている国民性がある。故ケネディ大統領が聞いたら嘆くだろう。だからニュースは国民に何ができるか、国民に必要な情報を開示し解説しない。勉強する時間がないくらい忙しい不勉強な人気メインキャスターや人気コメンテーターにとって、自分に期待されているのは国民と一緒になって怒ったふりをしていること。わかったような顔をして「私たち庶民の気持ちなんか、政治家には分からない」と言っていれば視聴率がとれるのである。国民は「そうそうその通り」と人のせいにして少し安心する。中小企業の融資政策に対してある経営者が「借りたら返すのが大変なんだ。政治家には我々のことなんかわかりっこない」と言っている映像が流されて、それにあいづちを打つコメンテーター。

100%すばらしい政策などあり得ないから、ニュースは残りの何%かをつけば国民の不安と不満を掻き立てることができるのである。「この政策の利点は何、欠点は何、この意見の利点は何、欠点は何。国民の皆さんどちらを選択しますか」という解説をしないから国民はため息をつくだけ。どんどんやる気がなくなる。とにかく与党・政府批判ばかり。これが今のニュースバラエティだ。

専門性の高い職業の人をこき下ろして「先生と呼ばれていても所詮こんなもの」という風潮も無関係ではあるまい。

このままのマスコミでは、マスコミが日本を滅ぼす、と言われても仕方がない。マスコミよ!変われ!そうしないと日本が危ない!

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政教分離と『政教分離』

国政選挙前になると、政教分離、政教一致という言葉が飛び交う。公明党と創価学会との関係を批判するのに使われることが多いようだ。しかしこの言葉、憲法をまともに学んだ人間からみれば、間違って使われている。ここで少し整理してみたい。

○日本国憲法の政教分離

日本国憲法の政教分離原則は、二〇条1項後段、3項と八九条がこれにあたるとされている。

二〇条1項後段「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上

       の権力を行使してはならない。」

二〇条3項  「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動

       もしてはならない。」

八九条    「公金その他の公の財産は、宗教上の組織もしくは団体の使用、便益若しくは維持のため、(中略)これを支出し、又はその利用に供してはならない。

政教分離という言葉は条文にはなく、厳密には「国家と宗教との分離」(橋本公亘著『日本国憲法』233頁など)であるので各種辞書などには国教分離でもよいとなっている。いやむしろ国教分離としないことが勘違いを生む原因となっている。政党と宗教団体の分離ではないのだ。

さて、二〇条後段の、国から受けてはならない「特権」とは「他の宗教団体に比べて、あるいは一般の国民・団体に比べて、特別な利益のこと」(芦部信喜著『憲法』151頁)。ちなみに宗教法人に対する非課税措置は、他の公益法人や社会福祉法人も同様なので、特権に含まれないと考えるのが定説である。

また、行使してはならない「政治上の権力」とは、「立法権・課税権などの統治的権力のこと。政治活動そのものではない」(同書152頁)。芦部信喜著『憲法』が司法試験のバイブルと評される書物であることはよく知られている。芦部氏は『憲法学Ⅲ』で、佐藤功氏の、「政治上の権力」とは「政治上の『権威』とでもいうべき観念」であり「宗教団体が政治的権威の機能を営んではならないという趣旨」、という説を「政治的権威の機能」の意味が不明確で拡大解釈すれば逆に宗教団体のみを不当に差別することになる、という趣旨の反論をしている。また、「宗教団体が政党を組織しその他積極的な政治活動によって政治に強い影響を与えることを禁止する趣旨」とする田上穣治氏の説にも、同様の疑問を投げかけている。また、野中俊彦他著『憲法Ⅰ』(いわゆる四人本)は、両説へのより詳しい反論を掲載している。

(田上穣治氏はキリスト教徒であったらしいが、どうも宗教団体に対する偏見が強い。「宗教団体の政治活動は、(中略)他の政治団体がその信仰に帰依しないかぎり、容易に妥協を許さない性格をもつから、民主政治が自由な討論によって一致点を見出し、採決において少数意見が多数意見に服するための前提としての、同質性に反する」つまり、宗教団体は民主主義的でない、と言いたいらしい。完全な偏見。単なる個人的な感想である。そんなものに立脚して論を立てるのは学者としてどうかと思う。)

ちなみに、内閣法制局も「宗教団体の政治参加は問題ない」としているし、第90回帝国議会いわゆる成憲議会でも同様の確認がされている。また、「宗教団体の政治参加を禁じる」法律はないし、そのような裁判所の判決はでていない。三権とも「問題なし」としているのである。

以上で、宗教団体の政治参加は政教分離原則に反しないことが分かる

○公明党と創価学会の『政教分離』

日本にはもう一つの『政教分離』がある。それは「公明党と創価学会が人事と財政を分離した」ことである(以下『政教分離』と表現する)。1969年、言論出版妨害事件をきっかけに、公明党に議席数を追い越された共産党と民社党などの野党を中心に、公明党と創価学会が『政教一致』であるという批判が起こった。上記に見たように、憲法の常識から考えれば創価学会が公明党を支援することには何の問題もない。しかし、当時の公明党・創価学会のなかには「国立戒壇」の建設や「王仏冥合」を理想とする考え方があった。学会は「現代的に解釈すれば政教一致的な主張ではない」というが、少なくとも言葉は仏教用語であるし、政府資金で「国立戒壇」をつくるべきだと考えていた学会員もいたようである(これはもちろん憲法違反)。そこで池田大作会長(当時)が、197053日に、世間を騒がせ誤解を与えたことを謝罪するとともに、学会内の考え方を見直し統一した上で、公明党との人事と財政の分離を宣言したのである。これが公明党と創価学会の『政教分離』で、公明党と創価学会の関係を見直したものであり憲法の政教分離とは全く次元が違う。公明党と創価学会はみずからの内部改革としての『政教分離』をしたのであって、それ以前も以後も創価学会が公明党を支援することは憲法上なんの問題もないのである。もちろん他の宗教団体も支援活動をしてよいし、実際にしている。口をきわめて公明党批判をしている石井一民主党副代表も崇教真光から支援してもらっている。)

この二つの次元の違う政教分離が混同されて世間で論じられているのだ。いやその正当性を知っているくせに、公明党の対立勢力は政敵を追い落とすためにこうした批判を繰り返すのである。そしてもらえるときには黙って票をもらう。

政治家とはいかにいやらしい存在なのか、痛感する事例である。

憲法学を少しでもかじれば分かることである。

国民は政治家とマスコミのウソに騙されず、正当な議論をしなければなるまい。

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