滋賀県の体育施設建設は無駄なのか。

最近は、SNSの利用が多くなっており、ブログ記事を書く機会がなかった。
しかし、長い文章はブログの方がふさわしい。今回は久しぶりに腹に据えかねて書くことにした。

2月19日、久しぶりに早く帰って、ABC放送の夕方の情報番組「キャスト」を見る機会があった。「ウエダのギモン」という特集で組まれていたのが、
滋賀国体開催にナゼ500億円かかる!? 県民一人あたり3万5千円の税金負担へというものだった。
 https://www.asahi.co.jp/cast/contents/?cast=sp&page=201902

私はそのあまりに酷い印象操作に驚いた。はなから「滋賀県には立派な体育施設は必要ない」という結論ありきの内容だったからだ。明らかに滋賀をバカにしている。

滋賀では2024年に国体を開催する予定だが、そのメイン会場は彦根に建設中の県立陸上競技場(20000人予定)である。
この完成予想図を見て上田アナの言った一言が許せなかった。

「ビジョンもついているんですか。オリンピックでもできそうな」

できる訳がない!
ビジョンがついていたらオリンピックができるとでもいうのだろうか。日本陸連の規定では、全国大会を開催できる第1種公認競技場の条件として「電光掲示盤を設置することが望ましい」とはっきりと明記してある。しかも国体後の活用方法としてサッカーでの利用を考えると、Jリーグの試合では必ずビジョンは必要となる。J1は観客席が固定席で20000人以上なので、これでもJ1の試合には使えないのである。

大阪のヤンマースタジアム長居(50000人)にも、兵庫県の神戸総合運動公園ユニバー記念競技場(45000人)にも、京都の西京極陸上競技場(20588人)にも、和歌山の紀三井寺陸上競技場(19200人)にも、ビジョンはついている。ならでんフィールドはビジョンはなさそうだが、収容人数は36000人と滋賀の計画中のものよりも多い。
滋賀の新競技場が突出して豪華な施設というわけではまったくないのである。
なのに上田アナは、なぜ「オリンピックでもできそうな」と言ったのか。それはこの国体が金を使いすぎる、という印象を番組の最初にアピールしたかったからに違いない。

滋賀が新しい陸上競技場を建設する必要があったのは、近畿で唯一、2011年から改定適用された規定をクリアした第1種公認陸上競技場(15000万人以上、サブトラックとして第3種競技場を併設)がないからである。日本陸連主催の全国大会の開催は第1種公認競技場でないとできない。前回の国体でメイン会場となった皇子山陸上競技場は観客席12000人と少なく、さらに夜間照明もない。第3種競技場も併設されていない。既設なので第1種Bの扱いにはなるが、改修が条件。大津市は改修を拒否したと聞いている。彦根の新競技場の前の競技場も2種であった。
番組では「当時の施設を利用すればもっと安く抑えられそうですよね」なんていっていたが、その当たりの事情をちゃんと取材したのだろうか?
もっとも、「新設するにしても高すぎる」という批判は可能である。他の同規模のスタジアムの建設費と比較すればよい。マスコミはそうした調査のプロのはずである。ぜひ、調べて報道してほしい。


さて、前回昭和54年「当時の施設」は今どうなっているか。番組では、その傷み具合を映像で一部紹介してはいた。しかし、すべてが検証されたわけではない。
ボクシング会場だった能登川スポーツセンター。行けば分かるがとてもじゃないが全国大会で使える状態ではない。
フェンシング会場だった五箇荘体育館。観覧席(ベンチ)は使用不可になっている。
また、例えば
剣道は今津中学校の狭い体育館で行われた。宿泊施設はマキノの民宿への分宿。会場への移動は陸上自衛隊の隊員輸送車だった。今回も同じようにできるか。当時でさえも選手監督から不満が寄せられたと聞いている。できるわけがない。
既存の体育館で観覧固定席があってかつ冷暖房施設が設置されているのは、県立体育館(固定席1905席)、県立武道館(剣道場の固定席250席)、守山市民体育館(固定席1000席)、野洲市総合体育館(固定席1216席)、布引運動公園体育館(同438席)、くらいしかない。あづちマリエートは空調設備が故障中(観覧席は申し訳程度)。
栗東市民体育館(同500席)も暖房が入ることは確認したが、冷房は分からない。これを加えても、7館しかないのである。瀬田公園体育館は冷暖房は入るが観覧席がない。座席数2000を超える体育館は存在せず、中体連や高体連の近畿大会でさえも開催可能なのは県立体育館しかないのが現状である。バスケットのレイクスターズのホームになっていることもあって県立体育館は熾烈な奪い合いになってきた。全国大会などできないのが現状なのである。
室内用50mプールも存在しない。ようは滋賀県は県民の健全な体育活動を保障してこなかったのである。
今回新たに、新県立体育館、草津市野村体育館、彦根市新市民体育センターが、建設中である。観覧席2000席超で空調の整備された体育館が、やっと3館になる。本当に喜ばしい。室内用プールも草津市に整備される。滋賀の体育施設がやっと他県に少し追いつく。そういう感覚なのである。(大津市は本当に何もしない。もう県庁所在地を返上したらどうか)


なのに県民の中にも「身の丈にあった」という謎の言葉を吐く人たちがいる。「キャスト」と同じ感覚なのだろう。滋賀県にはまともな施設は必要ないという、なんとも自らを卑下した、へりくだった人たちなのである。そもそも滋賀の「身の丈」とはどういうものだろうか。人口は26位。一人当たり都道府県民所得4位。都道府県民所得23位。人口増加率8位。大学生の人口比率3位。0才~24才の人口比率2位。滋賀は活気に満ち溢れ、将来性に富んでいる。全国からどんどん滋賀に人が来るようにすればいい。他県に行っても誇れる郷土滋賀を作ればいい。私はそう思う。「身の丈」という言葉は、郷土を矮小化する響きがある。「キャスト」なんか、滋賀のことを何もわかっていない。


番組の中の批判で納得できたのは「なぜこれまで整備してこなかったのか。今回一気にやるから負担が大きいのでは」という批判だけである。「もったいない」がキャッチフレーズの知事の時代、本当に何もかも実現できなかった。体育施設などまさに「優先順位」が下だったのである。今回の国体の開催にその知事が手を挙げた時、「何を言っているのか。本気か」と驚いたものである。
(いったん掲載しますが、さらに続けます。)

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軽減税率に関する報道への違和感3

3回目である。二つのことに触れてみる。

○軽減税率で徴収されない税(約1兆円)の一部を使って低所得者に給付した方が効率的

いわゆる「給付付き税額控除」である。

いったん高率の税を支払う必要があることから、痛税感を和らげる効果は薄い。
所得の把捉と線引きが難しい。
不正受給の防ぎ方が難しい。

などが言われてはいるものの、一考を要する考え方である。

マイナンバーカードを使っての方法を財務省が提案したが、公明党から一蹴された経緯は記憶に新しい。

ただし、一つ疑問がある。一定以下の所得の方に給付を行うという考え方は、定額給付金などで行ってきた経緯があるが、その時マスコミはこぞって「バラマキだ」と批判したのではなかったのか?
多くのコメンテーターに言いたい。
軽減税率にケチをつけ、給付方式を主張するなら、その前にその前歴を総括するべきである。

○「どうせ選挙目当て」という批判について

コメンテーターにとって、こういっておけばとりあえず恰好がつく、という投げセリフ。何も調べなくても、考えなくても、その場限りのええかっこしいができるセリフ。
それが「どうせ選挙目当てでしょ」「あれはバラマキ」
大っ嫌いなセリフである。

国民に受けのいい政策には「選挙目当て」、国民に負担を強いる政策には「庶民の気持ちが分かってない」とりあえずこれを言っておけばニュースバラエティは形が作れるのだ。

問題は政策の中身である。「選挙目当て」という批判を怖がっていては、国民に寄り添った政策を提案できないことになるではないか。
実に愚かなセリフである。

以上3回にわたって、軽減税率に関わるマスコミ報道への違和感を述べてきた。
要は財務省とマスコミが歩調を合わせる姿に違和感を感じるのだ。普段は偉そうに政権批判をしゃべっているコメンテーターも、財務省のお墨付きをもらって安心して批判できるのだろう。
「マスコミは自分の意見を言うよりも、国民に議論の材料をすべて提供せよ。」
今回も深くそう感じる。
 

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軽減税率に関わる報道への違和感 2

前回の続きである。軽減税率に関する報道のどこに私が違和感を感じているのか。

二つ目に、軽減税率を導入する財源がない、というものである。

当たり前のことであるが、まだ消費税は10%になっていない。現在8%で運営されているのだ。軽減税率とは「消費税10%時に食料品を8%据え置く」ということであって「食料品以外の税率を10%にあげる」ということである。
つまり、新たな財源が生まれるという話であって本来財源がなくなるという話ではない。表現の仕方が明らかにオカシイ。
そもそもこんな話が出てくるということは、与党が先の衆議院選挙で公約した軽減税率の導入を無視するつもりで、財務省は予算を考えていた、ということである。国民もバカにされたものである。なのに、なんだか丸め込まれて、軽減税率に反対する人が増えているという。だまされやすいにもほどがある。

普段官僚政治を批判しているマスコミが、なぜか今回は選挙公約を実現しようとしている政党を批判している。やはり「マスコミの裏に財務省あり」と見えてしかたがない。

そもそもなぜ「消費税が足りなくなれば社会保障費を削らざるを得ない」のか。消費増税分を社会保障の充実に充てることは確認されているが、社会保障費の財源は消費税だけではない。

これは脅迫に等しい発言ではなかったのか?

なぜ「防衛費を削らざるを得ない」「公共事業費を削らざるを得ない」ではないのか?
いやなぜ「歳出全体のあり方を見直さざるを得ない」ではないのか?

財務省がそういわないのはまだ理解できるが、マスコミがそういわないのは何故なのか?

軽減税率に関わる報道への違和感

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軽減税率に関わる報道への違和感

軽減税率の導入が世間を賑わせている。

「消費税には低所得者ほど納税率が高くなる逆進性がある。せめて生きていくのに最低必要な食料品の税率を抑えることで、低額所得者の痛税感逆進性を緩和する」
私は基本的に賛成である。

いままでも、財務省が政治家に抵抗する場面になると、なにか違和感のある報道に接することがあった。
今回、政治家が政権公約を実現しようとしたら、自民党税調と財務省が待ったをかけて、それをマスコミが応援している。
違和感を感じない訳にはいかない。

まずは、「軽減税率を導入すると高額所得者のほうが減税額が大きくなる」という批判に対してである。


これは数字のマジックそのものである。ここでは「率」と「額」がすり替えられている。
そもそも、消費税は、税率が上がると低所得者層の負担税が上がる傾向がある(逆進性がある。消費税そのものに反対する人がもっとも強調する点)一方で、高額所得者層のほうがより多くの税を負担することになる、という税なのである。
 逆に言うと
「税をさげれば逆進性は緩和するが、高額を収めていた高額所得者の税がより減る」という特徴をもともと持っている税なのである。
 

 例で見てみよう。

Photo

これが逆進性の説明。低額所得者のほうが5ポイント高い税率で納税していることになる。しかし、高額納税者の方が多い額を納税している。

さて、今かりに消費税を8%に下げてみると、どうなるだろう。

Photo_2

2000万円の所得の方は20万円減額、200万円の所得の方は4万円の減額となる一方、税率ぱ4ポイント差となり逆進性は緩和されている。
これは消費税を廃止する時にも同じことが言える。共産党に「高額所得者のほうが多く減額されるから消費税廃止に反対だ」といったらどうだろうか?  それはオカシイというだろう。しかし共産党は軽減税率の導入に「高額所得者のほうが減税額が大きくなる」といっている。矛盾した話である。

さて、食料品のみ税率を8%に据え置いた場合を具体的に見てみよう。
家計に占める食料品支出の割合は、低額所得者の方が高額所得者よりも高い。総務省の2014年度家計調査によると、平均的な食料品支出割合は24.0%なので、今かりに、低額所得者の食料品支出割合を30%、高額所得者の食料品支出割合を20%としてみた。
Photo_3
一律10%の場合と比べると、
   高額所得者 4万      円の減額(0.2%の減率)
   低額所得者 1万2千円の減額(0.6%の減率)
確かに高額所得者の方が減は大きいが、減は低額所得者の方が大きい。つまり、逆進性は緩和されている。それも、食料品で緩和されている、という点が重要なのである。

軽減税率を額で論じるなら、金持ちにとっての4万円と庶民にとっての1万2千円はどちらに重みがあるか、ということを論じるべきなのである。庶民の痛税感を和らげる、というのにそういう議論がまったく抜け落ちているのはどういうことなのだろうか。

こんなに当たり前のことを、数値をすり替えて批判するテレビのコメンテーター、新聞記者には庶民感覚のかけらもないのではないだろうか。
私はこういう報道に「役人感覚」を感じるのだ。裏に財務省がいると考えているのはそういう感覚の問題でもある。

続き 軽減税率に関わる報道への違和感2

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マスコミと誤報

朝日新聞の誤報への追及が忙しい。

従軍慰安婦に強制連行したとする吉田清治なる人物の証言が誤りである、ということを認め、これを取り消した。また、福島第一原発事故の際に、作業員が所長の待機命令を無視して大半が第二原発に撤退した、という記事も誤りを認めて取り消した。

朝日の誤報はこれが初めてではない。サンゴ礁落書き事件(サンゴ礁を傷つける落書きがある、という話を取材に行ったが見つからず、記者が落書きを新たに書いて写真を撮った事件)は有名である。朝日に自分たちの価値観に合うように現実を操作する傾向があることは、以前から感じてきた。だから私は朝日を購読しない。

しかし、それを攻撃している他社も偉そうなことは言えない。産経新聞は江沢民中国前主席の死去を誤報した。失礼ではすまされない話である。週刊文春や週刊新潮にいたっては、もうむちゃくちゃである。例えば週刊新潮は、松本サリン事件でメディアにこぞって犯人扱いされた河野義行さんから「この記事が一番許せない」と指摘され、それだけではなく約束した謝罪条件を実行しなかった。朝日のミスが許されないことは当然のことだが、だからといって「鬼の首でも取ったように」朝日を批判する資格など彼らにはあるまい。互いが批判しあってよりよいマスコミ界にしてゆこう、というなら別だが。

7月に発表された安保法制に関する「閣議決定」など誤報だらけである。私は2日の新聞紙上の閣議決定文を読んでびっくりした。「集団的自衛権」の語が二か所しか出てこない。

一か所は、
『憲法第9条の下で例外的に許容される「武力の行使」について、従来から政府が一貫して表明してきた見解の根幹、いわば基本的な論理であり、昭和47年10月14日に参議院決算委員会に対し政府から提出された資料「集団的自衛権と憲法との関係」に明確に示されているところである。この基本的な論理は、憲法第9条の下では今後とも維持されなければならない。』

とある場所である。

その上でどのような武力行使がゆるされるか、を検討し『我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみならず、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合において、これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないときに、必要最小限度の実力を行使すること』とした上で、

『憲法上許容される上記の「武力の行使」は、国際法上は、集団的自衛権が根拠となる場合がある。』

としているのが二つ目である。

国際状況の変化によって単純に個別的自衛権と集団的自衛権を区別するのが難しくなった。そこで、今まできちんと議論してこなかった個別的自衛権と集団的自衛権の重なりの部分について、武力行使の対象にしようではないか、ということである。右よりの学者の中には、かえって自衛隊が活動しにくくなった、と嘆いている人もいるくらいである。

これを「すべての集団的自衛権が認められた」と朝日と毎日は警戒し、読売と産経は喜んでいる。どちらも誤報である。法整備の段階でまた議論が再燃することは間違いない。
(おそらく与党協議の段階で恣意的な「リーク」をしてマスコミを操作したのは、集団的自衛権の行使の範囲を広げたい勢力ではないか。国民に「集団的自衛権が容認された」と思いこませた方が、法整備の段階で解釈を広げやすいからだ)

今回判明した従軍慰安婦関連の誤報の最大の罪は、従軍慰安婦に政府や軍が関与していない、と確定したかのような印象を与えたことであろう。慰安婦の移動や性病検査などに軍が関与していたという話は散見され、それら別の証言には別の冷静な検討を加えなければならない。また、慰安婦が売春婦だというような決めつけと蔑みは厳に慎むべきである。

誤報はそれが誤報であるとわかったとしても真実を隠してしまうのだ。

朝日だけでなく、すべてのマスコミ各社に謙虚さを求める機会せねばなるまい。また、ネットに情報を流す私たちも同じである。

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ある評論家

2週間ほど前、テレビを見ていたら、寺島実郎氏が発言していた。

「日本は政治でメシを食っている人が多すぎるんですよ。」
そうそう、だからこそ「政治家」と「政治屋」を見分けてちゃんと投票しなきゃいけないんだよな、と納得しかけた私の耳に、思いがけない言葉が入ってきた。
「国民一人当たりにすると日本の国会議員はアメリカの三倍いるんです」
だから国会議員を減らすべきだ、といいたいらしい。
これはおかしい。
日本の衆議院議員数480人と参議院議員数242人をあわせると、722人である。これを日本の人口1億2千8百万人で割ると、0.00,000,564である。
アメリカの上院議員数100人と下院議員数435人をあわせると、535人である。これをアメリカの人口3億1千万人で割ると、0.00,000,173である。
だから日本の方が3.26倍多い、といいたいらしい。
しかし、多くの人が知っているように、アメリカは合衆国つまり連邦国家である。50の州=国が集まって連邦政府を形成しているのである。アメリカの本体はまずは州であり、州には憲法もあり、州政府もあり、上院と下院をそなえた州議会もある。制度は各州で異なる。外交などの主権にかかわる問題は連邦議会にゆだねるが、国民生活に密着した政治課題は州議会が担当する。
アメリカの州議会議員数は知らないが、ニューハンプシャー州は下院だけで400人。単純に50州を掛けるとそれだけで2万人になり、アメリカは日本をはるかに越える。日本とアメリカを単純比較してはいけないのである。
基礎になる数字の捕らえ方が間違っているだけでなく、政治家全員を指して「政治でメシを食っている人が多すぎる」と言うのは真面目に活動している政治家も一緒くたにした表現で、総選挙前の大切な時期に影響力のある評論家の言う言葉ではあるまい。
政治嫌いを増やすだけで何の意味もない。
私は看過できず、ご本人にファックスを出した。もちろん実名と返信先を明記し、職業も明かした。言葉も極力丁寧に上記の趣旨を礼を失しないように書いたつもりだ。
しかし残念ながら、2週間たった現在、まだ返事はない。
この程度のものか。
以前、ある評論家が「学校が週休2日になって喜んでいるのは学校の先生だけですよ」と言った。
私は、3年間で12時間が削られた分の行事が無くなるなど学校現場は逆に余裕がなくなったこと、部活動の遠征が増え保護者と顧問の経済負担が増えていること、などを挙げて喜んでいる教師はごく一部であることをメールで指摘した。調べもないで雰囲気だけで発言するのはいかがなものか、と。
件の評論家はすぐに返信をよこし、謝罪し、つぎの番組で訂正してくれた。
ずいぶんと違うものである。
寺島氏が私の中で評価を下げたことはいうまでもない。

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橋下知事について

あきれた話である。
大阪府の橋下知事が鳥取県の平井知事に謝罪したという。謝罪したこと自体は当然であるが、私があきれているのは謝罪した原因となった発言である。「鳥取県は60万人くらいの人口で、議員が40数人いるんですかね。鳥取県議なんて6人でいいんですよ」。約880万人の人口の大阪府で88人の府議にする案を橋下知事率いる大阪維新の会が提出しているからである。
今回のことで分かったことがいくつかある。
一つは、橋下氏は事実を認識しないで雰囲気だけで公の発言をする人物であるということである。政治家失格である。鳥取県の人口は58万人の人口で県議は35人である。だいたいあっている、ではいけない。調べないで発言したということ。このことが重要なのである。
二つには、橋下氏は弁護士なのに法律をよく分かっていない、ということである。地方自治法第90条第2項には、「人口70万人未満の県の県議定数は40人以下」と決まっている。橋下氏が事実誤認にせよ鳥取県の人口を60万人と認識していたとしたら、県会議員は40人以上いるはずはないのである。弁護士失格である。
しかもその分かっていない法律が「地方自治法」とくれば知事失格である。地方自治法もよく分からずに知事をしてもらっては困るのである。
三つには、これが最も重要な点であるが、橋下氏は関西広域連合を「大阪中心で他府県を従わせる」形の中央集権をイメージしているらしいということである。中央政府にかわって大阪がそこに座ろうという発想なのではないか。平井知事の反論に対して橋下氏は「『地方自治だから口を出すな』というなら地方交付税制度は成り立たない。府民の金も鳥取に行っている。」と言った。地方公共団体の財政の偏りを解消するために、国が税金を集め分配するのが地方交付税交付金である。これは国から使途を指定されない一般財源である。橋下氏は、国でさえも使途を指定しない交付金の一部を大阪府民が負担しているであろうからといって口を出すことが正当であると言ったのである。

これが、「ひも付き」補助金を批判して国と対決してきた人物のいうことであろうか。まったく真逆の話である。大阪府知事は国以上に他府県に関与すると言うのである。真の「住民自治の原則」「団体自治の原則」という「地方自治の本旨」(日本国憲法)を実現しようなどという理想はかけらも感じられない。彼は大阪さえよければいいのであろう。

そもそもあれほど強気で思いつきをしゃべっておきながら、会議の場ではあっさり謝罪するというのはどうなのだろうか。信じられない。

大阪維新の会が選挙で勝利してからというものの、橋下氏の傲慢さが目に付く。彼には独裁者になる素質があると私は見ているが、今回の発言はそのとっかかりではないかと警戒する。
大阪の皆さん!しっかりしてや!

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マスコミの貧弱な野党観

以前から気になっていたとがある。

例えば、大新聞の社説に「審議を拒否せずに与党に党の主張を突きつけて一部でも飲ませ、与党の妥協を勝ち取るのが本来の野党」とか、「熟議の国会を期待する」とかいう論調が書かれる。

反対するのが野党」というのは五十五年体制下の社会党が作り上げたバカげた野党観である。その意味からも社説に書かれていることは「その通り」とうなずける。

しかし同じ新聞が記事になると、自民の中に民主の政権運営に協力しようとする動きがあると「すわ!大連立へ!」公明党が子ども手当に条件付で賛成すると「民公連携か!」と、なる。記事では政局しか報道しないのである。野党の政策実現は民主を動かさないとできないから駆け引きが必要なのに、少しでも民主に近づいたととられると、まるで権力の亡者であるかのように批判的論調で報道されるのである。

誤解を恐れずいうと、多くの新聞読者は社説を読まない。一面記事の見出しだけ読んでいる人も多い。記事の見出しで権力の亡者にされてしまってはどうしようもないので、野党は政権にとにかく反発しないと立場が維持できない。かくして「野党は反対」の五十五年体制が維持される。

日本人の政治に対する感覚が幼稚なのは、マスコミのせいだ。私はそう思っている。時代は大きく変わっているのに、マスコミの野党観は五十五年体制のままなのだ。しかし大マスコミは、旧態依然とした自分たちが原因なのに、「政争ばかりで政策が論じられない国会だった」などと総括することさえある。厚顔無恥というしかあるまい。

そもそも各紙政治部の記者というのは、果たして各党の政策をどこまで理解しているのであろうか。夜討ち朝駆けで政治家に張り付いているだけでは勉強する時間もないのでは?と同情する。それでは新しい野党観を身につけるヒマもないであろう。記事を作るトップがもっと勉強して社内でのイニシアチブを取るべきである。

不勉強な記者の書いた記事で踊らされる読者は不幸と言うしかない。


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創価学会のこと②

今回から、創価学会を取り巻く批判のなかからいくつかを取り上げ、検証してみたい。

-創価学会は犯罪団体である、という批判-

ネット上で創価学会が犯罪団体であるという話が飛び交い、半ば常識化しつつある。もしそれが本当ならなぜ警察に訴えないのか。信用できる具体的事実も根拠もないのに、人を犯罪者呼ばわりしていいわけがない。

①創価学会員は葬式や通夜で香典を持って帰る。他宗派の仏壇を壊す。

これは古くから言われているものだが、今も巷間伝わっている都市伝説。どちらも、実際に行なわれていたら犯罪である。前者は窃盗罪、後者は器物破損罪。もしそんなことが実際にあれば、うわさで批判したりネットに流す前に、警察に訴えて逮捕してもらうべき。それが市民の義務である。頻繁に起こるようなら、大マスコミも黙っていないし、私たちの耳にも入るはず。しかし、近所でそんな話を聞いたことはない。もしあるというなら具体的な日時と場所を出すべきである。

ちなみに学会の葬儀に参加したことのある人は多いと思うが「香典辞退」である。最近宗派を問わず香典を辞退される方が増えているのは、学会葬の影響ではないかと思う。

全く本筋とは関係ないが、あの焼香者への粗供養(ハンカチやお茶など)も廃止してはどうか。お香典も持っていかず悲しみにくれるご遺族からなにかいただいて帰るのは申し訳ない気がしていつも私は断っているのだが、断るのにもけっこう勇気がいるのである。

②創価学会が反対派を集団ストーカーしている。

ストーカー行為が確認されたら「ストーカー行為等の規制等に関する法律」や各県の「迷惑行為防止条例」に従ってそれも警察に訴えればよい。ストーカーがあったかどうかも、それが創価学会の仕業であるかどうかも、御本人の想像でしかない情報が、あるいは御本人が作ったかも知れない情報が、ネット上で真実として扱われている。典型的なネットが作った仮想犯罪である。これまで誰も逮捕されていない。公明党元委員長の矢野絢也氏『黒い手帳』に出てくる、という人がいると思うが、基本的に学会をやめた人が言っていること。後述するがそのやめ方が悪い。眉唾で聞くべきである。また、清水由貴子さんが学会によるストーカー行為の存在を指摘した音声があるが、「ヘリコプターでつけられ、家に着くと上空でホバリングしていた」と言われるのを聞くと、まったく真実とは思えない。人をつけるにせよ、脅迫・警告するにせよ、なぜヘリを飛ばさなければならないだろうか。いかにも不自然だ。話を聞いている男性が誘導しているように私には聞こえた。ちなみに清水の妹さんが出版された『介護うつ』には由貴子さんの遺書も紹介されているが、そんな話はでてこない。

矢野氏については、以前、選挙の時に自分の当確が伝えられた瞬間「あーよかった!ホッとした!」と恥も外聞もなくカメラの前で大きな声で叫んだのを見た時から、まだ当確していない候補も多いのに失礼だ、党の中心人物として失格だ、と逆の意味で注目してきた。1988年の明電工事件では株の譲り受けをめぐって「自分がしたのではなく秘書の取引を仲介した」と典型的な逃げ。朝日新聞を名誉毀損で訴えておきながら4ヶ月後に取り下げ。民事訴訟もするといいながらしない。簡単に言うとウソつきなのである。ついさきごろも「母校のテニスコート改修費用200万円を横領」した件ではそれを指摘した雑誌に全面敗訴。敗訴の理由は、記事の「重要な部分について真実であることの証明があったと認められる」と裁判所に言われてしまう小悪党である。こんな人物のいうことを信じる方がどうかしている。第一、党役職をやめたら明電工から金を貰っていたことは免罪されるのであろうか。世間やマスコミは何故こんなやつの言うことを信用するのか分からない。

創価学会の方は、矢野氏が党と支持者に迷惑を掛けてやめたということだけでなく、引退後に党の応援を何もせず、支援者に挨拶もせず、政治評論家としてかってなことばかりを話している、その不義理な人間性を問題視しているようである。それを指摘したら退会して牙を剥いてきたということである。もっとも公明党や学会も、こんなやつを信用して重責を担わせたり応援したりしたわけだから、自らの不明を反省するべきであると思う。

矢野氏と学会の争いにネットユーザーが巻き込まれている。そういう事例ではないかと思う。

③学会が選挙のたびに集団住民票移動している。

あり得ないことである。学会員は公明党のおかげで生活保護を優先的に受けられる」「創価学会は貧乏人の集まり」という批判が一方であるが、それと矛盾する。住民票の移動は生活保護家庭にとっては自殺問題ではないか。各自治体の投票人名簿に登録されるには3ヶ月の居住が条件で、その間その人が生活保護を受けるには、再度申請し直しをしなければならない。時間もかかるし、若干制度も違う。必ずしも保護判定されるとは限らない。それ以外にも、住民票の移動には子ども手当の受給や住民税の支払いなど様々な変更を伴う。職場にも届けなければならないだろう。居住実態のない場所への住民票移動は不利益が生じる。

話が本当なら、選挙の3ヶ月前と選挙終了後には、大量の住民票が移動されて役所はてんてこ舞いになるはずだが、そんな話も聞かない。職場の学会員が不自然な住民票移動を繰り返して事務が困っている、という話も聞かない。今まで具体的に学会の住民票移動を証明した人はいない。それどころか逆に過去にこの件を持ち出して抗議され、自民党も社会党も民主党も朝日新聞も謝っている。典型的なウソなのである。

ちなみに住民票移動は、公職選挙法の「詐欺登録罪」と刑法の「公正証書原本不実記載罪」、さらに住民基本台帳法に反する。やはり本当に見聞きしたのなら警察へ行くべきである。

④学会は反対派を粛清する。

ここまでくるとオームである。オームの場合、いつだれがどのように粛正(ポア)されたか明らかになった。

学会はどうであろうか。

東村山で市議が殺されたなどという事件がよく指摘されるが、裁判記録は明確である(『東村山市民新聞事件』)。これを覆すのは難しかろう。裁判記録は勝敗そのものよりも勝敗の理由となる判決文に注目する必要があるが、元市議側が提示した事実は全く裁判所に信用されていない。

私たちは創価学会を敵に回して批判している人々をたくさん知っている。著名人であればあるほど影響力があるはずである。民主党の石井一議員、ジャーナリストの溝口敦氏、元公明党委員長の矢野絢也氏だけでなく、共産党は集団で「赤旗」も使って学会批判をしている。テリー伊藤は『お笑い創価学会』という本を書いて学会を笑い飛ばした。すでに亡くなった人には元毎日新聞記者の内藤国夫氏もいた。また、元顧問弁護士の山崎正友氏と元教学部長の原島嵩氏は学会をやめただけでなく攻撃に転じ、多くの情報をマスコミに流した。そうした大物が誰か殺されただろうか。(ちなみに故人となった人の死因は病死でありそれを疑う人はいない。)

失礼だが、東村山事件の朝木氏がどの程度世間に影響力を持っていたというのだろうか。私たち一般の市民は、週刊誌の報道があるまで朝木氏の存在さえ知らなかった。彼女が学会を批判していることさえ知らなかった。彼女が影響力を持ったのは、週刊誌が「朝木氏は学会に殺された、という人がいる」と言い出してからである。このような影響力の小さな反対派の人々をいちいち手に掛けていたら、どれだけの人を殺さなければならないのか。実際、どれだけの人が殺されたというのだろうか。確定的な被害者がいるなら挙げてみればよい。

それが説明できなければ、「学会は反対派を粛清する」という話はヨタ話であるというしかない。人を殺人者呼ばわりするからには、キチッとした事実を把握しておく必要があることは言うまでもない。

⑤創価学会は日本を支配しようとしている。

ほとんどショッカー扱いである。まず、具体的にどういう状態に持っていくことが「支配」することになるのか分からない。こういうことをいう人の意見を読んでみてもイメージが共有できないのである。どうも主張している御本人も、具体的にどういう状態が創価学会による支配の完成で、どうやってそういう状態に持っていこうとしているのか、という現実味のある話はイメージできていないらしい。

「創価学会員が社会の多方面に進出している」という話はよく聞くが、これだけ大きな団体なら、司法にも、官僚にも、警察にも、教育界にも、地域の役員にも、国会にも、地方議会にも、財界にも、中小企業にも、芸能界にも、主婦にも、様々な分野に会員は広がっているであろう。そのことを持って問題視するのは意味がないし、それを「阻止しよう」などという人がいるが、魔女狩りと同じである。芸能人やスポーツ界などの有名人で学会員の名前を挙げるスレやサイトがあるが、完全な人権問題である。そんなことをしたり、読んで喜んでいる人には、学会のことを批判する資格などあるまい。

ただ、池田氏の比較的古い著作に登場する言葉として『総体革命』という言葉は確かに気になる。『青年の譜』(1970年)にあるその言葉を引用してみると次のようになる。

由来 革命には/政治 経済 教育の革命があろう/しかし/その一つひとつの/孤立した革命には/堅実はなく 無理と偏頗が生ずるのだ/政治革命のみでは/血の犠牲がともない 民衆の安堵はない/またも権力者は大衆の上に君臨していく/はたまた経済革命にも/民衆の満足はない/富なき庶民を蹂躙 空転していく/さらに教育の革命のみでも/民衆の幸はない/揺れ動く 世界の動乱に耐えないだろう

二十一世紀に生きゆく/民衆の願望は/外形のみの改革にはない/一人ひとりの哲学と思想の中に/平和裡に漸進的な/汝自身の/健全なる革命を願っている/これには長期の判断と/深い哲理を必要とする/これを総体革命と命名したい

一部だけ取り出しておいてこんなことをいうのは何だが、全体を読まないと原意はつかめない。この詩は七〇年安保闘争が終わった年の暮れに発表されている。米ソ冷戦も激しい時代である。安保闘争に敗れ、目標を見失いがちになった青年層に訴えかけるために、「革命」という言葉を使ってインパクトを狙ったのではないか、と推察する。

では何をもって「革命」とするのか。簡単に言うと、「政治革命や経済革命や教育革命も否定はしないが、目に見えるところの革命だけではうまくいかないのではないか。人間の考え方が変わって、社会がゆっくりと全体的に変化する。そういう平和的な変革を目指す」ということ。

そして、信仰は自分の変革のために必要で、それが可能なのが日蓮の教え。日蓮の教えを信仰して人間革命しようという人間が社会の各分野で活躍することが、社会を良い方向に持っていくことになる。それが可能かどうかは、創価学会員一人一人が今どういう生き方をしているのか、で証明される。生き方の追求こそが学会員のテーマなのだ、負けられない人生の戦いなのだ、と。学生時代に耳にタコができるほど聞かされた話である。記憶にたよる部分が多く厳密ではない点お許しいただきたい。

確かに現場の学会員は人間革命という言葉をよく使う。社会の変革のためには自分がよりよい存在にならなければ、と強く意識していることは間違いない。いや社会の変革などという大それたことは考えなくても、今の自分ではまだまだだ、という自己変革欲求を学会員はよく口にする。生半可にきくと 「人間革命」=「洗脳」になるのだが、学会員と対話すれば「洗脳」にほど遠いことはわかる。ようは真面目なのである。

「総体革命」とはそういうことらしい。私の説明でよく分からない方は(私もよく分かっていないが)、真正面から元意を探ってみた上で、議論されてはいかがか。少なくとも日本を支配しようなどとは、いかなる文献にも出てこない。出てこないからには現場の学会員は意識していない。現場がついてこれないことはいくら創価学会の首脳陣が突然言っても出来ない。巨大教団であればあるほど当たり前である。

何度もいうが、批判するならそれだけの根拠を挙げるべきである。批判者が根拠のいい加減さを指摘され、「根拠がいい加減だと言うことを証明しろ」と開き直るのは、「盗人猛々しい」ということわざがぴったりである。

(以後、続く)

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創価学会のこと(「創価学会批判」論序章)①

ある友人の思い出

 予備校に通っていたとき、民青(民主青年同盟=共産党の青年組織)に所属して活動している友人がいた。勉強しなければいけないはずの浪人生だが、受験勉強一色の生活にあきたらず、彼とはよく議論をした。批判精神が旺盛な青年期のこと、話が合うこともあったが意見のすれ違いもあり、また何よりも受験生の立場で共産党の活動をしていることが理解できず、私が民青に参加することはなかった。

 そんなある時、彼からお誘いを受けた。創価学会の池田名誉会長の展示会に誘われているがいっしょにこないか、というのである。創価学会会員に友人がいて誘われたのだそうだ。共産党には創価学会に対する抵抗があるということは私もなんとなく知っていたが、断り切れず、私も道連れにということらしい。私は、高見の見物ができそうだと判断しいっしょに参加した。

 しかし驚いたことに、その民青の友人はとにかく感動した。「共産党は小さな違いを見つけては敵をつくるけど、そんなことでは平和を築くことなんかできないと思ってきた。ここに(池田氏のこと)世界を結ぼうとしている人がいる」とさえ言った。彼は創価学会には入会しなかったようだが、好意的な印象をいだいたことは間違いない。私は池田氏が会っている、展示に出てくる人々がどのような人なのかよく知らなかったので、彼がなぜそれほど感動しているのか分からなかった。しかし、彼に紹介してもらった友人の紳士的な態度とあいまって、好印象を持ったことは事実である。

大学時代

 大学時代にはとにかく議論をした。いろいろな宗教の人とも話をしたし、学会員ともよく話した。学会員の話を聞きに行くと、とにかく熱心に勧誘される。私もおとなしい方ではないので反論するのだが最終的には論破されて、最終的には“やるかやらないか”という次元まで持って行かれる。そういう経験を性懲りもなく何回も繰り返した。正直腹も立った。学会員の友人と疎遠になった時期もあった。しかし、そこから言えることは、彼らほどよく理論を学び生活に生かそうとしている人たちを私は知らない、ということである。その理論も日蓮や学会の手前勝手な理論だけでなく、古今東西の哲学や昨日の毎日新聞の文化欄なんかがすっと引用されるのである。人間はもっといいかげんな存在でもいいと思っている私からすれば、完璧すぎて逆に抵抗感がある。しかし間違いなく言えることは、創価学会員は、洗脳されてもいないし、弱い者が集まっているのでもない。彼らは有意義に前向きに生きようとすることにかけて人一倍真面目なのである。しかしその真面目さが、外から見ると異様に見えることもあるのである。だって本来人間はいい加減なものだから(これはもちろん私の考え方)。といいながらも、私は、そうした真面目な行き方があることを学んだし、その一部は私のなかで生きている。(私の最も仲のいい学会員の友人は、そうした人間の機微を実にうまくとらえている。根っこが真剣で真面目なのに余裕を感じられる生き方をしているので、安心してつきあっていける友人の一人である。)

 ただ恐らくは、このように学会員から「折伏」を受けた人の中に、学会の悪口を言っている人がけっこういるのは間違いない。当時の「折伏」はそれほどに強烈で、ある意味強制力をも感じさせられるものであった。プライドを痛く傷つけられた方もおられたはずである。ただ時々、「強制されて学会に入れさせられた」という人がいるが、それは言わない方がいい。自分は弱い人間ですよ、と告白しているようなものである。

その強烈な折伏も近年おとなしくなったと私は感じる。特に、独善的だ、とか、排他的だ、とか言われる傾向性は、どうやら創価学会を破門した日蓮正宗の傾向のようである。破門以降の創価学会は、より対話がしやすくなったし国際的な評価も高まっていると思う。

ジャーナリズムと創価学会

 そうした大学時代は、出版社系週刊誌が毎週のように創価学会と池田名誉会長を批判していた時期でもあった。現在ネットで半ば常識化している創価学会攻撃のネタはこの時に週刊誌によって指摘されたものが多い。まるで洪水のような報道であった。

大学で卒業とは関係なく興味に任せて好きな講義を履修していた私は、マスコミ論に強い興味をいだいた。マスコミがスケープゴートを作って集団ヒステリックになるときは誤報を生じやすく、それだけでなくバックに政治勢力の意図が働いていることがある(アメリカのマッカーシズムがその典型)と学んだ私は、創価学会攻撃の裏にもなにかあるのかな、と軽い興味を持っていた。そんなときに出会ったのが、ノンフィクションライターでジャーナリスト柳田邦男氏の『創価学会名誉会長池田大作は何を考えているか』であった。書店でこの本を見た私は、「あの柳田邦男も学会を批判するのか」という興味で手に取ったのだが、まえがきに次のように書かれているのを読んで、これは質が違う、と即座に悟った。

「さて、ここ数年、〈池田大作〉に関わる情報が、まるでディスコのミラーボールに反射される乱光線のように、飛び散っている。(中略)〈池田攻撃〉が、例の『創共協定』直後から公然と展開されはじめたことを思えば、この戦略を誰が計画・立案したかを見破るのに時間がかかるとは思われない。

 加えて、いかに「なりふり構わぬ」のが戦いの常とはいえ、今日までのいわゆる〈池田スキャンダル〉攻撃は、実に「エグイ」の一言に尽きよう。同じジャーナリズムに働く者として、恥ずかしい思いさえする。(中略)日本の〈ジャーナリズム〉が、どうしてここまで腐ってきたのか-。」

 柳田氏は、創価学会攻撃の背後に、創価学会と共産党が手を結ぶことに危機感を感じた保守勢力の意図が働いていること、当時の〈ジャーナリズム〉(あくまで〈 〉つき)がそのために利用されていること、を指摘した上で、実際の池田大作の人物像を浮かび上がらせようとしたのが本書である。そのために彼は、相当な量の学会系出版物と学会批判の文章を読み、学会サイドにも取材し、池田名誉会長本人にも取材したこともあるという。他人を批判するにはその主張を真っ正面から把握してから行なうのが当たり前である。それは批判者の義務である。学会系の本を読めば考え方が学会寄りになるから読まない、という批判者がいるようだが、根っからおかしい。それは、学会の主張に説得力があるということを認めているにすぎないし、その批判者は自らの言葉が根拠のない無責任なものである、と証明していることになる。私には柳田氏のジャーナリストとしての姿勢はまったく正しいものだと思った。この本は今でも私の書棚に並んでいる。

 当時の暴風雨のような、批判のなか、創価学会の書物を読みきちんと取材して正面から創価学会を論じようとした本は他にも存在する。私が当時読んだだけで、丸山実著『月刊ペン事件の内幕 狙われた創価学会』、竹中労著『仮面を剥ぐ 文闘への招待』、岡庭昇著

創価学会問題とジャ-ナリズム ― メディアの罠・権力としてのマスコミ』などがある。創価学会攻撃の裏側に保守権力の策動を見て取っていることが共通点である。

大学の図書館には学者の書いた本もあった。経営学者の後藤弘は『創価学会の経営学的分析』を出していたし、日本史学者の笠原一男氏は『一向一揆と創価学会』を書かれていた。この書は、初版出版時に学会員から寄せられた様々な反応を第2版以後に分析しておられ、面白かった。最近も、創価学会を学問的に論じようとしている書は存在する。社会学者の玉野和志著『創価学会の研究』や宗教学者の島田裕巳著『創価学会』などである。両者とも多くのデータや資料に当たって書いているが、学会員に直に取材したりなどしてその実態に迫ろうとする姿勢に欠けており、面白みに欠ける。むしろ少し前の本であるが、別冊宝島の『となりの創価学会』や中央公論誌上に掲載された田原総一朗の池田インタビューが面白い。また、記憶に新しいところでは『中央公論』20104月号が、脳科学者の茂木健一郎氏と池田大作氏の往復書簡を掲載した。茂木氏の次の言葉は特記されていい。

「もともと、私が「池田大作さんとお話ししてみたい」という希望を抱いた理由の一つは、日本のメディアの中で池田さんが長年指導されてきた「創価学会」、及び池田大作さん御本人の扱われように違和感を抱いていたという点にあります。

全国に百万単位の会員が存在する創価学会。そこに集う人たちにとっては、生きることの糧、支えになってきたのでしょう。ゆかりの深い「公明党」は、一〇年にわたって連立政権に参加してきました。そのように日本の中で大きな意味をもつてきた組織に向き合うことが「ダブー」であるような状況はおかしい。そこには人工的につくられた「壁」がある。そのことによって、大切な対話が閉ざされている。そのように感じてきました。

(中略)私は、多方面に大きな影響を及ぼしてきた池田大作さん御本人と対話することで、「壁」を溶かしてみたいと願ったのです。」

また、ただの一創価学会員の千葉隆氏が、飛鳥新社の土井社長が集めた巷間言われている学会に対する批判に答えた『池田大作の事』も面白い。学会批判をされる方は一読されることをお薦めする。

ネット上の創価学会攻撃の異常性

以上のような経緯と多くの学会員との対話、そして学会系書物の読書の結果、現在の私に映っている創価学会像は、ネット上で言われているのものとは全く別物である。現今のネット上の創価学会には大きな問題を感じている。あからさまなウソがはびこり、創価学会員にだけは人権がないかのような明らかな人権侵害が横行している。

竹中労の『仮面を剥ぐ』に、1980年代当時の週刊誌の学会総攻撃を指して

「一方的な敵意をエスカレートさせるのみで、問題の本質に迫る論争が不在であるこのような力関係で、“勝敗”をきめるのは結局、物量の差でしかあるまい。(中略)“言論のフェアプレイ”いずくにありや?」

とあるが、現在のネット上の創価学会攻撃はそれを上回っている。Yahoo知恵袋などのQ&A形式のコミュニティサイトには、創価学会を批判することが目的の、事実誤認を助長する質問が毎日のように行なわれ、その事実誤認を誰かが肯定することで真実であるかのように喧伝している。2chには創価学会批判が洪水のように押し寄せ、うわさと悪意と感情のカオスのような状態となっている。もし批判者を批判しようものならたちまち袋だたきに会う。私は創価学会批判者こそ何かに洗脳されているのではないか、という不自然さや狂気を感じるのだ。

 創価学会だけがこのような不自然な批判にさらされるのはおかしい。「批判をするからにはきちんと裏付けを取る」という当たり前の姿勢がネットの学会批判者らには実に薄い。ここにはフェアプレイはない。

 次回以降、典型的な創価学会批判のなかで、ウソ・デマと判定できるものを取り上げてみたい。もちろん創価学会をまっとうに批判したものもあるが、それはここでは対象ではない。私の目的は創価学会を持ち上げることではない。私の興味はネット情報の異常性にあり、創価学会はそのためのネタである。「韓国修学旅行で土下座って本当?」でネット上にガサネタが流されていることに論及した人間として、創価学会に対するガサネタの嵐を看過していていいのかという、私なりの正義感でこれを書くのである。したがってこれは「創価学会論」ではない。「創価学会批判論」である。

読者の皆さん。コメントは、せめて上記の本を一冊や二冊読んでして下さい。

まっとうなご批判には時間をかけてでもお応えさせて頂くつもりです。可能な限りにおいて。

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